第1章:偶然の出会いと違和感
第1章:偶然の出会いと違和感
午後五時。灰色の雲が低く垂れ込めた空の下、相原誠は会社からの帰り道、最寄り駅近くの図書館の軒先に駆け込んだ。降り出した雨はすぐに本降りになり、傘を持たない誠にとっては、しばらく動けない足止めだった。
ふと隣を見ると、同じく雨宿りをしている女性がいた。紺色のワンピースにカーディガン、濡れた髪を気にしている様子はない。彼女は視線を空に向けたまま、無言で雨の音に耳を傾けていた。
「あ、すごい雨ですね」
誠は、いつもの調子で声をかけた。誰にでも嫌われないように、場の空気を壊さないように。自然な笑顔をつくって、軽く会釈する。
だが、女性は反応しなかった。いや、ほんの少しこちらを見て、それからまた空を見上げた。
気まずい沈黙が流れる。彼女が無愛想なわけではなかった。ただ、無理に返事をしないだけのようにも見えた。
誠は、少し戸惑った。営業職として磨いてきた「感じのいい受け答え」が、ここでは通じない気がした。
「……あの、いつもこの図書館、使ってるんですか?」
話題を変えてみる。女性は今度はちゃんとこちらを見た。
「ええ、仕事で。ここで働いています」
「え? ああ、職員さんだったんですね。すみません、気づかなくて」
「いいえ、別に名札つけてるわけじゃないですし」
そう言って、ようやく微かに口元が緩んだ。けれど、それは笑顔というより、相手にあわせた最小限のリアクションのように見えた。
「僕、たまたま入っただけなんです。いつも通勤の駅前にあるんで。……雨宿り、です」
そうですか、と彼女はまた目をそらした。その仕草に、どこか透明な壁のようなものを感じる。誰かを避けているというより、自分を守っているような印象だった。
「……名前、聞いてもいいですか?」
ふと、誠の口から出た言葉だった。いつもなら聞かない。だがこの静かな距離感が、なぜか彼の中の何かを揺さぶった。
「白石、結です」
その名を口にした彼女の声は、雨音の中でもはっきりと届いた。
「相原です。相原誠。あ、誠って、誠実の“誠”です」
「……そうですか」
また少し沈黙が戻る。でも、今度はそれが嫌ではなかった。
図書館の自動ドアが開き、別の来館者が出てきた。その人影に目をやりながら、白石がぽつりと言った。
「あなた、よく笑いますね。でも——」
誠がそちらを見たとき、彼女はもう目を合わせていなかった。
「……その笑顔、本当にあなたのものなんですか?」
誠は、何も返せなかった。胸の奥で、小さな鈍い痛みが広がっていく。
雨はまだ止まなかった。