副団長の遠い記憶2
――――十二年前。
あの日、俺は父である侯爵について王宮に来ていた。
息子とはいえ、俺は三男。
優秀な兄ふたりがいる俺にかけられた期待は、そう大きくはなかった。
俺は勉学も魔法もそれなりにできたし、剣術もまあまあ。
あえて言うなら、剣術が一番性に合っていた。
まあ家を継ぐことはないだろうから、騎士団にでも入れば、それなりに出世するだろう。
両親もそれくらいの気持ちだったのだと思う。
だが、それなりで良いとは思っていても、競争相手がいた場合は別だ。
見習いとして入団できる十二歳を前に、三日間のお試しで訓練をつけてもらうため、俺は父に連れられて王宮の騎士団に来ていた。
その初日、運悪く父と折り合いの悪い貴族の息子と手合わせをすることになってしまった。
幼い頃からある程度剣術の稽古をつけてもらってはいたものの、年上の騎士見習いに勝てるほどの腕はなく、見事に俺は敗北した。
ただの手合わせだ、それにまだ騎士見習いにもなっていないのだからこんなものだろうと、普通の親は思っただろう。
しかし、父は違った。
『普段の稽古をさぼっていたのではないか!?だからあんな男の息子などに負けるのだ!』
そう言って俺の頬を打った。
『この三日間で、必ずあいつに勝て!でなければ、二度とバルヒェット家には帰れないと思え!』
無茶苦茶だ。
そうは言うが、付けてくれた講師もさほど名のある者ではなく、稽古だって嗜み程度のものだったではないか。
父が俺に剣術の進みはどうだと気にかけることもなかった。
そう思っていても、口にすることはできなかった。
相手の男は騎士団の中では見習い、まだ半人前だ。
だがだからといって、三日程度でどうにかできるほど俺に才があるわけでもない。
途方に暮れた俺は、休憩時間にふらりとこの中庭を訪れた。
人のまばらな時間、静かな空間はその時の俺に丁度良かった。
どうしろっていうんだ……そう考えながら茂みの中で蹲る。
戻りたくないな、そうため息をついた時に、不意に声をかけられた。
『おや?こんなところで、どうかしたのかい?』
顔を上げてみると、そこには優しそうな風貌の美青年がいた。
まだ若い、王宮に勤める書記官だろうか。
こんな時間にこんなところをウロウロしているなんて、大した役職の者ではないだろう。
最初に出会った、その時はそう思った。
『ああ、私は休憩がてら菓子をつまもうと思って来たんだ。良かったら、君も一緒にどうだい?』
がさっと取り出した袋からは、確かに甘い香りがした。
ぐう。
『……いただきます……』
腹が鳴った恥ずかしさすらもどうでも良くなって、とりあえずそう返事をした。
差し出された、初めて見たが特別感があるわけではない菓子を手に取り、俺はひと口かじりついた。
すると、口の中にふわっとバターの香りが広がった。
『……美味い』
『そうだろう!?もうひとつ食べるかい?いや実はこの菓子ね、まだ六歳の娘が私のためにと作ってくれたものなんだよ』
デレデレと嬉しそうな顔で娘自慢を始めた美青年、後にその名を知ったのだが、それがシュタイン伯爵だった。
六歳の娘がいる(しかもふたりの兄もいる)と聞いて驚いたものだ。
かなり若く見えたのだが、それなりの歳をしているのだなと、まじまじと見つめてしまったほどには。
それにしても、手作りの菓子をもらえるほど娘から慕われている様子を見ると、俺のような家族関係の悩みとは無縁なのだろうなと、沈んだ気持ちになった。
優しい甘さの菓子。
恐らくほとんどは家の料理人が作ったものだろうが、きっとこの菓子のように優しい娘なのだろう。
『……どうかしたのかい?』
『え?』
『泣きそうな顔をしている。良かったら、私に話してみないかい?知らない人間にだと、変に遠慮することもなく洗いざらい話せてスッキリすることもあるからね』
当時少し捻くれていた俺は、その言葉にそうかもしれないなと思った。
事情を知っている者達から同情されたり、馬鹿にされたりするのはうんざりだ。
俺は重い口を開き、今日の出来事を話した。
『なるほどねぇ。君は、お父上に認められたいと思っているんだね』
『……別に、そんなこと』
思っていないと、本当に言えるだろうか。
優秀な兄達ばかり注目されて、面白くないと思っていたのは事実だ。
確かに期待のされていなかった俺は、興味のあった剣術の稽古も適当にしかこなしてこなかった。
怖かったんだ、大したことないなと言われるのが。
普通なら、認められるほど強くなりたいと思うのかもしれない。
でも俺は、どれだけ努力しても、もし強くなれなかったら?と思った。
それこそ用なしだと言われるのではないかと怖かったんだ。
本気で取り組まなければ、まだ分からない、可能性があるかもしれないと思ってもらえる。
それにある程度強くなれたとして、それでも興味を持ってもらえなかったら?
それこそ、俺はどうしたら良いのか分からない。
それなら、現状のままで良い。
そんな馬鹿みたいなことを考えていた。
『うーん。君、うちの娘にちょっと似ているね』
話を聞いてあははと笑う姿に、俺はぽかんと呆気にとられた。
『このあたりで止めておこうと力をセーブするところなんて、そっくりだ。まあその理由は全然違うけれどね』
彼は穏やかに晴れている空を見上げた。
『そうだね。努力するということは、強い気持ちと、支えてくれる何かがないとできないことなのかもしれないね』
そう一拍置いて、彼は俺の方を見た。
『強くなる努力をするために、ご両親と一度話をしてみると良いかもしれないよ。拗れているように見える糸も、意外とちょっとしたことで解れることがある。ひょっとして、君から歩み寄るというひとつの小さな動きで、驚くほど簡単に解決するかもしれない』
そしてぽんぽんと優しく俺の頭を撫でた。
『本当は、一生懸命取り組んでみたいことがあるんじゃないかい?ご両親との関係を気にして、一歩踏み出せないだけで』
『なんで――――』
分るんですか?
その言葉が出る前に、俺の口からは嗚咽が零れた。
『それなら、尚更だよ。そこで諦めてしまえるようなことなら、そのままでも良いのかもしれない。ご両親のことも、やりたいことも。でも諦めたくないのならば、君からも一歩踏み出してみないと』
そうだ。
この親子関係だって、父だけを責めることはできない。
素直に甘えることも、近付こうと努力することもしなかったのは俺なのだから。
『この菓子はね、私の娘の小さな一歩なんだ。彼女がこの先どうすることを選ぶかは分からないけれど、どんな決断をしたとしても、私は応援したいと思っている』
“このあたりで止めておこうと力をセーブするところなんて、そっくりだ”と彼は言った。
たった六歳の少女が、何を?と思わなくもなかったが、どうやら菓子に関係することらしい。
見た目はその辺で見かけるものと、そう変わらない、少し焦げ目のついた、ふっくらとした焼き菓子。
『……この菓子の名前は、何というのですか?』
『うん?ああ、娘は“マドレーヌ”と呼んでいたね』
まどれーぬ。
俺はその名前を忘れないよう、何度か繰り返し呟いた。




