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第18章

夜は恐ろしく遅い速度で過ぎていった。

カイトは領地の公園を彷徨いながら、さまよう視線と乱れた心を抱えていた。警戒を怠らぬべき立場にありながら、集中力を欠いた彼は、まるで役立たずの番人だった。

タケシ……。その太陽のような笑顔と澄んだ笑い声が、すでに彼の心にぽっかりとした空白を刻んでいた。


その時、橙色の輝きが彼の目を引いた。左手の方を見上げると、燃え盛る炎に包まれた寺院が目に飛び込んできた。驚愕に目を見開いた瞬間、五人の男を従えたカズヒロが、ちょうど息子と同時に現場へと駆けつけた。


「全員、下がれ!」


鋭く命じると、両手を合わせ、一瞬の間を置いてから腕を前に差し出す。すると、まばゆい光の大きなドームが小さな建物を包み込んだ。酸素を奪われた炎は次第に鎮まり、ついには残骸だけを残して消えていった。これで危機は去った。しかし、この襲撃の狙いは寺院だったということか。何のために?


カズヒロは眉をひそめた。なぜツバサは、わざわざこの城塞都市の高台にまで手勢を送り込み、神聖な建造物を炎上させるなどという手間をかけたのか?しかも、容易に鎮火できる程度の火災を。素早い対応のおかげで基礎は無事だったが、内部といくつかの梁が損傷を受けていた。


彼は手を軽く振ると結界を霧散させ、寺院の中へと足を踏み入れた。足元で炭化した木片が軋む音を立てる。その瞬間、ひやりとした冷気が彼の背筋を走った。


右手をすっと伸ばし、背後にいた息子の動きを制する。嫌な予感が胸をよぎった。


異様な気配に引き寄せられるように、ゆっくりと天井を見上げると、カズヒロの全身が硬直した。


そこには、なめらかな天井を覆うように弧を描く一本の線があった。まるで、見えざる手が血でなぞったかのような長い痕跡――それは三日月だった。そして、その鋭い角の間には、くねるように絡みつく一本の線が浮かび上がっていた。蛇――蛇の印だ。


「父上、これは一体……?」


その紋章と周囲の壁から、濃密な闇の靄がゆっくりと湧き上がる。カズヒロは即座に息子を背後へ押しやった。


「下がれ!」


祭壇は供え物に彩られ、これまでのところ無傷のままだった。だが、それも闇に飲み込まれ、梁とともに姿を消した。幽玄な蒸気が毒霧となって広がり、酸素を喰らい尽くす。空気は重く淀み、一瞬にして瘴気に満ちた。


毒の影響を受け、寺院の基盤は静かに崩壊を始めた。天井の板は異形の存在に苛まれるかのように歪み、ねじれ、軋んだ。柱の木材はまるで腐敗した肉片のように朽ち果てていく。建物の隅々に至るまで、何かの呪詛を受けたかのように蝕まれ、ついには腐爛の兆しを見せた。


カズヒロは拳を握りしめた。なるほど、ツバサの狙いはこれか――長きにわたり守られてきた木村一族の聖域を破壊し、穢すこと。そして、自らを誘い出し、その目の前で侮辱を刻みつけること。家族にも、そして一族の神にも。


闇の怪物は膨れ上がり、霧の奔流から無数の亡霊が浮かび上がった。それらは不安げにうごめきながら、やがてカズヒロの胸元を掠める。


「ぐっ……!」


その瞬間、彼は膝をつき、激しく息を詰まらせた。


「父上!」


カイトは咄嗟に駆け寄り、地面に倒れそうな父を支えた。すぐさま光の繭を展開しようとしたが、闇は容赦なく襲いかかった。


光は呑み込まれ、力は圧殺される。闇の魔手が彼の肌をかすめるたび、焼けるような激痛が走った。酸の牙が肉を抉るようだった。


歯を食いしばりながら、カイトは片腕を父の肩に回し、なんとか寺院の外へと連れ出した。彼らの兵へ託したその時――


「カズヒロ!」


ユナが駆け寄り、慌てた声を上げた。


「アマテラスのご加護を……!」


「母上、早く治療を!」


カイトは数歩引き下がり、燃え盛る闇に侵された寺院を見つめた。周囲の者たちも息をのんでその光景に目を奪われる。


やがて、屋根が崩れ、基礎が砕けた。建物全体が不定形の塊となり、ついには塵と化す。


そして――


禍々しき毒の瘴気は木片の破片から解き放たれ、月へと向かって伸び上がる。


それは夜の闇へと溶け込み、やがて細い煙のように消えていった。


悲劇は、音もなく、静かにその爪痕を刻んだ。


兵たちは主君のもとへと戻った。


「木村様、ご指示を!」


「ハタノの犬どもを追え。国境まで捜索をかけろ。ここにはもう残っていないだろうが、念のため部隊を展開しろ。」


その時、不安げなカズの声が響いた。


「お兄ちゃん!」


「ここにいちゃダメだ、カズちゃん。」


「お兄ちゃん、怪我してるの?!」


彼女は息を呑みながら、兄の埃まみれの衣に空いた黒焦げの穴を指さした。


「大したことない。今は父上の治療が最優先だ。」


「母上がついてるわ。大丈夫って言ってた。」


その時、ゆっくりとした足取りでキヨシが近づいてきた。


彼の涙を湛えた瞳は、崩れ去った寺院の跡に釘付けになっていた。


「私たちの……寺が……」


震える声が、夜風に溶けるように消えた。


カイトはそっと手を伸ばし、彼を抱き寄せる。その腕の中には、カズもいた。


静かに、だが確かに、彼の瞳の奥で憎悪の焔が灯る。


「ハタノは必ず報いを受ける。――俺が、誓う。」


***


窓枠に腰を下ろし、紫の長い絹の羽織を纏ったタケシは、じっと警戒を怠らなかった。頭を木枠にもたせかけ、深く息を吐く。


この夜、彼が眠れるはずもなかった。激しい光が空を貫いたその瞬間から、上で何か異変が起こっていることは明らかだった。そして、今や屋敷を覆うかのように輝く要塞のような光のドーム――それは、決して良い兆しではなかった。


通りを駆け抜ける巡回兵たちは、まるで戦場へ向かうかのように武装していた。叫び声が遠ざかり、やがて夜に溶けていく。


その時、現れたのはカイトだった。


彼の足取りは異様に重く、どこか力ないものだった。数歩進むと、額に手を当て、ついには地面に崩れ落ちる。


「くそっ!」


タケシはすぐさま扉へと駆け寄ったが、結界が行く手を阻んだ。


仕方なく、再び窓枠へ上ると、一気に跳躍。市場の屋台の布に身を滑らせ、柔らかく着地すると、そのままカイトのもとへ駆け寄った。


「カイト! しっかりしろ!」


裂けた衣の隙間から、黒く焦げた傷口が覗いていた。肉がただれ、まるで焼き尽くされたようだった。


本来ならユナが最も適任だった。しかし、今や屋敷を覆う強大な結界の前では、一般の民であるタケシにはどうすることもできない。加えて、血統の純粋な者たちはすでに森へと避難していたため、誰一人として助けを求めることすら叶わなかった。


「タケシ……」


「カイト! どうしたんだ!?」


「タケシ……すまない……」


薄く開いたままの瞳に、一瞬だけ後悔の色が浮かび、やがて閉じる。


「ダメだ! 目を開けろ!」


タケシはカイトの脇に腕を回し、力強く支えながら宿へと引きずるように運んだ。道中、彼は勢いよく足を振り上げ、宿の扉を蹴破る。


部屋の入り口に張られた薄い光の結界は、創造主の通過とともに儚く消え去った。


タケシはカイトを寝台に横たえ、その衣の前を開く。そして目にしたものに、思わず息を呑んだ。


噛み傷から黒ずんだ筋が広がり、首へと這い上がっていた。毒々しい紋様が肌を蝕み、次第にその生気を奪っていく。


「カイト!」


彼の顔を両手で包み込み、必死に呼びかける。


「頼む、しっかりしてくれ……」


かすれた声で、カイトはかろうじて囁いた。


「お前は……生き延びろ……」


「ふざけるな! お前がいないと、俺は……!」


カイトの唇に、儚い微笑が滲む。


だが、彼の顎を這うように、黒い灰がすでに忍び寄っていた。


「……許してくれ……頼む……」


「いやだ! 許すのは、お前が生き延びた時だけだ! 勝手に俺を置いていくな!」


「……タケシくん……」


カイトの冷たくなった指が、ゆっくりと彼の頬へと伸びる。


タケシは迷うことなく、その手を自らの頬に押し当てた。震える唇のまま、彼の指をぎゅっと絡め取り、ただ見つめるしかなかった。


――瞳が閉じる、その瞬間まで。


やがて、腕が力なく落ちる。


「嫌だ……!」


タケシの嗚咽が、静寂を引き裂いた。


「行くな! 俺を置いて行かないでくれ!」


彼はカイトの身体を抱き起こし、壊れそうなほど強く抱きしめる。


涙を流しながら、ただ天に向かって祈った。


「お願いだ……生かしてくれ……!」


「俺なんかでいい……代わりに、俺を連れて行け……!」


懇願の合間、ふと腕に広がる異様な感覚に気づいた。


驚愕に目を見開き、震える手を見下ろす――そこには、黒き毒がカイトの体から抜け出し、細やかな塵となって自らの身へと吸い込まれていく様があった。


腕から頬へと、焼けるような痛みを伴いながら這い上がる毒が、肌の色を奪い去っていく。


カイトは浄化されたのだ。


タケシの唇に、穏やかな微笑が浮かぶ。


――今度こそ、悔いなく死を迎えられる。


彼の腕の中で、カイトの瞼が微かに震えた。


「……タケシ?」


「もう、大丈夫だ……全部、大丈夫だから……」


彼は囁くように言い残し、そのまま力なく横へと崩れ落ちた。


灰に染まった顔が、静かに枕に沈む。


カイトは慌てて身を乗り出し、その変わり果てた姿に息を呑む。


「……何をしたんだ?」


「そうするしか……なかった……」


「お前が大切だから……」


「馬鹿野郎!」


カイトは震える両手で、タケシの頬を包み込んだ。


「お前の方が大切だろう!」


タケシは儚く微笑んだ。


「そんなこと……あるわけないさ……」


「あるさ!」


「タケシくん、お前は……俺にとって、一番大切な存在なんだ……!」


タケシの目が新たな輝きを宿し、その深層から生命への強い願望が響いた。


「生きたい…お願い、生きさせて…」


王子の驚愕した視線の中、灰は進行を止め、彼のこめかみを覆うことなく、その肌から離れていった。毒は霧のように空気中に蒸発し、やがて粉塵の雲となって消えていった。


その不思議さと混乱の中で、カイトは彼の元に飛び込み、その重みにほとんど窒息しながらも、強く抱きしめた。


「怖かった、バカ…!」


タケシの体に温かさが広がる。彼はその腕をカイトの背中に回し、強く引き寄せた。


「お前は…俺を置いていくつもりだったんだな…」


カイトは顔を上げ、後悔の色を浮かべてその目を見つめた。


「僕が甘かった…すまない…」


「お前には謝ることがたくさんあるな、キムラ様。」


タケシの美しい笑顔がカイトの心を熱くした。その目を見つめ合った瞬間、王子はこれまでにないほどの優しさを彼に捧げ、その幸福が彼を照らした。


その瞬間、まるで魔法のような美しい時間が流れた。


***


影の一族の族長の周りには、幽霊の群れが渦を巻いていた。薄明かりのキャンドルの光で照らされた部屋の中央に足を組んで座っていた翼羽ツバサ・ハタノは、神殿の破壊の光景を楽しんでいた。閉じたまぶたの下で、目は反転し、恐怖、痛み、そして怒りが交錯していた。細いあご髭が満足げに引き攣った。彼は、恐怖を与えたことと、キムラ家が危機に直面したことを誇りに思った。今こそ、歓喜する時だ。カズヒロは、無視された代償を払ったに過ぎなかった。


その時、ドアが突然開き、武田タケダが入ってきた。


「ツバサ!」


「おお、再び来るとは思っていたよ、兄弟。男たちの前で質問攻めにしていたくせに、今度は私を説教しに来たのか?」


「カイトが負傷した!お前は神殿だけでなく、彼をも殺しかけた、そして自分の息子も!」


族長は冷静に彼を見つめた。


「それがどうした?」


武田は言葉を失った。ツバサは退屈そうにため息をついた。


「彼らは死んでいない。そんなことで騒ぐつもりか?」


「どうしてこんなことを?」


「やめろ、いい加減にしてくれ。」翼羽は目を天に向けてうんざりとした様子でつぶやいた。「あれはハタノだ。自殺でもしない限り、あんなことで死ぬわけがないだろう?」


憤慨した武田は兄の前に立ち、周りの霊的存在を散らした。


「タケシには力がないだろう、分かってるだろ。」


「忘れるわけがないだろう?」家長はその屈辱的な言葉に不機嫌そうに唸った。「それで?」


「それで?」兄は驚き、息を呑んだ。「あいつは十分に…」


「でも、そんなことは起こらなかった!タケシが記憶を失ったからといって、あいつがただの脆弱な存在だとか、馬鹿だと思うな!あいつは母親の気質を受け継いで、祖父の力を持っている、俺の血が流れているんだ!」と、彼は声を荒げた。「ああ、いつも俺の楽しみを台無しにするな、タケダ。くだらないことで俺を邪魔するな。」


くだらないこと…武田は無言で後退し、呆然としながら撤退した。ドアを閉め、廊下で一人静かに孤立し、落ち込んだ。何年経っても、翼羽は自分を悪い意味で驚かせ続けていた。兄が自分の内なる悪魔に苦しんでいることを知っていても、今の兄は恐ろしい衝動に無関心な存在にしか見えなかった。

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