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殿下、今さらだけどあなたの問いに答えます。

作者: 三條 凛花

 放課後の教室でひとり、わたしは本を読んでいた。


 当時のわたしは、一日にたった数本しかないバスで通学しており、毎日待ち時間があった。


 文庫本をバッグに忍ばせておき、放課後の教室で読むのが日課だった。MDプレイヤーで『甘えんぼ』をエンドレスで流していた。




 机の横に引っかけたコンビニの袋から、Liptonのマスカットティーを取り出す。


 ちびちび飲んでいたら、本のページに影が落ちた。

 顔を上げたわたしは、うげ、と眉根を寄せた。


「なあ、恋と愛の違いを知っているか」




 目の前の男は、前の椅子の背もたれに軽く腰掛けるようにして言った。


 演劇部に所属するクラスメートだ。


 趣味はハリー・ポッターを読むこと、あるいは、呪文の詠唱。


 彼はとてもビジュアルがいいのだけれど。でも。



「ちょっと、何言ってるかわからないです」


「なるほど、そなたにはわからぬか……愚かな」




 男はフッと笑い、前髪をかきあげた。ぶわりと鳥肌が立つ。


「……殿下、超うざい」



 男のことを、わたしは殿下と呼んでいた。


 わたしのことをいちいち「そなた」とか「貧しき者」とか言うからだ。


 妙に演技がかった言い回しやら立ち振る舞いやらも殿下みが強かった。




「まあ、でも、愛は恋から派生するものなんじゃないですか」


 わたしは適当に答えて、また視線を本に落とす。


 チッ、チッ、チッ。


 殿下は口をすぼめて小鳥のような音を出しながら、指を振った。


 もしわたしが漫画のキャラクターだったなら、間違いなく、こめかみのあたりに、青筋のマークが描かれただろう。




「そなたは何もわかっておらぬな。やはり教養が足りない。哀れな貧しきものよ」


 殿下は、形のいいアーモンド型の目を、にんまりと三日月のように歪めた。


 そして、「恋と愛とは別物なのだ」と続けた。


「恋というのは独りよがりな、自分のための感情に過ぎない。愛は相手を思えばこそ。もっと広く、そして深いのだ。つまり根本が違うのだよ」


「なんのはなしですか」


「私は言うだろう。愛を感じたそのとき。そのときはな、こう告げる予定なのだよ」


 殿下は眼鏡をくいっと持ち上げながら、もったいぶって、そこで言葉を切った。


 わたしは、眉間に皺がついて取れなくなりそうだと思い、人差し指と中指の関節で、ごりごりとさすりながら顔を上げる。




「『そなたに毎朝コーヒーを淹れる役目を任せてもよいか…?』とな」


 殿下の頬は色づいている。


 自分で言ってて照れたのだろうかと、わたしは冷えきったまなざしを向けて「はあ……」と相槌とも言えない相槌を打った。


「本当に、なんのはなしですか」







 5年後。


 まだ夜が明けてそんなに経っていない、冬の寒い朝のことだ。


 実家から遠く離れた大学へ進学したわたしは、マンション近くの銭湯にいた。


 湯上りのまだ湿りけの残る髪の毛をゆるく結んで、コーヒー牛乳を飲みながら人を待っていた。




 わたしは、そのとき、まさに恋のさなかにいた。


 高校時代に出会った人とお付き合いをはじめたのだった。




 少し前までただの友だちだった。


 ひとかけらの恋情もお互いに持ち合わせていなかった。それなのに、なぜかいつでも頭の中から離れない。


 何をしていても相手のことが思い浮かぶし、可愛いなとか色々考えてしまう。




 わたしのとなりに、小柄でまあるい印象の、ちまっとした、とても可愛らしいおばあさんがちょこんと腰を降ろした。


 両手でフルーツ牛乳のびんを持ち、ちびちびと飲んでいる。


 混じり気のないグレイヘアはきっちりと後ろで小さなお団子にしてあって、ゆるいシルエットのワンピースを身につけていた。


 なんて可愛い人なのだろうと、目が吸い寄せられる。





 ややあって、スキンヘッドでサングラスに黒い革ジャンを着込んだ大柄なおじいさんが男湯から出てきた。


 すると、となりにいたおばあさんが、ぱっと顔を上げた。


 きらきらした目でおじいさんを眺めている。




 意外な組み合わせだ。


 ちょうどわたしの恋人が出てきた。


 もちろんおじいさんとは知り合いではないのだけれど、ちょうど並んで飲みものを買う形になって、恋人はコーヒー牛乳を選んだ。




 待合室の朝の情報番組をぼんやり眺めながら、わたしたちは、今日の観光計画について話した。


 遠距離恋愛だったので、週末に会えるときは、お互いの住む土地を徹底的に楽しみ尽くすようにしていたのだ。




 おじいさんはフルーツ牛乳を一気に飲み干すと、おばあさんをともなって出て行った。


 ややあって、わたしたちも銭湯ののれんをくぐった。湯上りの身体に、朝の冷たい空気が気持ちいい。





 ふと見ると、先ほどのおじいさんが、大きなバイクの前に立っている。


 そしておばあさんにショールをかけた。


 赤いチェック柄の、フリースのような素材でできたそれは、おばあさんの少女らしい可愛さにひどく似合っていた。


 おばあさんをもこもこに温かく包み込むと、おじいさんは凶悪な目付きでにやりとわらった。


 しかし、その真っ黒な目の中のきらめきが、愛おしさを物語っている。


 おばあさんをバイクの後ろに乗せ、轟音を立てて、走り去っていった。





 そのとき、わたしは感動した。


 恋と愛というのは、きっと両立するのだ。


 恋を恋のまま、人生の終盤まで持ち続けているのか。


 それとも何度でもまた恋をし直しているのか。銭湯でほんの一瞬居合わせただけのわたしにはわからない。


 でも、あの夫婦のことは、何年経ってもずっと忘れられないのだ。




 銭湯での出来事から、さらに10年以上が経った。


 わたしはあの日の恋人と結婚し、2児の母になった。




 子どもたちが通園通学したあとの夫の平日休み。


 その日は午前中が幼稚園の参観日。最近の趣味である映えスポットめぐりには時間が足りなかったので、カラオケに行くことにした。


 夫は音楽が好きだ。

 流行りの曲もだいたい網羅している。


 気軽な夫婦の会のはずなのに、懐かしの歌ばかりうたうと怒られるので、洗濯ものを干しながら、ここ数年に流行った曲で歌えそうなものを見繕ってから望んでいる。


 そこにときめきとか、よく見られたいみたいな気持ちはない。


 単に怒られるのが面倒だからという理由、それから、たまたまわたしの中のカラオケブームだからという理由でしかないものの、はじめて歌う曲を入れられる程度には信頼と安心感がある。


「は?めちゃくちゃ間違ってたんだけどやばくね? なにそれアレンジ?」


 と言われて苛立つけれども。


 そうして「いやいやそっちこそ採点結果に『もっと易しい曲にチャレンジしてみては?』ってあったよね」などと、言い返すけれど。






 殿下がじつは夫……なんていうことは、もちろんない。


 この間、久しぶりにふるさとに帰ったとき、空港で、同じ便から降りてきた人を見かけてはっとした。


 殿下だ。間違いない。


 時が止まったかのように、驚くほどそのままだった。髪型も私服のテイストも何一つ変わらない。


 確信があった。


 けれどもわたしは声をかけなかった。


 向こうは向こうで、素顔じゃなくなった大人のわたしに気づいた様子もなかった。





 殿下、今さらだけど、あなたの問いに応えたいと思う。


 殿下は、恋と愛とは明確に違うものだと言っていた。


 でも、あの放課後から二十年近く経ってわたしの中で見つけた答えがある。



 恋だったものは、愛……というには照れくさいので、情になったと思っている。


 愛(情)というのはたぶん、恋からときめきを抜き取って、なんていうのかな、ふわふわしていた輪郭を固めたものなのではないだろうか。





 夫とわたしの、それぞれの恋心は、いっしょに過ごすようになってから一年ほどでしゅわりと溶けた。


 わたしは夫の前であぐらをかき、夫はわたしの目を見るよりもゲームに没頭する時間のほうが長くなった。


 夫がわたしを「こぶた」と呼ぶので、わたしも「ぶたお」と言い返す。


 けれども、言葉がなくても互いに必要なものがわかることもある。(わからないことも多々ある)


 そこにあったのは、いっしょにいるのが当たり前というような、家族に近い感覚だった。





 もしかしたら、いつかまた夫に恋をすることが、あるのかもしれない……(?)


 たとえば、数年前、不審者に絡まれたときのこと。


 それを遠くから見つけた夫が、わたしと不審者の間にさっと滑り込んだときは、不覚にもドキッとした。


 けれどもそのとき生まれたときめきは、いつものように、メイクにダメ出しされた瞬間に弾けて消えた。





 銭湯で出会った老夫婦のように、人生終盤でもなお、互いの目の中に恋心が浮かぶような関係に憧れはある。


 でも、わたしたちは、たぶん、そうはならない。

 フラットに淡々と、しょうもない口喧嘩などをしながら、日常を紡いでいくのだろう。












noteにも載せています。



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