表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
背徳の画家ミロスラヴとそのパトロネス  作者: 水上栞
Season8/この世の果てまで
55/60

第四話/櫟の木の下にて君を待つ



 ヴィトーの脱走は、行き当たりばったりにしてはうまく行った。将校は昼間から酔って泥のように眠っていたし、銀貨4枚と銅貨6枚がポケットにあった。夕刻に出発する荷馬車の積み荷が空の樽だけなのも幸運であった。キャンプへ支援物資を運んだ帰りなので、御者と交代の兵士だけで、護衛もつけずに馬車は出立した。


 何より、誰もヴィトーの存在を認識していなかったことが大きい。送られて来たばかりの新顔で、宿舎に放り込まれて便所の掃除を言いつけられていた。翌朝の点呼で不在は明らかになるだろうが、その時にはもう逃げ出してから半日近く経っている。


 もちろん全軍に通達は出されるだろう。しかし、労咳持ちの二等兵ごときに追手がかかることはない。ただし、どこかの街で捕縛されれば、見せしめとして嬲り殺しになるのは間違いない。



 問題は、いつ荷台から抜け出すかである。ヴィトーは必死に知恵を巡らせ、草地と思われる場所で馬車から飛び降りた。うまく草の上に落ちたので、音はごまかせたはずだ。そのまま息を潜めて、馬車が遠ざかるのを待つ。永遠にも思える、長い数分であった。



 やがて、すっかり車輪の音が聞こえなくなったころ、ヴィトーはむくりと起き上がった。恐怖で膝が震えたが、じっとしているわけにいかない。周囲はすっかり陽が落ち、ヴィトーは薄闇に乗じて林の中を進むことにした。しばらく東へ進んだあたりに、小さな集落があることを演習の際に知っていたのだ。



 ヴィトーが集落について真っ先にやったことは、泥棒である。農家の納屋から、干し肉と作業着を盗んだ。軍隊の制服のままでは、一目で脱走兵だと見抜かれてしまうからだ。そして着ていたものは細かく破って土に埋めた。体力も精神力も消耗が激しかったが、さらに歩いて小さな町までたどり着き、将校から盗んだ金で紙と木炭を買った。そして約一年半ぶりに絵を描き、あまりの歓びに声をあげて泣いた。






「あの、もしかしてシスター・アデーレですか?」



 麓の村から毎週、小間物の配達に来る農家の娘に尋ねられ、アデーレは不思議に思った。なぜ村娘が自分の名を知っているのだろうか。



「……そうですけど」


「ああ、よかった。修道女ってみんな同じに見えるんだもの。この似顔絵がなければ、わからなかったわ」



 そう言って娘が見せた紙を見て、アデーレは痺れるような衝撃を受けた。そこには懐かしいミロスラヴの手に成る、自分の肖像画が描かれていたからだ。



「どうして、これを」



 それだけ絞り出すのが精いっぱいだった。娘は呑気な顔でへらっと笑うと「これを描いた人、うちにいるんです」と絵を指さした。ヴィトーは数日前、村の農道で行き倒れになっているところを娘の兄に助けられたそうだ。事情を聞いてみると、アストラハン修道院にいる友人に会いに来たのだという。



「きっと何日も歩き通しで、疲れちゃったのね。修道院は男子禁制だから会えないわよって言ったら、じゃあ伝言して欲しいって」



 アデーレの頭は混乱を極めた。麓の村は修道院から山道を2時間ほど下った場所であるが、そこに徴兵されたはずのヴィトーがなぜいるのか。娘はさらに続けた。



「裏門の近くに、櫟(くぬぎ)の木があるでしょう。今夜、そこで朝まで待つって言ってました。話がしたいそうです」



 そう言うと娘はにやにやと笑みを浮かべた。彼女の頭の中では、ロマンチックな恋物語ができあがっているのかもしれない。しかし実際は、捕縛されれば死につながる危機である。アデーレが黙っているのでつまらなくなったのか、娘は「じゃあ、伝えましたからね」と言うと、踵を返して去って行った。






 それからの時間は、アデーレにとって拷問だった。まずどうしてヴィトーが会いに来たのか、目的が全くわからない。修道女たちには夕食後から就寝前の祈りまで、自由時間があるとはいえ、その間に監督官の目を盗んで外へ出るのは不可能である。機会があるとすれば、皆が寝静まった夜中だ。


 しかし常識的に考えれば、抜け出すことなど以ての外である。煩悩を捨て去る修行の場において、修道女が男に会うため戒律を破るなど、神の怒りに触れる行為に他ならない。しかしその一方で、長い間封印していたヴィトーという存在が、アデーレの中で急速に膨らみつつあった。




「ああ、神よ。お助け下さい」



 心の内で神の導きに縋り、アデーレは一心不乱に祈りをささげた。そして消灯し、ベッドにもぐりこんで毛布にくるまると、どうかこのまま眠りに落ちて、馬鹿な行いをしませんようにと願った。






 予想していたことだが、眠りは一向に訪れなかった。アデーレは冴えた目で暗がりを見つめながら、すぐそこにヴィトーがいることを意識から振り払おうとした。このまま朝を迎えれば、何事もない平穏な毎日がやってくるのだ。


 もしも再びヴィトーに会ってしまえば、自分の感情を制御する自信がない。もちろん、話をするにしても塀越しではあるのだが、せっかく閉じた傷口を掻き毟るような行いであることは間違いない。アデーレは必死に目をつぶり、眠りを手繰り寄せようとした。






 夜明けにはまだしばらく間があろうかという闇の中に、アデーレは佇んでいた。足音を消すために裸足のままで、寝間着にショールという、貴族のころなら考えられない格好である。眼前には、修道院の裏門を覆うように聳える櫟の木。その幹に寄りかかるようにして立つ人影を、闇に慣れた目が捉えた。



「……アデーレ?」



 声を聞いた瞬間、アデーレの心の中で、錠が弾けて飛ぶ音がした。ここへ来たことを激しく後悔しているのと同時に、疼くような歓びが体を駆け巡るのを感じる。アデーレは覚悟を決めて、ヴィトーが立つ塀の近くに歩み寄った。



「ああ、アデーレ。本当に君なんだね、ごめんよ無理なことを言って」


「いったいどうしたの、軍へ入隊したって聞いたわ」



 できうる限りの精神力を振り絞り、アデーレは平静を装った。月明かりに照らされたヴィトーの顔は、すっかり肉が削げ落ち、丸刈りが伸びたであろう髪は不揃いで、薄汚れたシャツには穴が開いている。


 レヴェックでモデルの女たちに甘い笑顔をふりまいていた男と、とても同一人物には思えないほどやつれているが、それでも笑った目尻に並ぶ二つのほくろを見て、アデーレは懐かしさで泣きそうになった。



「実は……逃げてきたんだ。騙されて入隊して、絵が描けなくなったことに耐えられなかったし、最後にアデーレに会って謝りたかった。僕のせいで本当に、ごめん。取り返しのつかないことをしてしまった」


「そのことは、もういいの。私にも責任はあるわ。でも、最後って何? あなた、これからどうするつもり?」



 ヴィトーはアデーレの問いに、ぐっと息を飲み込み、やがて思い切ったように言葉を吐き出した。



「僕は、もう長くは生きられない。……胸を、患っているんだ」



 言われた意味が理解できず、アデーレは茫然とした表情のままヴィトーを見つめた。



「戦地で死ぬくらいなら、逃げて一枚でも絵を描きたかった。ここへ来たのは、唯一思い残したことが、君への謝罪だったからなんだ。ごめんよ、アデーレ。そして、ありがとう。君だけは、いつも僕の味方だった」



 そう言うと、ヴィトーは櫟の木の向こうへと消えていった。アデーレは今この瞬間に起きたことが、まるで幻のような気がして、彼の去った暗闇をいつまでも見つめていた。






 翌朝、アストラハン修道院から修道女がひとり消えた。朝の礼拝の後、各々が畑仕事や洗濯に従事する中、シスター・アデーレは焚き木を拾いに行くと言って忽然といなくなった。


 アストラハンに来て、約2年。世俗や煩悩から切り離され、日々の祈りの中でようやく手に入れた、アデーレにとって康寧な精神世界。


 ヴィトーとのたった一瞬の邂逅で、それはまるで砂の城が波に浚われるが如く、砕けて散ったのである。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] いやぁ……。アレだわ……。 ここでようやくヴィトーがアデーレ『1人』を見るわけですね。 なんともはや……。
[良い点] アデーレの馬鹿!でも今回は許す!
[良い点] なかなか平穏は訪れませんわな……
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ