第3章:衝突とすれ違い
第3章:衝突とすれ違い
季節は梅雨の終わりへ向かっていた。相原誠は、仕事帰りにふたたび図書館を訪れることが日課になっていた。白石結とのやり取りは、言葉こそ少ないものの、少しずつ重ねられていた。互いの間にあった壁は、ほんの数センチずつ、だが確実に薄くなっていた。
その日も、閉館間際の静かな時間だった。
「……最近、来る頻度、増えましたね」
結が小さく笑って言った。
「ええ、たぶん……話したいからだと思います」
誠は正直に言った。図書館を利用するふりをして、ただ誰かと心の奥の言葉を交わしたかったのだ。それが許される相手が、彼にとって結だった。
結はそれに答えず、目を伏せたまま、デスクに積まれた本のカバーを整え続けた。ふと、その手が止まる。
「……ねえ、相原さんって、優しいですよね」
「え?」
「たぶん、私みたいな人の話にも、ちゃんと耳を傾けてくれるし」
「……それって、ダメなことですか?」
誠の声が少しだけ強くなった。
「ダメじゃないです。ただ、少し、怖くなるんです」
「怖い?」
「優しさに甘えそうになるのが、怖いんです。私、うまく関われる自信がない。あなたの気持ちに応えられるかもわからないし……」
言葉の終わりがかすれた。誠は立ち上がり、カウンター越しに結を見つめた。
「……僕は、ただ……少しでも気持ちが通じ合えたらって思ってただけです。別に見返りなんて——」
「でも、きっと期待してますよね?」
彼女の言葉は、静かだった。それだけに、胸に鋭く響いた。
「人って、“わかってほしい”って思うものだし。優しさも、気遣いも……無償じゃ続けられない」
誠の表情が曇る。
「……そうかもしれない。でも、だったら、どうして僕のことを少しでも受け入れようとしてくれないんですか? 僕だって……怖いんですよ。近づいて、拒まれるのが」
声が少しだけ大きくなった。図書館の静けさが、二人の会話を際立たせる。
「……どうして、そんなに距離を置くんですか? せっかく、少し近づけた気がしたのに」
結は、俯いたまま言った。
「ごめんなさい。私……誰かと関わるのが、まだ怖いんです。うまく笑えないし、自分のことを話すのも、怖くて」
「でも、それじゃ何も変わらないでしょう?」
誠は思わず吐き出していた。どこかで冷静さを失っていた。——いや、本当はただ、わかってほしかっただけだ。
自分の言葉が、彼女を傷つけたことにすぐ気づいた。
結は静かに、ほんの少しだけ目を伏せたまま答えた。
「……私、少し距離を置かせてください。今のままじゃ、ちゃんと向き合えないから」
それきり、二人の間に言葉はなかった。
誠は重たい足取りで図書館をあとにした。背中に、彼女の小さな背中が焼き付いていた。
夜風が湿っていた。街灯の下で足を止めたとき、彼は自分自身の心の声に耳を傾けた。
「……どうしてわかってくれない、じゃなくて」
その先に、続く言葉が浮かんだ。
「——僕はただ、誰かに本当に理解されたかっただけなんだ」
胸の奥が、ゆっくりと痛んだ。怒りも、寂しさも、結局はその裏返しだった。
でも、その“本当の声”を、ちゃんと伝えられたことは、まだない。
それに気づいたとき、ようやく、自分もまた彼女と同じ場所にいたことを理解した。