第七話/背徳の画家ミロスラヴ(後編)
どれほどの時間が経ったであろうか。アデーレはヴィトーの鎖骨の上に頭を乗せて、うつ伏せでまどろんでいたが、意識がはっきりするに従い、その胸が呼吸をしていないことに気づいた。
「ヴィトー?」
手を伸ばしてヴィトーの顔を触ってみた。さっきまであれほど熱を持っていた額は冷え切り、汗に濡れた体もひやりと感じられる。
「ねえ、ヴィトー?」
今度はもう少し大きな声で呼びかけ、肩を揺すってみた。薄っすらと開いた瞳はいつもと変わらぬ、周辺が少し灰色を帯びた薄青色だが、もう何も映してはいない。そこでようやくアデーレは、ヴィトーが既にこの世にいないことを悟った。
「いや……」
彼が不治の病に侵されていることは、アデーレも理屈ではわかっていたはずだ。それでも、この瞬間が来るまでは、どこか遠い世界の出来事のように考えていた。
しかし目の前で、肉体という器だけになってしまったヴィトーを見て、急激にアデーレの精神に恐慌が襲い掛かってきた。
「いや、……いや! ヴィトー、いやよ!」
体を揺さぶり、頬をさすり、何とか蘇生を試みようとするも、ヴィトーは薄目を開けたまま、首をゆらゆらと揺らすばかりである。アデーレは錯乱し、叫び声をあげた。
「ヴィトー! ヴィトー! いやよ、私を一人にしないで! いや、ヴィトー! ああ、ヴィトー!」
アパートの住民から通報を受けた警官が、ドアを破って部屋へ入ってきたのは、それからしばらくしてからのことである。粗末な部屋の中には、男女が一組。裸に血まみれのシャツを着た男が床に寝そべり、その上に修道女と思われる女がまたがっていた。
「思われる」というのは、アデーレが頭にウィンプルだけを着け、あとは一糸まとわぬ裸だったからだ。そしてその体には夥しい血がついている。
さらには床にもあちこち血が飛び散り、床板は剥がされて穴だらけだ。室内の惨状と二人の様子から、警官はアデーレがヴィトーを刺したのだと思い、警告を発した。
「動くな、手を上げろ」
しかしアデーレは呆然として、その声が耳に入っていなかった。やがて警官が彼女をヴィトーの上から引き剥がそうとしたとき、ようやく我にかえって半狂乱になった。
「やめて、触らないで! ヴィトーをどうするつもりなの、いや、やめて!」
裸のまま、ヴィトーの死体に縋りつこうとするアデーレを、警官二人がかりで押さえ込みシーツで巻き上げた。そして、泣きわめくのも構わず馬車に押し込み、拘置所へ移送したのである。
それからのことを、アデーレはよく覚えていない。ヴィトーの体に傷がないことから、殺傷の疑いはすぐに晴れたものの、変死であることには違いない。そのため、警官はあれこれとアデーレに尋問をした。しかし当の本人は、もう自分の世界にヴィトーがいないという事実をどう受け止めていいかわからず、ただ曖昧に受け答えをするだけである。
最後に描きあげた、あの絵はどうしただろう。アパートにあった絵はすべて、画家ミロスラヴの足跡である。自分が所持できないとしても、ハンナかブランドンに保管してもらわねばならない。
警官の声はぼんやりとしか耳に入ってこなかったが、絵に関する事柄だけは、画廊の経営者だった頃のように頭が冴えていた。ヴィトーが命の間際に残したものを、粗末に扱われることだけは、我慢がならなかった。
やがて「今夜は埒があかない」と、警察は取り調べを断念し、アデーレは独房に収監された。間もなく年が明けるという厳寒の頃で、室内には火の気もなく息が白く曇る。古びた毛布が何枚か支給されたものの、凍えそうな寒さだ。これが嫌ならさっさと取り調べに応じろということだろう。
アデーレは毛布にくるまり、固い寝台の中でヴィトーのことを思い浮かべた。離れ離れになる瞬間は、身が引き裂かれるほど辛かった。もう二度と彼に触れることができないのであれば、これ以上生きている意味がないように思える。
あまりの寒さにぶるりと震え、アデーレは激しく咳き込んだ。無理を重ねていたせいで、秋にひいた風邪がなかなか治らない。それに加えてこの寒さだ。また風邪をこじらせるのではないかと思ったそのとき、アデーレは喉の奥で異変を感じ、激しい咳とともに痰を吐き出した。
毛布に散った痰の中には、赤い飛沫が混じっていた。二人が逃亡を始めた当初、よくヴィトーが吐き出していたものと似ている。アデーレはしばらくそれをじっと観察し、やがて満足そうな微笑を浮かべた。
「ヴィトー、あなたは……私の中に、いるのね」
それからアデーレは、2年と少し生きた。ラスール国からリマソール王国へは病人の送還という体を取り、ひっそりと水面下で物事が処理された。
その手配一式を行ったのが、シャイロである。療養のために郊外の小さな家を用意し、医者と看護師を雇った。さらにはハンナをオレニア領から呼び戻し、アデーレの侍女として身の回りの世話をさせた。もちろん、ハンナの養女になっているアイリスも一緒だ。
「あいつは、とんだ阿呆だ。俺の女房になりたがる女は星の数ほどいるってのに、貧乏な絵描きと駆け落ちしやがった。しかも、死病を患って戻って来たんだぜ。だけど、そんな阿呆でもいっぺんは身内になった女だ。あの世に逝くときくらい、ちゃんと見送ってやるさ」
アデーレに裏切られた直後は、怒り心頭のシャイロであったが、もともと情の深い男である。元妻を異国で野垂れ死にさせるのは、彼の信条に反することだったと思われる。
ハンナはこの取り計らいに深く感謝し、献身的にアデーレに尽くした。そして最期は枕元で手を握り、生涯の主を見送った。アデーレが穏やかな気持ちで旅立てたのは、ハンナの手厚い看護によるところが大きい。
存命中、アデーレは庭で遊ぶアイリスの姿を窓越しに眺め、その健やかな成長ぶりに目を細めていたという。とうとう死ぬまで母と名乗ることはなかったが、アイリスが20歳で結婚する直前、ハンナが生誕の真実を彼女に伝えた。
アイリスは、落ち着いた様子で「そうじゃないかと思っていた」と笑ったという。庭に面した病室の窓から、自分を見守るアデーレの眼差しが、とても優しかったことを幼心に深く記憶していたのだ。
やがて、アデーレが病床で心を込めて編んだ、それは見事なレースのヴェールを身に着けて、アイリスは愛する男の元へ嫁いで行った。そのヴェールは以後、代々の娘に受け継がれている。
──リマソール王国、20XX年
「まさか君が、ミロスラヴの末裔だったとはね」
「ええ、この前髪のチャーミングな白い筋が、その証拠よ。さっき美術館で見たミロスラヴの自画像にも描かれていたでしょう」
ある日一組の若いカップルが、旧ペルコヴィッチ領、レヴェック郊外の丘の上にある「ペルコヴィッチ記念美術館」を訪れた。かつてこの地の商業の祖を築いたノヴァク男爵が、ミロスラヴの支援者であった元妻を供養するため、遺作を買い集めて収蔵した施設である。
いまやミロスラヴはこの国だけでなく、世界的に高く評価される画家のひとりであるが、絵のモティーフが背徳的であったことから、長い間その作品群は秘匿されてきた。しかし後年、収蔵作品がペルコヴィッチ家に寄贈され、現在は国の文化財として一般に公開されている。
その美術館の裏庭に、ひっそりとミロスラヴの墓所があることは、この美術館の職員とペルコヴィッチ家の親族のみが知る。ちょうど、アデーレとヴィトーが子ども時代にスケッチ遊びをした、厩舎に続く道の途中である。
カップルは間もなく結婚式を控えており、その記念に新婦の先祖が眠るこの場所を訪れた。ミロスラヴの娘であるアイリスが7人もの子を産んだため、今やその末裔は全国に何百人もいるが、ごくたまに前髪に白い筋がある子どもが生まれるという。間もなく花嫁になる娘が、そうであった。
「君も家宝のヴェールを着けて、ヴァージンロードを歩くの?」
「もちろんよ。そのヴェールを身に着けた花嫁は、必ず幸せになると決まっているの」
二人は微笑み、短いキスを交わして墓所に花を供えた。アデーレが好きだったという、薄紅色のマルタゴン・リリーである。仄かに甘い香りが風に乗り、青い空に溶けてゆく。墓石には優美な筆記体で、こう刻まれていた。
──画家ミロスラヴとその支援者アデーレここに眠る
『背徳の画家ミロスラヴとそのパトロネス』完
最後までお読みいただきありがとうございました。次頁の後書きにて完結のご挨拶を申し上げたいと思います。お時間が許しましたら、ぜひご一読くださいませ。




