第5章:ふたりの選択
第5章:ふたりの選択
夏が近づいていた。
図書館の入り口には風鈴が吊るされていて、ガラス越しに小さな音が響く。季節は変わり、空も街も、少しだけ色を変えていた。
相原誠は、いつものように閉館間際の図書館にいた。
けれど、それはもう「逃げ場所」ではなくなっていた。
ここは、誰かと向き合う場所。そう感じられるようになっていた。
「お待たせしました」
そう言って、白石結が小さな紙袋を手にやって来た。今日は休憩時間を使って、少しだけ話そうと約束していた。
「……これ、好きな作家の新刊。おすすめしたくて」
彼女が差し出した袋の中には、布張りの装丁の小説が一冊入っていた。手触りも温かく、丁寧に選んだことが伝わってくる。
「ありがとう。……なんか、嬉しいです」
誠が言うと、結はほんの少し微笑んだ。
かつては笑わなかった彼女の表情が、今はほんのりとやわらかい。
二人は館内のベンチに並んで腰を下ろした。
言葉がなくても、無理に埋めようとする必要はもうなかった。
「この前……“自分を大切にしたい”って言ったの、覚えてますか?」
結が、ゆっくりと話し始めた。
「正直、今でもまだ手探りです。人と距離を詰めるのは怖いし、期待されるのも、応えるのも……簡単じゃない。でも、それでも、“誰かと一緒にいるってどういうことか”を考えてみたいと思ったんです」
誠は、黙って聞いていた。
その言葉の一つひとつが、彼女自身と向き合った証のように感じられた。
「だから……相原さんに何か“返す”とか“応える”とかじゃなくて、これから少しずつ、一緒に考えていけたらなって。そう思ってます」
誠の胸に、静かに波紋が広がる。
恋人になるとか、付き合うとか、そういう言葉よりも、ずっとまっすぐに響いた。
「……うん。僕も、そう思います。これまで、誰かと“こうあるべき”っていう形に縛られてばかりで、いつの間にか、“本当の関係”が何なのか、わからなくなってた。……でも、今は、ただ一緒にいて、少しずつ互いのことを知っていく。それが大事なんだって思えてる」
結は少し驚いたように彼を見た。
そして、目を細めるようにして小さく笑った。
「……それ、すごくいいですね。今の言葉、すごく好きです」
その言葉に、誠も照れくさそうに頷いた。
ふたりの間には、“付き合う”という言葉はなかった。
告白も、約束も、未来を縛るようなものは一切なかった。
けれど、それでも十分だった。
「……じゃあ、またこの図書館で、おすすめの本を教えてください」
「はい。あなたも、最近のお気に入りを持ってきてくださいね」
そんな風に、約束でもなく、自然なやり取りが続いていく。
図書館を出ると、外には少し風が出ていた。
風鈴がからん、と鳴る。夕暮れの中で、ふたりの背中が並んで歩いていく。
——誰かを大切にするということは、
言葉を急がず、沈黙を怖れず、「一緒に考えたい」と伝えることかもしれない。
それは恋のようでいて、でももっと深く、静かに染みわたるような感情だった。
ふたりの選んだその歩幅は、まだ不確かで、ゆっくりだった。
けれど、その速度こそが、今の彼らにとって必要な「始まり」だった。