第2章:少しずつ近づく距離
第2章:少しずつ近づく距離
それから数日後、相原誠は再び図書館を訪れた。あの日の会話が胸に残っていて、気づけば足が向いていた。理由は自分でもはっきりしない。ただ、あの言葉——「その笑顔、本当にあなたのものなんですか?」が、心にひっかかっていた。
図書館の中は静かだった。午後の光が大きな窓から差し込み、本棚と机に柔らかい影を落としている。受付カウンターの奥に、白石結の姿があった。目の前の資料に目を通しながら、時折ペンを走らせている。
誠はしばらく本棚をうろうろして、ふと彼女の近くの閲覧席に腰を下ろした。
「……また雨が降りそうですね」
数分後、顔を上げた結に声をかけると、彼女は意外そうに誠を見つめ、それからうっすらと笑った。
「また雨宿りですか?」
「今日は……たまたま」
そう言いながら、誠は苦笑した。本当は偶然ではなかったのに。
「忙しそうですね、仕事」
「まあ、資料整理って終わらないんです。終わったと思ったら、また山が届くから」
「なんだか……僕の仕事に似てるかもしれません」
結は少し首をかしげた。「営業でしたっけ?」
「ええ。IT企業の、なんというか“とにかく数字”なところでして」
誠は息をついた。こんな風に仕事のことを誰かに話すのは久しぶりだった。
「相手に合わせて、機嫌をとって、納得させて。そうやってやりくりして……でも、なんでこんなに疲れるんだろうって思うんです」
「……本音を言えないからじゃないですか?」
ふと結が言った言葉が、誠の胸にまっすぐ刺さった。
沈黙。誠は少しだけうつむいて、小さくうなずいた。
「そうかもしれない。言わなくて済むなら、そのほうが楽だと思ってた。でも……それって、自分を隠すことですよね」
その言葉に、結はゆっくりと立ち上がり、本棚へ歩いていった。そして、一冊の本を持って戻ってきた。
「これ、好きな本なんです。“言葉を飲み込んでばかりの人が、少しずつ声を取り戻していく話”なんですけど」
彼女は表紙をこちらに向けて差し出した。タイトルは『声の小さな人』。静かな装丁で、温かさと孤独が同居しているような雰囲気だった。
「……結さんが、共感したんですか?」
結は、少し視線を落としながらうなずいた。
「昔、私も“合わせること”が癖になってて。何を好きって言うのも、どう思うかも、相手の望むようにしてきた。……好きだった人のために」
小さな声だった。でも、その声には嘘がなかった。
「でも、報われなかった。……そういうのって、伝わらないんです。自分を押し殺して相手に合わせても、結局“都合のいい人”になっちゃうだけで」
その言葉に、誠の胸がじんわりと痛んだ。彼もまた、同じような感覚を何度も味わってきたからだ。
「それって、すごく、わかります」
彼の声が、少しだけ震えていた。結はそれに気づいたかのように、ほんのわずかに目を細めた。
「……でも、あの日、あなたに言った言葉。私自身にも向けてたのかもしれません。“本当の自分”って、どこにいるんだろうって」
雨の気配はまだなかったが、空は曇っていた。静かな図書館の中で、ふたりの間にだけ、ゆっくりとした時間が流れていた。
誠は、彼女の差し出した本を受け取り、そっと胸に抱いた。
「……読んでみます」
小さな声。だがそれは、これまでとは違う、素直な気持ちだった。
ほんの少し——ほんのわずかに、何かが動き出した気がした。