ジェームズへの手紙
死の表現があります。
ご注意ください。
デイジィの兄、ジェームズ・マリガンが戦死した。
王国はもう3年も隣国と戦争をしていて、泥沼化していた。
デイジィの兄は騎士として出征していて、デイジィは毎週毎週かかさずに兄へと手紙を送っていたのだった。筆不精の兄は一度しか返事をくれたことはなかったが、デイジィは兄の無事を祈って手紙を書くことをやめなかった。
兄は遺体となって帰ってきたが、この年以後、戦争が激化して貴族といえども遺体すら戻ってくることは少なくなった。
デイジィは兄を慕って毎日泣き続けた。
けれども庭にデイジーの花が咲いているのを見て、涙を止めた。真ん中の頭状花が黄色い太陽みたいで周りの舌状花が真っ白な花びらのデイジー。
兄からのたった一度の手紙を思い出したのだ。
『デイジィ、俺の小さな白い花。おまえの手紙は、花のない戦場で咲く花のようだ。また手紙を送っておくれ。俺に花をおくれ。いつまでも待っている』
兄の口癖は、「平和と花々の量と花々の種類は比例する」であった。戦火で焼かれることもなく軍靴で踏み躙られることなかった土地は荒れ果てることがない。家庭の庭に並木道に野山に、いたるところで花々が途切れることがない、と。
『デイジィ、手紙を』
兄の声が蘇る。
その日からデイジィは再び手紙を書きはじめた。
部隊名はない。
姓もない。
ただ、ジェームズという名の宛名だけの手紙を戦場へと送ったのだった。
普通ならば届くことはない。はずだった。しかし、混沌とした戦場でデイジィの手紙はジェームズへと届いた。
騎士のジェームズへ。
兵士のジェームズへ。
医師のジェームズへ。
厩番のジェームズへ。
戦場で戦う種々の職業のジェームズへと秋の木漏れ日の柔らかな光のように手紙が届けられたのだった。
戦場の混乱と、王国で一番多い男性名がジェームズであったことも届いた要因かも知れない。何よりデイジィの父親が後方支援担当の副司令だったことが大きかった。
やがてデイジィの手紙は、最前線で戦う騎士のジェームズたちへと優先的に届けられることが増えていった。
「やった! 今日は俺がデイジィからの手紙を貰えた!」
「チキショー、配達係め! 酒を差し入れしてやったのに!」
「おまえは昨日もらっただろ!」
「いいなぁ、俺の名前もジェームズだったらデイジィからの手紙を貰う候補に入れたのに」
「それより読めよ! 今日の手紙は何て書いてあるんだ!?」
「そうだよ、早く! 今日の花は何だ!?」
毎日ジェームズたちへと配達されるデイジィからの手紙は、戦場の癒しとして騎士たちの争奪戦となっていた。
『ジェームズ様
叔母様からジャスミン茶をいただきました。
美味しかったです。
叔母様は、大人になれば花の香りの王と呼ばれるジャスミンの香水をプレゼントしてくれると約束してくれました。
楽しみです。
でもナイショですけど香水がなくても、お庭にはジャスミンの花が咲いているので私はジャスミンの甘く濃厚な香りを知っているのです。
ジャスミンの花は純白で、葉っぱは厚くて艷やかな緑色なのです。
地面に落ちたジャスミンの小さな白い花を拾って集めると、私の手そのものがジャスミンの花のように甘く匂うのです。
まるで香りの蝶々が翅を震わして翔ぶみたいに手から香気が溢れるのです。
素敵でしょう?
いつか一緒にジャスミンの花を拾いませんか?
だからジェームズ様、どうか死なないでください。
私が泣いてしまいます。
どうかどうか生きて帰ってきてください。
デイジィより』
「デイジィ! もちろん一緒に拾うとも! 俺には家族がもういないけど、デイジィのために戦うぞ!!」
ブワッ、と銀髪に紫眼の騎士が男泣きをする。
「おまえじゃない! 俺がデイジィと一緒にジャスミンを拾うんだ!」
「誓う! 俺はデイジィにジャスミンの香水を贈るぞ!」
賑やかな一方で一部の騎士たちは穏やかに笑う。
「俺が死んだらデイジィは泣いてくれるのかな……」
「俺のために泣いてくれる子がいるって、いいな……」
「死ねと命令される戦場だけど、生きて帰ってと願われるのはちょっと嬉しいよな……」
「敵襲っ!! 敵襲だーっ!!!」
冬の吹雪のごとく容赦なく、咆哮のような大音声が響く。
一斉に騎士たちが立ち上がる。銀髪の騎士は宝物みたいに手紙を鎧の内側に入れた。
剣や槍が煌めく。
ザザザッ、と空気を切り裂くように。
赤く染められたマントを翻して騎士たちが駆け出した。
その夜。
デイジィは枕元に気配を感じた。
怖くはなかった。
銀髪の騎士は血塗れでも、紫眼を優しく細めていたから。
夢なのか。
現実なのか。
水面に映った掴めない月のような幻であり現であるような。
夢の途中の微睡んでいるみたいな感覚であった。
翌朝。
目覚めたデイジィの枕元にはジャスミンの花枝が落ちていた。
こんな夜は初めてではなかった。
こんな朝はもう幾度も経験した。
どの騎士も死力を尽くして戦ったことを誇り高く微笑んでいた。
けれども哀しくて、デイジィはジャスミンの花が枯れるまで泣き続けたのだった。
そうして6年後。
デイジィが16歳になった時、9年間も続いた戦争が終わった。王国の勝利での終結であった。
歓喜に湧く王都の喧騒から離れた、静かで大きな屋敷でデイジィは戦争の英雄である婚約者のジェームズ・アギリアス侯爵令息と初めての顔合わせをしていた。
6年前ジェームズは、15歳になったばかりの少年の身で戦場に送られた。
父親のアギリアス侯爵が、戦争への貢献度をアピールするためにジェームズを戦場に出したのだ。ジェームズは三男だった。長男の兄は後継者だから仕方がないとしても次男の兄をおいて、15歳の自分がまさか戦場に出されるとは思ってもいなかった。王国の成人年齢が16歳であったからだ。
父親に逆らう術を持たない持っていない名ばかりの騎士だ……と絶望の沼に沈みかけた時、たまたまデイジィからの部隊名と姓のないジェームズに宛てた手紙を貰ったのだ。
『ジェームズ様。
お庭の鈴蘭が咲きました。
知っていますか?
鈴蘭の葉っぱは大きな楕円で葉の間から緑色の花茎が伸びるのです。
それからね。
いくつも連なる鈴蘭の丸い蕾は、下から順番に花が開くのです。
葉に隠れるように開花する鈴蘭は小さな鈴みたいで、風に吹かれると鳴っているようなのです。
りりりりりり、りん。
りんりんって鈴みたいに聞こえるのは幻聴と言うのだそうです。
いつかジェームズ様と一緒に鈴蘭の幻聴を聞きたいです。
だからジェームズ様、どうか死なないでください。
私が泣いてしまいます。
どうかどうか生きて帰ってきてください。
デイジィより』
その手紙がジェームズを沼から掬い上げて救ってくれたのである。
家族は生きて帰ってこい、とは言わなかった。15歳のジェームズが戦果をあげられるとは誰も考えていなかった。戦場で無様な姿を曝すよりも名誉の戦死を望む雰囲気であった。
家の生贄になることから降りたジェームズは自分が未成年であることを盾に、父親のアギリアス侯爵を堂々と脅した。平民ならばまだしも貴族が未成年者を戦争へと出征させることはない。父親が宣っているようにジェームズ自身が愛国心ゆえに志願を熱望しての出征である、とジェームズの口から言ってほしくばデイジィとの婚約を、と。
侯爵家の権力があればデイジィの身元など容易く判明する。
そしてデイジィとジェームズは、お互いの顔さえ知ることなく婚約を結んだのであった。あり得ないほどデイジィに有利な条件で。ジェームズが戦死した場合、生還した場合、どちらにせよ侯爵からの保障が莫大であった。
以来デイジィは6年間。
部隊名と姓のないジェームズへの宛と。
婚約者のジェームズ宛への手紙を毎日書いたのである。
部隊名と姓のないジェームズからの返信は一度もなかった。皆のデイジィだから個人での返事は禁止されていたのだ、とデイジィが教えられたのは結婚後のことであった。
婚約者のジェームズからは毎週返事が届いた。
だからデイジィとジェームズはお互いの顔は知らなくとも、相手の好きなものも嫌いなものも色々なたくさんのものを知っていた。手紙はジェームズの支えであり、デイジィの支えとなっていたのである。
「デイジィ、会いたかった……」
夏のように笑って。
「私もジェームズ様にお会いしたかったです……」
春のように微笑んで。
言葉がひとひらの花びらのようにジェームズとデイジィの唇から零れる。
指先が伸ばされて、届く。
ピアノの鍵盤を奏でるように、お互いの親指、人差し指、中指、薬指、小指がゆっくりと重なる。
「デイジィ。鈴蘭の音を一緒に聴こう」
「はい、鈴蘭が鳴る音も。睡蓮が開花する音も。ジャスミンの甘い香りも、ラベンダーの爽やかな香りも、薔薇の優雅な香りも、全部全部ジェームズ様とご一緒したいです」
「ああ、ずっと一緒だ」
「はい、ジェームズ様。約束ですよ。私の傍にいてくださいませね。もう夜にひとりで泣くのは嫌です」
ジェームズは深く頷いた。ジェームズは手紙で夜の出来事を理解していた。デイジィの献身も悲嘆も痛みも。戦場も。全てを知っていた。
「約束だ。ともに夜を越えよう」
ジェームズとデイジィは、ぎゅっときつく手を握りあった。
「デイジィ」
「ジェームズ様」
この時から名前は、世界で一番美しい音楽となったのだった。
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