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背徳の画家ミロスラヴとそのパトロネス  作者: 水上栞
Season8/この世の果てまで
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第一話/流刑地アストラハン



 エリザベッタの死後、ヴィトーはまるで憑き物が落ちたかのように、精力的に絵に向かい合った。自ら作り上げた幻想への恋に破れたことで、人間考察についての新しい境地が拓けたと言える。この時期のミロスラヴの作品は、力強い意志と貪欲な探求心に満ちていた。


 一方、アデーレは家庭を守ることに専念した。忙しいシャイロがゆったり寛げて、小さなアイリスがすこやかに成長できる、家族にとって最高の環境を整えるため、画廊の仕事の大半はトーラスに任せ、家事と育児に精力を注ぎこんだ。


 ヴィトーのことも、今度こそこのまま忘れてしまおうと決心した。報われない執着が身を滅ぼすことは、エリザベッタが死をもって教えてくれた。アデーレは今の幸せを何としても守ろうと、良い妻であり良い母であることを心に誓った。ハンナから嬉しい報告があったのは、そんなある日のことである。




「アデーレ様、お耳に入れておきたいことが」



 ハンナには珍しく歯切れの悪い物言いに、アデーレは何となく直感でひらめくものがあったが、あえて「あら、何かしら」と惚けて尋ねた。



「実は、マシューのことなのですが……、所帯を持とうかと考えておりまして……お許しいただけますでしょうか」


「おめでとう、ハンナ! ようやく決心したのね。許すだなんて、当たり前じゃない。ねえ、いつごろ一緒になるの?」



 マシューはシャイロの商会に勤める男で、以前からハンナに根気強く求婚していた。その努力の甲斐あって、男に恐怖心のあるハンナの心も絆されたようだ。アデーレは自分のことのように嬉しく、ぎゅっとハンナを抱きしめた。



「家族で住んでいる家が老朽化したので、建て直している最中なんです。それが終わってからなので、春ごろになると思います」


「そうなのね、とにかくおめでとう。お祝いをさせてちょうだいね」



 自分が方々を連れ回したせいで、婚期を逃してしまうのではと思っていたが、ようやく彼女も女性の幸せを手に入れられると思うと、アデーレは心から安堵した。このまま皆で恙なく暮らしていければ申し分ない。そう思っていた矢先に、アデーレにとって大きな危機が訪れた。




「あらまあ、アイリスお嬢さまは若白髪がおありですね」



 乳母の何気ないひと言で、アデーレとハンナが凍り付いた。生まれてしばらくのふわふわとした産毛が、次第にしっかりとした子どもの頭髪に変わってきたころ、アイリスの前髪に白い毛が混じり出したのである。



 ――生まれつきだし、炭鉱夫だった父さんも同じ髪だったよ



 ヴィトーと初めて会った日、そう教えられた。アデーレは全身が冷たくなるのを感じた。アイリスの前髪をよく調べてみれば、一か所に白い毛が密集して生えてきている。シャイロの子と信じて育ててきたが、アイリスはヴィトーの子で間違いないだろう。



「アデーレ様、どうなさいますか」



 ハンナが蒼白な顔で狼狽えるが、答えなど見つかりようがない。自分の母がセルジュを嫡子として産んだのを知った時は、なんて愚かなことをと思ったが、自分も全く同じではないか。母は黙って逃げ切ろうとしたが、発覚して伯爵家の屋台骨を揺るがす大騒動となった。アイリスの場合は外見的な特徴が顕現しているだけに、どうやっても言い逃れはできない。



「……私から、シャイロに話すわ」



 シャイロを相手に下手な言い訳や隠蔽工作をしたところで、悪手になるのは目に見えている。アデーレは沙汰を言い渡される罪人のように、不在の夫が帰宅するのをじりじりとした気持ちで待った。






「そんなこったろうとは、思っていたさ」



 アデーレが覚悟を決め、冷汗をかきながら告白したことに対し、シャイロの答えは淡々としたものだった。アデーレのヴィトーに対する献身を見ていれば、ただの幼なじみでないことくらい、男女の機微に敏いシャイロには想像に難くない。言葉を失うアデーレに、シャイロは事務的に話し合いの段取りを指示した。



「まあ、決定的な証拠はなかったがな。お前さんが正直に白状するか、それとも知らんふりで済ませるつもりか、どっちだろうって静観してたんだ。とりあえず伯爵に話を通しな。どうするかは、それからだ」



 翌日、沈痛な面持ちのブランドンがノヴァク邸を訪れ、妹の不始末に対する謝罪を行った。しかしシャイロはそれをそこそこで遮って、本題に切り込んだ。



「領主様に謝ってもらうのは恐れ多いが、それで手打ちにできる問題じゃない。この国の法律に則れば、既婚の女が姦通をした場合は裁判所で離縁を言い渡せることになっている。もしくは両家で示談をするかだ」


「離縁はあり得ない。どうにか示談で収めてくれないだろうか」



 体裁を重んじる貴族間の結婚では、余程の場合を除いて婚姻関係はそのままに水面下で示談が行われる。故郷で蟄居しているバージットが、いまだペルコヴィッチ伯爵家に属しているのはそのためだ。しかし、ついこの間まで平民だったシャイロには、家名や体裁などはさして意味のないものらしい。



「示談と言うなら、どういう条件を出すんだい? 最低でも伯爵家の事業の権利譲渡くらいは提示してもらわないと、こっちは納まりがつかないんだが」



 ブランドンの顔色が変わった。現在ペルコヴィッチ伯爵家は、シャイロから多額の融資を受けて軌道に乗せた保管庫に加え、山の斜面を利用した農地の開発にも乗り出している。その事業を譲渡してしまえば、伯爵家には借金だけが残る。また、先代の貧乏生活に逆戻りだ。



「それは困る。そうなると、伯爵家の財政が傾いてしまう。どうか、穏便に」


「俺との結婚を承諾したのはアデーレだし、俺は夫として女房にもその身内にも、できる限りの誠意を尽くしてきたつもりだ」



 その通りだとアデーレは思った。シャイロはいつもアデーレを尊重してくれたし、ペルコヴィッチ伯爵家にとっても最大の支援者だった。こんなに良い夫はどこを探してもいないだろう。それなのに、彼の信頼を裏切ってしまった。



「よその男の赤ん坊を、俺の子だと偽っていたんだ。それで丸く収めてくれってのは、あんまり都合が良すぎやしないかい。確かに俺は平民上がりの下級貴族だが、そこまで舐められる覚えはないぜ」


「それは申し訳ないと思っている。しかし……」



 ふいに、シャイロがアデーレに問いかけた。



「アデーレ、俺はお前さんに聞いたよな。あの男は情夫なのかと。そしたら、お前さんは違うと言った」


「……言いました」


「もしそうであっても、夫婦としての体面に響かないよう上手にやってくれとも言ったよな」



 アデーレが無言で頷く。



「俺は商人だ。商人にとっていちばん大切なものは、信用だ。俺はお前さんが正直であれば、どんなことでも受け入れてやったさ。しかし、お前さんは俺を謀ろうとした。俺は、身内に嘘つきはいらねえ」



 アデーレは今さらながら、自分がしでかしたことの愚かさを痛感した。それが言葉になって溢れ出たのだろう。アデーレは自らを裁く決心を告げた。



「裁判にしてください、離縁に応じます」



 ブランドンが思わず立ち上がった。まさか妹がそんなことを言うとは思わなかったのだ。



「馬鹿なことを言うな、そうなればお前は罪人として裁かれるんだぞ。罰として貴族籍を剥奪されるだろう。いったい、どうやって生きていくつもりだ」



 それはアデーレにもわかっていた。自分が公に裁かれれば、伯爵家にとっても不名誉極まりない。しかしアデーレは自分の愚行の責任を、実家に負わせるつもりはなかった。



「私をペルコヴィッチ伯爵家から絶縁してください。修道院へ、行きます」



 これには、ブランドンだけでなくシャイロも絶句した。貴族女性にとって、修道院は流刑を意味する。伯爵家は身内に厳罰を下したとして名誉を保てるが、アデーレはこの先一生、俗世はもちろん家族とも隔絶された世界で生きることになるのだ。



「お前さん、それでいいのかい」


「はい」


「それなら、手打ちだ。法に従って離縁するんだ。俺は何も言うことはないぜ」






 シャイロとアデーレが夫婦として暮らしたのは、その日が最後となった。話し合いの後、アデーレはアイリスとともにペルコヴィッチ伯爵家へ連れ戻され、何日にも渡る家族会議が開かれた。ブランドンはアデーレに思いとどまるよう説得したが、とうとう妻のエルシアから厳しく諫められてしまった。



「アデーレ様を助けたい気持ちは皆同じです。しかし、今の伯爵家には示談に応じる力がありません。この家が没落してしまえば、息子たちは路頭に迷うのですよ」



 ブランドン夫婦には2人の子がおり、彼らの将来を考えると選択肢は限られている。こうしてアデーレは翌月の離婚裁判の後、貴族籍を剥奪され修道院へ送られることとなった。


 行く先は、アストラハン。リマソール王国南部の山岳地帯にある、厳格な規律の女子修道院である。修道女たちは畑を耕し、森で焚き木を集め、日々の糧を自給する。模範的に数十年を過ごせば還俗することも可能だが、ここから戻ってきた者は過去に例がないという。




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― 新着の感想 ―
[一言] そうなってしまったかぁ〜。 それで最初のシーンに繋がるのかぁ〜。 ひょっえ〜。 完全に水上さんの手のひらの上で転がされております!
[良い点] アデーレ…… なんて不器用な…… くっ……
[一言] シャイロは曲がらないイイ男。 ついにそうなってしまったかぁ……これは完全にアデーレが悪い。 ヴィトーはどう出る?
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