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背徳の画家ミロスラヴとそのパトロネス  作者: 水上栞
Season8/この世の果てまで
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第二話/彼と彼女が失ったもの



 アデーレが修道院へ発つにあたり、最も大きな問題となったのは、アイリスの養育である。絶縁した妹の子であるため、ペルコヴィッチ伯爵家で引き取ることはできない。しかるべき家へ養女に出すのが良いだろうという話がまとまりかけたところで、名乗りを上げたのがアイリスの祖母に当たるバージットである。



 彼女は今回のアデーレの行いを、自分の責任だと深く悔やんでおり、何とか娘の助けになることがしたいと熱望していた。しかし、アイリスをバージットの養女にすれば、伯爵家との繋がりが露見してしまう。そこで、ハンナを自分の侍女に雇い入れ、その娘として孫を手元で養育したいと申し出たのだ。


 家族の者たちは、祖母のもとで育つなら安心だと賛成したが、アデーレだけはこの策に猛反対であった。ハンナは来春マシューとの結婚が決まっており、母の暮らすオレニア領へ移るとなれば、結婚を諦めなくてはならないからだ。



「お母さまがアイリスを育ててくださるのは有難いわ。でも、ハンナを侍女にするなんて駄目よ。彼女はレヴェックで結婚が決まっているのよ」


「アデーレ、侍女の件はハンナ本人が願い出たことなんだ」



 ブランドンからそう告げられ、アデーレはハンナを問い詰めた。するとハンナは侍女を志願した件は本当であると認めた。



「私はアデーレ様の侍女にしていただいた日から、生涯あなた様にお仕えすると決めております。マシューとの結婚にしても、アデーレ様のお傍にいることを前提に承諾しました。それが叶わないのであれば、せめてアデーレ様の御子をお世話させていただきとう存じます」


「馬鹿なことを言わないで。あなた、幸せにならなきゃだめよ。お願い、マシューと結婚してちょうだい。これ以上、私のためにあなたの人生を犠牲にしないで」



 泣きながらアデーレが訴えたが、ハンナの意思は固かった。既にマシューにも結婚の断りを告げてきたらしい。ハンナは美しい青い瞳を潤ませて、初めて侍女になった日と同じように、跪いてアデーレを見上げた。



「ハンナの幸せは、アデーレ様にご奉公することでございます」



 アデーレはその言葉を聞いて、床に崩れ落ちた。ハンナの忠誠に対して、何も報いてやれないのが、悔しくて切なくて、心がばらばらになりそうだった。






 別れの朝、アデーレは涙でくしゃくしゃになりながら、小さなアイリスを抱きしめて何度も口づけをし、やがて迎えの馬車に揺られてアストラハンへ旅立った。



 その光景を、遠くの木陰からヴィトーが眺めていたことは、誰も知らない。アデーレが裁判にかけられることを彼に知らせたのはシャイロで、道端でいきなり襟首を引っ掴まれ横面を殴りつけられた。そして、画廊からの解雇を言い渡されたのだ。



「いいか、三日以内にこの町から出ていけ。そしてお前のせいで、アデーレがどんな目に遭ったか、一生かけて悔いろ」



 ヴィトーはあまりの衝撃にそこからしばらく動けなかった。大きなお腹を抱えた彼女に何度も会ったが、それが自分の子だったなど思いもしなかった。そして、そのせいでアデーレが地の果ての修道院へ送られてしまうことを知り、激しい罪悪感と後悔に悶えた。



「ああ……、アデーレ。僕は、何てことを……」




 ヴィトーは言われた通り、すぐさま下宿を退去した。生まれ育った故郷ではあるが、もうここへは戻れない。作品は画廊に預けているので、わずかな画材を背負い袋に詰め込むと、暗澹たる心持ちで王都へと向かった。



 すでにミロスラヴの名は国内の画商に知られているため、仕事に困ることはないだろう。画家には醜聞も芸の肥やしと言えるかもしれない。しかしヴィトーにとって、あまりにも失ったものが大きかった。


 幼いころ、自分の才能を見出して絵の世界に送り出してくれたのが、アデーレである。生活の面倒や、画家としての仕事も支えてくれた。そして、道に外れそうになったとき、いつも手を差し伸べてくれたのは彼女だ。画家ミロスラヴがいまあるのは、アデーレのお陰と言ってもいい。しかし自分はその恩に報いるどころか、彼女の人生を破滅させてしまった。



 ヴィトーはようやく、自分の行いの根本的な間違いに気づいた。彼女の望むものを与えられないのなら、受け入れるべきではなかった。年上で、男である自分が制御すべきだったのだ。しかし今さら悔やんでも遅い。彼女はもう、世界と隔絶されてしまった。






 王都に着いたヴィトーは、しばらく安宿で窓の外を眺めて暮らした。レヴェックとは町並みも人の流れも異なる光景の中で、心の痛みを誤魔化そうとした。しかし、ようやく重たい腰を上げて仕事をもらいに行った画廊で、アデーレの消息を聞いて体が凍り付いた。



「ノヴァク男爵夫人の画廊にいたんだってな。もっとも今は元旦那が経営者になったらしいが。あの奥さん、いったい何をしたんだい。来週、アストラハンに送られるって話じゃないか」



 気が付けばヴィトーは画廊を飛び出し、乗合馬車の待合所へ走っていた。そして、そのままレヴェックへ舞い戻り、アデーレの出立を木陰に潜んで盗み見たのだ。アデーレは質素な麻の服を着て、泣きながら何度も赤ん坊に口づけをしていた。


 その赤ん坊の前髪に白い毛が一筋あるのを見て、ヴィトーは過去に経験したことのない気持ちになった。後悔と、哀しみと、ほんのわずかに、この世に自分の分身がいるという不思議な感覚もあった。



 それからヴィトーは放心状態で王都へ戻り、ひどい錯乱状態の中で一枚の絵を描いた。それが、ミロスラヴの作品の中で最も深い哀しみを湛えた「別離」であり、涙で瞼を腫らした女性が、眠る赤ん坊に口づけをしている場面が描かれている。ヴィトーはこれを、自身も泣きながら描き上げたという。






 一方、アストラハンに着いたアデーレは、自分が全て失ったことを改めて実感していた。愛する家族や娘と別れ、貴族籍も苗字も剥奪されてしまった。今はただの「シスター・アデーレ」である。


 ここにやって来た女たちは、いずれも貴族や富裕層の生まれであるが、身分や出自のことは一切口に出してはいけないし、聞いてもいけないことになっている。もちろん、どういう理由でここへ来たかもだ。



 アデーレは到着の夜、監督官を務める修道院長から、俗世との別れの儀式として髪を短く切られた。もとから、平凡すぎて好きな髪色ではなかったが、床に広がる薄茶の毛束を目にしたとき、平凡であることがいかに幸せであったかを痛感した。そして同時に、何回生まれ変わろうと、また自分は同じ過ちを繰り返すだろうとも確信していた。


 それほど、アデーレにとってヴィトーへの執着は根深いものだった。だから、こうして彼のいない世界に自ら飛び込むことでしか、想いを断ち切れなかったのだ。


 きっとヴィトーを愛した記憶は、命が尽きるまでアデーレの中から消えない。その記憶がだんだんとぼやけて、いつか見た遠い風景のようになるまで、神に祈り無心になることが、アデーレにとっての禊となるだろう。



 着なれない、修道女の筒形ワンピース。粗末な布地が歩くたびに脚にまとわりつき、弥が上にも我が身がもう貴族でないことを思い知らされる。ここへ来たとき、着ていた服や私物は没収され、アデーレの持ち物はこの修道服と下着が二組、あとは神の教えを説いた経典だけである。



 アデーレは冷たい水で顔を洗い、夜明けの山際を振り仰いだ。もう、故郷がどの方角にあるのかさえわからないが、連なる空の下のどこかで暮らす愛する人々に、どうか幸あれと祈りを捧げる毎日である。




 しかし、その静かな日々も長くは続かなかった。アデーレが神の御許で二度目の春を迎えるころ、一通の手紙が修道院に届いた。差出人はハンナである。


 アデーレはその手紙を読み、ある一文で思わず息を呑んだ。淡々とした近況報告に見せかけた、ある衝撃的な報告がしたためられていたからだ。




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― 新着の感想 ―
[良い点] シャイロが格好良くて。本当にシャイロ…………(見納めなんですね。ガン見しておきました) アイリスちゃんの行く末は気になっていたので、バージットが名乗りをあげてくれたことにホッとしました。…
[良い点] そこまで……そこまでヴィトーが好きなのか。 [一言] ハンナの献身に泣きました。愛が深い。
[良い点] ぐおおおーーーーんハンナぁぁぁーーー! なんてことを! バカバカ! それ誰も幸せにならないパターン!もぉーー! それもこれもアデーレがしっかりせんからじゃあーー! ヴィトー……やっと気付…
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