水の輪廻
目を開けると、そこは水の中だった。
暗く、冷たい水が全身を包み込む。肺が圧迫され、酸素を求める悲鳴を上げている。なぜここにいるのか。なぜ、息ができないのか。理解が追いつかないまま、本能的に手足を動かす。しかし、水は重く、体を押し戻すばかりで、光の届かない水底へと沈んでいく。
苦しい。
水が喉の奥へと流れ込み、肺が破裂しそうだ。視界が白く霞み、やがて黒に染まる。意識が遠のく感覚だけが、妙に鮮明だった。
そして、再び目を開ける。
また、水の中だった。
全身を包む冷たさ、肺を圧迫する感覚、そして、なぜここにいるのかという疑問。全てが、つい先ほど経験したばかりのデジャヴュ。いや、デジャヴュではない。これは――。
思考が追いつく前に、再び水に沈む。抗う術もなく、同じ苦痛を味わい、そして、死んだ。
三度目も、四度目も、同じだった。水の中で目覚め、理由も分からず溺れ、死んで、そしてまた水の中で目覚める。まるで壊れたレコードのように、同じ光景が繰り返される。
何日経っただろうか。あるいは何時間か。時間の感覚すら曖昧になるほど、私はこの無限の水の中で死と再生を繰り返していた。もはや恐怖よりも、この状況への倦怠感、そしてわずかな希望のようなものが生まれていた。少しずつ、水の中で体を動かすコツを掴み始めていたのだ。
五回目の「生」で、私は必死に水面を目指した。手足を掻き、重い水を押し退ける。肺は悲鳴を上げているが、今までの死の苦しみが、私を突き動かす。水面が近い。光が。
バシャッ!
顔を水面に出すと、一気に空気が肺に流れ込んできた。むせながらも、貪るように酸素を吸い込む。周りを見渡すと、あたり一面、暗闇に包まれた水だった。どこまでも続く、漆黒の湖。そして、その中心に浮かぶ私。
「どこなんだ、ここ……」
掠れた声が、暗闇に吸い込まれていく。水面は不気味なほど静まり返り、何も映していない。恐怖が再び全身を支配し始める。この水は、一体どこまで続いているのか。
泳ぐしかなかった。どこへ行くかも分からないまま、無我夢中で水を掻き続けた。体が冷え切り、指先が痺れてくる。どれくらい泳いだだろうか。体力の限界が近づいたその時、微かに、水面に揺れる何かの影が見えた。
「あれは……陸?」
希望に縋るように、最後の力を振り絞って泳ぐ。影は少しずつ大きくなり、やがて岩肌であることが分かった。私は必死によじ登り、滑る岩にしがみついて、ようやく水から這い上がることができた。
全身から力が抜け、その場に倒れ込む。肺はまだ酸素を求めてひゅうひゅうと鳴っているが、水の中にいた時のような息苦しさはない。体を震わせながら、私は周囲を見渡した。
そこは、奇妙な場所だった。岩肌の壁がどこまでも続き、その上には薄暗い天井が広がっている。まるで巨大な洞窟の中にいるようだ。しかし、洞窟にしてはあまりにも人工的な印象を受けた。壁には規則的に並んだ小さな窪みがあり、そこから微かに青白い光が漏れている。
立ち上がり、震える足で歩き始める。光の源を探すように、壁に沿って進むと、その先には通路があった。薄暗い通路をしばらく進むと、やがて開けた場所に出た。
そこは、広大な空間だった。床一面に水が張られ、その中央に巨大な柱がそびえ立っている。柱の表面は滑らかな金属でできており、上部には無数のケーブルが絡みついている。そして、その柱の周りを、いくつかの透明なカプセルが浮遊していた。
カプセルの中には、人がいた。
いや、人だったもの、と言った方が正しいかもしれない。彼らは生気がなく、肌は青白く、まるで水に浸かったマネキンのようだった。しかし、よく見ると、微かに胸が上下している。彼らは生きているのだ。生かされているのだ。
ぞわり、と全身に悪寒が走った。なぜ彼らがカプセルの中にいるのか。なぜ、この水に満たされた空間にいるのか。そして、私自身はなぜ、この場所で「リスタート」を繰り返していたのか。
私はカプセルに近づいた。透明な壁の向こうに、青白い顔が浮かび上がっている。その顔に見覚えがあった。何度も水の中で死に、そしてまた目覚める中で、一瞬だけ視界の隅に映り込んだ、水底の影。あれは、まさか。
震える指で、カプセルに触れる。冷たい感触が指先から伝わってきた。ふと、カプセルの側面に小さな表示があることに気づいた。英語で、しかし明確に、こう記されていた。
「SUBJECT:UNKNOWN STATUS:INITIALIZING」
そして、その下には小さな数字がカウントアップしている。私はその数字を凝視した。そして、その数字が、私が「リスタート」した回数と一致していることに気づいた。
「まさか……」
思考が急速に繋がっていく。私が死んだのは、このシステムの一部だったのか? 水の中で目覚め、溺れ死ぬという行為自体が、何かの実験の一環だったのか?
私はさらに奥へと進んだ。カプセルが並ぶ空間のさらに奥には、制御盤のようなものが設置されていた。無数のボタンと、点滅するモニター。モニターには、様々なデータが表示されている。その中に、見慣れた文字を見つけた。
「EXPERIMENT LOG」
恐る恐る、その文字をタッチする。画面が切り替わり、膨大な量のログが表示された。目を皿のようにして読み進める。そこには、信じられない情報が記されていた。
この施設は、「不老不死のシステム」を研究するためのものだった。人間が肉体を失っても、意識だけをデータ化し、新たな肉体へと転送する。その「転送」の実験段階で、様々な不具合が発生していた。
その不具合の一つが、私が経験していた「水の中でのループ」だった。
「肉体の再構築が不完全な場合、対象の意識は、初期設定された『液状データプール』に送られる。そこで意識は再構築を試みるが、肉体への結合が不完全なため、溺死状態を繰り返す。これは、肉体との同期エラーを検出するための、一種のデバッグプロセスである」
デバッグプロセス――。
私は、実験動物だったのか。不老不死などという、途方もない夢を叶えるための、使い捨てのデータだったのか。
私はさらにログを読み進めた。
「水中の意識は、自己修復能力を有している。デバッグプロセスを繰り返すことで、肉体との結合をより効率的に行う方法を自ら模索する。この自律的な学習機能により、転送成功率は飛躍的に向上した」
つまり、私が苦しみながらも水から脱出し、この場所にたどり着いたこと自体が、彼らの「実験」の成果だったのだ。私が死を繰り返すたびに、彼らの「不老不死システム」は完成に近づいていたのだ。
奥歯を食いしばる。怒りよりも、絶望が私を襲った。自分は、彼らの手の中で、踊らされていた人形に過ぎなかった。
モニターの隅に、ある情報が表示されていることに気づいた。
「最終フェーズ:転送準備完了」
そして、その下には、いくつかの名前が並んでいた。見覚えのない名前ばかりだったが、その一つに、見慣れた文字が並んでいるのを見つけた。
「Subject ID: 007 - Name: Saku Minazuki」
私の名前だ。なぜ、私の名前がここに?
そして、その隣には、こう書かれていた。
「TRANSFER DESTINATION: EARTH - NEW BODY」
新たな肉体。地球へ。
まさか。
私は、この世界で、別の誰かのデータとして、再び生かされようとしているのか。それも、私の意思とは無関係に。私の意識は、この水の中から抜け出した今も、彼らの掌の上にあるのだ。
私が必死でこの「デバッグプロセス」を乗り越えたのは、彼らの実験を成功させるためだった。私は、より効率的な「転送」を実現するための、サンプルに過ぎなかったのだ。
振り返る。巨大な柱。そして、その周りを浮遊するカプセル。
カプセルの中の「人だったもの」たち。彼らもまた、私と同じように、この水の中で「デバッグプロセス」を繰り返していたのだろうか。そして、彼らもまた、最終的にこの場所へたどり着き、新たな肉体へと転送される運命なのだろうか。
私の視線が、モニターに固定されたままだった。
「転送開始まで、残り30秒」
カウントダウンが始まっている。
私は、自分の意識が、この場所から切り離され、見知らぬ誰かの体へと放り込まれることを想像した。私の記憶は? 私の個性は? それらは全て、彼らに都合の良いように操作され、再構築されるのだろうか?
水の中にいた時よりも、もっと深く、もっとどうしようもない息苦しさが私を襲った。それは、酸素が足りないという単純な苦しみではなかった。自分という存在が、根底から覆されるような、存在そのものを否定されるような、そんな恐怖だった。
「転送開始まで、残り10秒」
モニターの光が、私の顔を青白く照らしている。私は、自分が無力であることを悟った。抗う術など、どこにもなかった。
この水は、私の始まりだった。そして、この水は、私の終わりでもあった。
「転送開始まで、残り5秒」
私は、水に溺れることよりも、これから起こることに、身も心も縛られていく感覚を味わっていた。
「4」
「3」
「2」
「1」
水が、私の喉元まで迫ってきている。私は、目を開けたまま、意識が闇に飲まれていくのを感じていた。
そして、再び目を開ける。
そこは、見慣れない天井だった。
乾いた空気が肺を満たす。体は軽い。どこも痛くない。
しかし、なぜか、妙な違和感があった。
ゆっくりと体を起こす。知らない部屋だった。そして、鏡に映る自分。
そこには、私の知っている顔があった。しかし、その瞳の奥には、見慣れない光が宿っていた。
私は、本当に私なのだろうか。
水の中から脱出したはずなのに、私は、まだこの「水」の中にいるのかもしれない。
永遠に続く、存在という名の、水の中に。