第六話/嵐の後の青空
「ハンナ、あなたが告発したのね」
「はい、左様でございます」
アデーレが思った通り、告発状を書いたのはハンナだった。彼女は以前から、伯爵夫人の奔放な男性関係に嫌悪感を抱いており、ましてや今回は不義の子を嫡男として育てていた大罪である。このまま見過ごせばペルコヴィッチ家の家系が汚されてしまうと考え、正義を行使するべく告発を行ったそうだ。
「そのせいで、家族が離散してしまったわ」
恨みを込めた目でアデーレがハンナを睨め付けたが、彼女は一向に怯まなかった。
「もとから離散していたものを、嘘で固めていただけです。本来の形に戻って、ようございました」
「これは、家族の問題なのよ。あなたが善し悪しを決めることではないわ」
「最終的には、旦那さまがご判断なさいました。私の僭越な行いについては、いかなる処分も覚悟しております」
そう言って、ハンナは深々と頭を下げた。アデーレはこみ上げる涙を我慢できそうになく、ハンナに部屋からの退去を命じた。ハンナはドアを開けながら肩越しに振り返り、ひと言を残して出て行った。
「アデーレ様には、何一つ落ち度はございません。どうぞ、私をお恨みください」
それから半月ほど経ったある早朝、バージットとセルジュは、ペルコヴィッチ家を静かに出て行った。アデーレは家族を元通りにしようと、両親の仲を取り持つ努力をしたが、一度壊れた関係は修復できなかった。バージットは最後にアデーレを抱きしめ、涙を零しながら別れの言葉を紡いだ。
「私の愛するアデーレ。愚かな母親でごめんなさい。私があなたの母でいることを、これからも許してくれるかしら」
「もちろんよ、お母さま。愛しているわ、私のお母さま」
いずれはアデーレも再婚してこの家を離れる運命ではあるが、それとは意味の違う母娘の別れである。母はいけない恋をした。しかし、今のアデーレにはその気持ちが痛いほどわかる。母も自分も、貴族である前に一人の女であるのだ。
一方、セルジュとの別れは複雑な想いだった。ブランドンと共に、最後まで引き留めたのだが、気位の高い彼にはそれさえも苦痛だったようだ。贅沢好きな妻のロッサーナは、家督を継げなくなった夫に愛想を尽かし、子らを連れてさっさと実家へ帰ってしまった。セルジュの心の安寧のためには、その方がいいのかもしれない。
「さようなら、お母さま。元気でね、お兄さま」
今生の別れというわけではないが、気持ちの上ではそれに近い。アデーレは朝もやの中、遠ざかる馬車を見送りながら、小さな子どものように傍目も気にせず泣きじゃくった。ペルコヴィッチ伯爵は、とうとう最後まで姿を見せなかった。
それから、ペルコヴィッチ家では家督の相続について、父とブランドンの間で何度も話し合いが持たれた。アデーレは後から聞いた話だが、ブランドンは相続に関して父親に条件を突きつけたらしい。それは、伯爵の隠居であった。
「もちろん、そのうちお前に全てを譲るつもりだが、しばらくは私の下で経営を学ぶべきだろう」
「いえ、父上のやり方では早晩、この領の経済は破綻してしまいます。今でも相当危うい状態なのに、具体的な打開策はないままでしょう? 私はエルシアに苦労をさせたくないのです」
ブランドンは現在所属している王立軍で下級士官を務めているが、間もなく昇進して官舎も支給されるという。その地位と安定した収入を捨てて家督を継ぐのであれば、大鉈を振るって領地改革をしたいというのが言い分であった。そのためには事業を全権委任してもらう必要がある。
ブランドンが当然のように自分に従うと考えていた伯爵にとっては、この条件提示は思いもよらなかった。セルジュはよく言えば保守的、悪く言えば現状に甘んじる性質だったが、ブランドンは危機に立ち向かい、新しい道を切り拓く気概に満ちている。伯爵は自尊心と息子への期待を秤にかけ、最終的にブランドンへ家督を譲ることを決心した。
半年後、ブランドンは王立軍を退役し、正式にペルコヴィッチ伯爵となった。父はバージットが使っていた離れに居を移し、母屋は若夫婦たちの住まいとなる。来年の春にはエルシアが男爵家での行儀見習いを終え、嫁いでくるのでその準備も大忙しだ。
しかしまず手始めに、ブランドンは今後の事業について足場を固めた。もうすでに計画書はできあがっており、リマソール王国で十指に入る銀行とも融資の契約を交わしている。つい先日まで軍人であったのが嘘のように、ブランドンは精力的に事業に邁進した。
「まさか廃坑にそんな使い途があるとは」
「私もこのやり方を知った時には驚きました。これなら元手はかかりませんし、あとは契約者を全国から募るだけです」
感心して目を丸くする父親の横で、ブランドンが新規事業の説明をしている。アデーレも好奇心でついてきたが、何とそこはペルコヴィッチ領に点在する廃坑であった。ブランドンはここで葡萄酒や蒸留酒の保管事業を始めるという。
「外国ではすでに、一般化している方法です。坑道は一年を通じて低温で一定しており、湿度が高い。さらに日光が届かないので、酒の保管に最適なのです。しかも元は鉱山なので、トロッコや昇降機が備わっている。重たい酒瓶の運搬にはもってこいです」
上等な葡萄酒は、10年以上保管して飲み頃になるものが多い。そのため、上流貴族の家には地下に保管庫が設えてあるのだが、それでも変質して破棄する酒が出てくる。しかしここなら、専門家が管理して常時最高の状態に保っておける。
全国の酒造所向けはもちろん、貴族の個人使用など、様々な区画を用意して貸し出す予定なのだが、すでに問い合わせがいくつか来ているらしい。アデーレも早速サロンで領内の富裕層に宣伝するつもりだ。
放置されたままの設備を再利用し、伯爵家の新しい収益と領内の雇用を同時に生み出したブランドンを、アデーレは尊敬のまなざしで見つめた。さらには運搬に荷馬車を使用するため、従来の家業である馬の生産事業も需要の増加が期待できる。
「実は、エルシアや彼女の父親からの入れ知恵なんですよ」
そう言って本人は謙遜するが、保管庫の事業が軌道に乗れば、その事業を担保にして次なる計画も立てているという。まさかブランドンにこのような才覚があったとは、家族のだれもが知らなかったので、彼が家督を継いだのはペルコヴィッチ領にとっては勿怪の幸いであった。
同時にアデーレは、ハンナが母の不義を密告したのは、ブランドンを跡継ぎにするためではないかと想像した。たとえ結ばれなくても、慕う相手の成功を後押ししたい気持ちは、アデーレが誰より知っている。しかし、それを尋ねるとハンナは「まさか」と言下に否定した。
「確かに、セルジュ様よりブランドン様の方が、家長に相応しいとは以前から思っておりました。しかしあの方は……きっと、領地経営よりも軍隊の方がお幸せだったのではないでしょうか」
そこまで言うとハンナは、アデーレの前に跪いて頭を下げた。
「あの時は、義憤のままに行動してしまいましたが、今思えばなんと短絡的だったのかと悔やんでおります。アデーレ様から大切な御母上と兄上さまを取り上げてしまう結果になりましたこと、どうかお許しください」
項垂れるハンナの肩に、アデーレはそっと手を置いた。真面目で潔癖で、時に融通がきかないハンナ。彼女の行動理念はいつでも、アデーレにとって良いか悪いかが基準になっている。今回のことも、バージットがアデーレを欺いていたことに、憤慨したに違いない。
「じゃあ、これからはハンナが今以上に、私を支えてくれなくちゃね」
ハンナは項垂れたまま、何度も小さく頷いた。母と別れるよりも、彼女と別れるほうが、アデーレにとって日常の喪失感はきっと大きい。
こうしてペルコヴィッチ伯爵家のお家騒動は、一応の収束を迎えた。しかしやり手の新伯爵には、まだ大仕事が残っている。
「あとはお前の嫁ぎ先を探すだけだな」
そう言えば、頭の痛い問題があったのだ。今年一年は神頼みで独身生活を謳歌させてもらったが、来年はそうもいかないだろう。間もなく初雪が舞い降りそうな重い空を見上げて、アデーレはまだ見ぬ未来に思いを馳せた。
Season5――完――




