第2章
湖面には最初の星が映り込み始めていた。黄昏時の冷たい風が首筋を撫で、タケシは生まれ故郷の岸辺に最後の足跡を残しながら、思わず身震いした。長い髪を失う自分を想像することはできなかった。
だが、この地を離れること自体は、さほど苦ではなかった。しかし、彼の身分での追放は、最大の恥辱を意味していた。それは、背中の間に刻まれた家紋――蛇が月を抱く、再生と月の神ツクヨミを象徴する神聖な紋章――の喪失を伴うものであった。彼は深くため息をついた。自分自身であれると信じたのは、いったい何の錯覚だったのだろうか。
どんな問題が起ころうとも、結局はいつも自分が悪者とされる。彼は、自分の誕生そのものにさえ罪を感じさせられてきたのだ。もし母が生きていたなら、彼の心の優しさを認め、励ましてくれただろう。唯一の愛の記憶。彼を苦い現実から守ってくれていた最後の砦。それが母だった。
タケシは長い三つ編みを解き、愛用の紫のリボンを衣の内側にしまい込んだ。解けた髪の束が顔を覆う。目を伏せ、かつて自分を醜い存在だと隠し続けた帽子を見つめた。それは、今日で最後にした帽子だった。彼の緑の瞳は、わずかに瞬く星々が散りばめられた宵闇の空へとさまよった。
「母上、兄上。必ず償ってみせます。どうか、いつか私があなた方に赦される日が来ることを――」
***
羽多野翼の傍らには、紫の法衣をまとった側近たちが、直立不動で静かに控えていた。忠実なる家臣であり、被害者の父でもある佐藤裕人も、そこに姿を現し、今にも始まる光景に内心ほくそ笑んでいた。秩序を重んじる民衆は大広場に整然と集まり、普段の喧騒が嘘のような静寂が自然に場を包み込んでいた。たとえ虫でさえ、この圧倒的な沈黙を破る勇気を持ち得なかった。
タケシは、心の底から湧き上がる不安を決して顔に出さなかった。胃はきつく締め付けられ、喉は渇いていたが、彼は頭を高く掲げたまま、広場の中央へと歩みを進め、父親の前に堂々と立った。自分を蔑む男たちの冷たい視線にも、もはや何の感情も抱かなくなっていた。軽蔑や傲慢は、彼の惨めな人生において常に付き纏うものであったからだ。今宵も、そして最後まで、タケシはその誇りを保ち通すつもりだった。
闇のように漆黒の重厚な衣をまとった羽多野翼は、口髭を飾る細い顎鬚を撫でながら、跪く息子に対して、何の興味も示さなかった。無謀な若者たちが、ふとした囁きを漏らした。鋭い耳を持つ彼は、たちまちその冷笑を聞き取ると、三人の愚か者たちに凍てつくような視線を浴びせかけた。顎が固くなり、拳がわななく。恐れおののいた少年たちは、慌てて観衆の間に潜り込むように逃げ去り、姿を消した。
タケシは、そっと目をやり、叔父を探した。視線が交わると、家族の長兄である羽多野武田は、痛ましい表情をもって彼を見つめ返した。弟の荒々しい性格とは対照的に、彼はいつも甥を深く愛し、変わらぬ支えとなっていた。だが今夜の不運な場は、彼の運命に終止符を打つものであった。
羽多野翼の手が前に伸び、刀を求めると、すぐさま従者たちは動いた。黒い鞘から刀が抜かれると、その金属音が裁きの時の到来を告げた。
タケシの目に、ツクヨミの神聖なる蛇の姿が映った。銀色に輝く刀の鍔には、その身が巧みに彫り込まれていた。背筋を曲げ、タケシは重く長い髪を差し出した。
「羽多野様!」
その声に、全ての視線が宙に高く掲げられた刀を持つ一族の長に向けられた。
「何の用だ、兄上?」と彼は唸るように答えた。
「突然の口出しをお許しください、羽多野様。しかし、本当にこれを行う必要があるのでしょうか?追放という罰だけで十分ではないのですか?」
翼は誇らしげに顎を上げ、兄に冷ややかな視線を送った。
「今夜になって、まだ奴の肩を持つつもりか?」と、彼は激しく吠え、息子の髪をさらに強く握り締めた。
弟の心中を人前で明かさぬようにと気を配りながら、武田は一歩前に進み、彼の耳元でそっと囁いた。
「追放し、罰を与えるのは構わぬ。しかし、唯一の息子がこれから出会う者すべてに、あなたと我々一族の名の下でこの恥を背負わせることになる。それを本当に望むのか?」
プライドを傷つけられた族長は、不満げに口を歪めた。その厳格な表情は、さらに険しくなる。確かに、その考えは耐え難いものであった。自らの失敗、そして一族の名誉までもが、息子と共にどこへ行っても付きまとうのだから。
彼は忌々しげにうめきながら、息子の髪を解放した。
「お前の過ちが我らの名を汚すことは絶対に許さぬ。」彼は顎鬚の中で不機嫌に呟いた。
「羽多野家の族長殿!」と、決定に不満を持つ佐藤雄人が抗議した。「息子が受けた被害の償いを要求します!」
「奴の追放こそが、その償いである。」
「しかし、族長殿…!」
羽多野翼の顔は、全員が知る漆黒の怒りに染まった。彼の指は刀の柄を握りしめ、関節が白くなるまで力を込めると、身体から不気味な闇の気配が立ち上った。それは空気に毒のように拡散し、禍々しい霧となって周囲に漂った。
近隣の家々の壁を震わせる轟音が響き、恐怖に駆られた無数の鳥たちが満開の楓の木々から一斉に飛び去った。誰もがその場で息を潜め、石のように固まっていた。怯えた子供たちのすすり泣きは、母親たちがその身に抱いて抑え込んだ。村の誰一人として、身動きひとつ取ろうとはしなかった。
真っ青になった佐藤雄人は、喉を鳴らすことさえもためらい、額には大粒の汗が流れていた。族長の殺気に満ちた視線がゆっくりと自分に向けられると、彼の頭は怯えた動物のように肩の間にすぼまり縮んだ。
しばらくの沈黙の後、羽多野翼の拳はようやく緩み、体から放たれていた邪悪な気配も次第に薄れていった。雄人は密かに安堵のため息を抑えた。
「印を持ってこい!」
震える二人の下僕が、背を折り曲げるようにして赤熱した焼印を運んできた。
父が自分の背後に立つのを感じると、タケシは静かに目を閉じた。家族の象徴を奪われるというのは、彼にとって最も重い刑罰であった。喉が苦しく締め付けられる。母が生きていたら、この瞬間の自分を見て恥じただろうか。己の血筋の紋章を剥奪されるほど、彼は惨めな存在だったのか。
不正義に対する怒りと屈辱が、彼の胸の奥で渦巻いていた。しかし、その想いを飲み込み、誰の手を借りるでもなく、自ら上衣を脱ぎ、肩甲骨を露わにした。
沈黙の重圧を破ったのは、再び響いた族長の鋭い声だった。
「今宵をもって、すべての権利を剥奪する。お前の過ちによって、お前はもはや我が一族の者ではない。名も地位も失った。これからは――お前はもう、私の息子ではない。」
武の肌に、冷酷な制裁と共にその言葉が刻み込まれた。歯を食いしばり、彼は微動だにせずその痛みを受け入れた。常にそうしてきたように、気高く、静かに。新たな傷の中心に立ちながら、彼は父を見上げ、湿った瞳でその視線をしっかりと受け止めた。
唇を憎悪で歪ませた翼は、武の耳元に顔を近づけ、毒を吐き捨てた。
「お前が私のすべての不幸の原因だ。お前は私のただ一人の誇りであった兄を殺した。絶対に許さない。絶対に。」
タケシの唇はかすかに震えた。その言葉は、これまでのどの言葉よりも深く心に突き刺さった。父の冷酷な台詞を何度も聞き慣れていたとはいえ、その毒から逃れることはできなかった。
それでも、今回も彼は自分を律し、痛みを表に出すことなく、父の前で気高さの仮面を保った。胸の内側では後悔の荒波に溺れていることを悟られぬように。
族長は冷酷な背中を見せたまま、言い放った。
「行け。もう二度と戻ってくるな。」
偽善的な軽蔑をあからさまにする助言者たちの視線を意に介さず、タケシは背を向けた父の姿に最後の壊れた眼差しを向けた。父が心の奥深くに突き立てた刃が、今なおそこに刺さったままだった。
彼は沈黙の中、集まった群衆を通り抜け、振り返ることなくその場を後にした。
***
タケシは刀と小さな布製の袋を身に着け、緑豊かな庭園と幼少期の思い出が詰まった場所を歩きながら、大邸宅を後にした。これまでの人生が目の前に浮かび上がり、心は過去の中をさまよっていた。
彼の視線は、かつて母が笑顔で押してくれたブランコに留まり、すぐ近くで叔父と木の剣を使って遊んでいた兄、哲也の姿を思い出した。兄の訓練を屋根の上からこっそり見ていた自分の姿も浮かび上がった。それは、常に厳しく禁止されていた光景だった。
満開の桜の木の下を通り過ぎた時、彼の表情には優しい哀愁が漂った。幼い頃、他の子どもたちにいじめられ、何度この桜の幹の後ろに隠れて助けを求めたことだろう。そしてその度に、兄の哲也が優しく手を取って守ってくれた。その微笑みは、すべての痛みを洗い流してくれた。
ある夕暮れ、彼らは湖「涙の湖」のほとりにそびえる老木の枝に登り、沈む夕日を眺めた。水面に映える黄金色の光景に、ふたりは心を奪われた。タケシはその時、どんなことがあっても兄さえそばにいてくれれば、世界が崩れ去っても構わないと感じた。お互いがいる限り、ふたりはいつまでも支え合っていけると信じていた。
喉が詰まり、息苦しさに襲われた。あの夜、自分の命を兄と引き換えにできていたらと、何度願ったことか。すべての者に呪われ、憎まれるのは、自分だけが生き残った罰なのか。父が許すなら、自らの手で自分を殺していたかもしれない。
滲んだ涙を隠すように、タケシはそっと桜の幹に手を触れた。それは、自分の過去への最後の別れだった。
「タケシくん²!」
「おじさん!」
駆け寄ってくる武田の姿を見つけた瞬間、タケシの顔はぱっと明るくなった。
「まさか、挨拶もなしに行くつもりじゃなかっただろうな、この恩知らずめ!」と、彼の叔父は傷つけないように優しく抱きしめながら言った。
「ごめんなさい、おじさん。忘れるはずなんてありませんでした。」
老いた男の慈愛に満ちた表情には、悲しみの陰りが見えた。
「どうか、父さんの言うことをすべて鵜呑みにするな。彼の心は闇に染まり、憎しみの中でしか生きられなくなっているんだ……」
「『お前は兄を殺した』なんてな。」
タケシは顔を伏せた。もし父の非難が真実であれば——その恐ろしい言葉のすべてが本当であればどうしよう?父がそこまでの憎しみを抱く理由が、彼自身に責任があるからではないだろうか。その夜の記憶を失ったのも、ある意味では幸運だったのかもしれない。
「この町には、もうお前に与えられるものは何もないよ、坊や。この町もお前の父も、長い間闇の中で生き続けている。だが、お前の心は純粋で、志も正しい。ここにいるには清らかすぎる。」
「目指すものなんてないんです、おじさん。もともと、僕には何もなかった。戦うことも知らないし……そこは父の言う通り、僕はただの役立たずです。」
「ふん!タケシ術に関しては、確かにあいつの思うがままだったな……だが、師匠たちとの稽古を禁止されたって、私と一緒に身を守る術はちゃんと身につけたはずだ。あいつを何度も欺いたのさ、二人でな。」と、武田は微笑んだ。
タケシは小さくくすっと笑った。叔父と一緒に秘密の稽古をして、何度も父に怒られた日のことを思い出した。
「タケシくん、我々の先祖の力は、お前の血にしっかりと宿っている。いつか、必ず戦えるようになるさ。その時まで、畠野家の男たちの霊が、お前のそばにいるだろう。」
「おじさん、僕も知っています。ご先祖様の霊は、追放者を守ることはないと……」
「心配するな、坊や。」武田は優しく肩に手を置いて安心させた。「父のことも、この一族のことも忘れてしまえ。お前の道を進むんだ。」
未来に自信を持てないまま、タケシはただ悲しげに口元を引き締め、目に浮かぶ涙を隠すように顔を背けた。
「おじさん、今夜は本当にありがとうございました。助けてくれて……感謝しています。」と、彼は静かに頭を下げて言った。
武田の笑顔が、悲しげな光にしわが寄った。彼の指が甥の肩に軽く触れ、最後の瞬間、二人は言葉なく感情を交わした。言葉にできない思いが、無言の中で交錯した。その重い心で、タケシは数歩後ろに下がり、町の門へと向き直った。叔父は目を閉じ、一筋の涙を頬にこぼした。
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「君」は、年上の人が若い男の子に対して使う接尾辞です。また、親しみや愛情を表すためにも使われます。