第六話/恋に堕ちたミロスラヴ
公爵家の肖像画を手がけたことで、ミロスラヴは画家として一足飛びに格が上がり、国内各地の貴族から多数の注文が舞い込むようになった。
そのたび、何日もかけてアデーレが付き添うわけにはいかないため、画廊に彼専門の世話役を雇い入れ、同時に小さな屋根裏部屋を出てレヴェック市街にアトリエ兼住居を構えた。そこには女中と小間使いが1人ずついる。馬小屋の下男だった頃に比べれば、なんとも出世したものである。
ミロスラヴの名が売れたことで、アデーレの画廊も景気が良くなり、所属する他の画家たちも発奮するという好循環が生まれた。さらには、妻の事業が公爵家とつながった機を逃さず、シャイロも商会の新たな客筋を開拓していった。この数年で最も、アデーレの運が開けた時期だと言ってもいいだろう。
しかしその一方で、哀しい出来事もあった。アデーレの実父である、前ペルコヴィッチ伯爵がこの世を去った。数年前に大病をして以来、体調が思わしくなかったことに加え、妻バージットとの事実上の離縁や、隠居したことによる気力の喪失などで、心身ともに急激に衰えが進んでしまったようだ。
「この領地を、20年以上も切り回してきた前伯爵の葬式なんだぜ? けちけちしねぇで、立派に送り出してやろうじゃねえか」
当初、葬儀は予算を抑えて小規模に行われる予定だったが、シャイロの一声で盛大なものになった。アデーレは父を亡くして消沈していたが、近隣だけでなく王都からも弔問客が訪れ、生前の父の思い出話を聞けたことで、ようやく近親者の死を受け入れることができた。
葬儀は死者のためでなく、残された者の未練を断ち切る儀式というが、まさにその通りである。墓地での祈祷にはバージットとセルジュも立ち合い、長年にわたり夫、そして父として共に暮らした故人に最後の別れをした。
ちなみに、諸々の費用は全てシャイロが支弁した。ちゃっかり者の彼のことだ。弔問客との商談など、収支の辻褄が合うようにはなっているはずだが、妻の実家に対する懇ろな配慮に、アデーレは心の中で深く感謝していた。馴れ初めはひどいものだったが、今は彼が夫で本当によかったと思っている。
こうして何も変わらないようでいて、それでも刻々とアデーレの暮らしは変化していった。さらに子宝に恵まれれば申し分ないのだが、そればかりは天からの授かりものである。
何しろ、シャイロが滅多に家にいないのだ。ペルコヴィッチ伯爵領に本店を構えたとはいえ、全国に支店を持つシャイロ商会は、やはり王都が最大の旗艦店である。そのためシャイロは年の半分ほど、王都との往復で忙殺されている。
「旦那さまも慌ただしいですね。2日ばかり帰って来られたと思ったら、また王都にとんぼ返りですか」
「王都の中央店に、上位貴族専用のサロンを併設するから、その準備で手が離せないみたい。まあ、妻としては夫が忙しい方が平和なのかもしれないわ」
ハンナに身支度を手伝ってもらいながら、アデーレが苦笑いする。そういうアデーレも画廊にはほぼ毎日のように顔を出し、顧客と商談をしたり若手画家を支援する催し物を企画したり、忙しく経営者としての業務をこなしていた。
そんなアデーレの画廊へ、一件の注文が舞い込んだ。発注者は地元の裕福な商人で、シャイロ商会とも取引のある相手だ。贔屓にしている娼婦の肖像画をミロスラヴに描かせたいという。
最近はレヴェックでも裕福な平民が増えたため、芸術品を求めるのは貴族だけに限らなくなってきた。その商人は身元もはっきりしていて、何より示された金額が通常の倍近い。アデーレは「ミロスラヴに経験を積ませるためだ」と心中で弁解をしながら、その商人の注文を受けることに決めた。
絵のモデルとなる娼婦は、エリザベッタという。年のころは三十路前、飾り窓の女としては少々薹が立っている年代ではあるが、熟した色香の漂う謎めいた美女らしい。世話役に付き添われてスケッチのため彼女の部屋を訪問したヴィトーは、豪奢な内装やエリザベッタの堂々とした姿に度肝を抜かれたという。
「高級娼婦って貴族みたいなんだよ。すごく上等なドレスを着て、立派な家に住んでいるんだ。そう、まるでアデーレの家みたいだったよ」
エリザベッタの部屋から画廊へ戻ってきたヴィトーは、興奮冷めやらぬ様子だ。娼婦と聞いて、昔一緒に暮らしていたタチアナのような女を想像していたようだが、まるで別世界の住人だったと目を輝かせている。特に、彼女の持つ近寄りがたい迫力に圧倒されたようだ。
アデーレもシャイロに教わって知ったことだが、娼婦にも階級がありエリザベッタは最上級の部類に入るらしい。娼婦の格付けは容姿の美しさもさることながら、客を飽きさせない話術や教養など、本人の持つ才覚に依るところが大きいそうだ。
「エリザベッタはその点、超一流と言えるだろう。ふるいつきたくなるような別嬪だし、物知りで話が面白い。男に媚びないところもいいな。ちょっと不思議な女だよ」
「あら、あなたも何度かお世話になった口かしら」
「ははっ、昔の話だ」
相変わらずシャイロは隠し立てする気もないようだ。さらには、エリザベッタが数々の貴族や金持ちから身請けの話が来ているにも関わらず、首を縦に振らないことも教えてくれた。多くの娼婦は大きな借金を抱えて身を売り、長い年月その返済で拘束されるわけだが、エリザベッタの場合は借金がなかったので、楼主と対等な契約を結んでいるという。
「まあ、親が病気だとか、男に貢いでいるとか、そういう理由なんだろうが、いつでも辞められる立場だけに強気だよな。楼主も稼ぎ頭に出ていかれないよう、待遇に気を使ってるって噂だぜ」
エリザベッタの部屋は貴賓客がほとんどなので、妓楼の本館ではなく離れを宛がわれている。しかも、女中だけでなく専任の美容師までいるというから、ヴィトーが「貴族みたい」と思うのも無理はない。それでも街へ出れば日陰の女として、見下されて中傷を受けるのである。それは清貧に喘ぐのとどちらが幸せなのだろうか。同じ女でも様々な生き方があるのだなと、アデーレは自身の世界の狭さを知った思いがした。
エリザベッタの肖像画を受けてから一月ほど経ったある日、アデーレは画廊の責任者であるトーラスから相談を受けた。ヴィトーの下描きが予定より遅れているようで、このままでは当初の納品日に間に合わないという。
「何が原因なのかしら。今まではそういうことはなかったわよね」
ヴィトーは絵さえ描ければ満足な男なので、根を詰めすぎることはあっても、遅れることなどなかった。体調不良などの原因があるのではとアデーレは心配になったが、どうやら精神面で追い詰められている様子らしい。
「どうしたのだと聞いても、どうにも筆が進まないと言うだけでして……。私も世話役も困っておるのです」
仕方がないので、アデーレが直接ヴィトーに話を聞いてみることにした。最近では付き添いを世話役に任せているので、彼に会うこともほとんどない。アデーレ自身もシャイロとの二度目の結婚を、今度こそ成功させようという想いが強く、敢えてヴィトーを遠ざけていたところがある。
しかし、代金をはずんでもらった客を待たせることになってはまずい。何で行き詰っているかは知らないが、ちょっと発破をかけてやるのが経営者の務めだと思い、アデーレはその日の夕刻、レヴェック市街にあるヴィトーのアトリエ兼自宅を訪問した。
「トーラスから聞いたわよ、絵が進んでいないんですってね」
アデーレの問いかけに、ヴィトーは無言で頷いた。西日の当たるアトリエには、書きかけのスケッチブックが放置されている。傍らのキャンバスはまだ真っ白なままで、およそいつものヴィトーらしくない。彼はいつも喜々として絵に向かい合うのだ。
「いったいどうしたの? 具合でも悪いの?」
ヴィトーはふるふると頭を振って、ようやく声を絞り出した。
「……苦しいんだ」
「苦しい、って。やっぱりどこか具合が」
「違うんだ」
ヴィトーが顔を上げた。その眼が潤んで、頬がうっすらと上気している。
「あの人のことを考えると、切なくて胸が苦しくなる。こんな気持ちは初めてで、どうしていいか、わからない」
「あの人って?」
聞けば悪い結果になるとアデーレの勘が警告していたが、聞かずにはいられなかった。そしてヴィトーは、彼女が最も聞きたくなかった言葉を口にした。
「……エリザベッタだよ。どうすればいい、アデーレ。僕は……、彼女を好きになってしまったようだ」
窓の外の夕焼け空を、雁が群れになって飛んでいく。アデーレは茜色の部屋の中で、自分の指先が冷たくなるのを、茫然としながら感じていた。
Season6――完――




