第四話/魔性の女、バージット
アデーレは母と違って乗馬を好まない。そのため、滅多に厩舎の方へは足を運ばないのだが、この日は花瓶に生ける水仙を摘もうと、敷地の外れまでやってきた。そこで、片足を引きずって歩く男性の姿を見かけたのだ。
誰だっただろうと暫く考えて、それがヴィトーの叔父のテッサロであることに気づいた。あまり話をしたいと思う人物ではなかったので、遠回りをしようかと思ったその時、テッサロの方がアデーレに気づいて帽子を取った。
「こりゃあ、お嬢さま。こんな所に、珍しいことで」
こうなったら無視するわけにもいかない。アデーレは差し障りのない会話をちょっと交わして、すぐにその場を立ち去ろうと思った。
「ごきげんよう。水仙の花を摘みに来たのよ。あなた、足が悪いのね。冷える季節は辛いでしょう」
すると、テッサロは驚いたように目を開き、やがて下卑た笑みを口の端に浮かべた。
「実は、この足が悪くなったのは、ヴィトーのせいなんですぜ」
今度はアデーレが目を見開く番だった。理由を訊ねたい気持ちと、用心しろという警告が頭の中でせめぎあい、結局興味が勝った。なるべく内心の動揺を悟られないように、アデーレは何気ない様子を装い、テッサロに質問した。
「あらまあ、ヴィトーがあなたに怪我をさせたの?」
「いやぁ、あいつはこうなった原因で、手を下したのは……、おっとこれ以上は喋んねぇ方がいい。お嬢さまのためにもなりませんし」
こういう嫌らしい駆け引きにテッサロは長けている。素直に育ったアデーレは、まんまとその術中に堕ちた。
「途中まで言ってやめるのは良くないわ。誰にやられたの? 私にも何か関係があるの?」
「教えて差し上げてもようござんすが、聞いたことは黙っててもらわなくちゃいけません。じゃないと、また悪い奴らにあたしが懲らしめられることになるんで」
「絶対に誰にも言わないわ」
しかしテッサロはにやにやしながら、アデーレを見ている。しばらくしてアデーレは、それが意味するところを察した。
「ああ、そう言うことね。わかったわ、今は持ち合わせがないけど、後で馬小屋の窓に銀貨を挟んでおくわ」
テッサロが頷き、足の指を切られた経緯を話し始めた。もちろん、自分が伯爵夫人を強請ったことは伏せてある。アデーレはそれを聞いて、頭を殴られたような衝撃を受けた。まさか自分の母親がヴィトーに不埒な悪戯をしていたとは。この家でそんな出来事があったとは知らずに、呑気に過ごしていたことがアデーレには居たたまれなかった。
「くれぐれもお願いしますが、絶対に誰にも言わねぇでくださいよ。また指を切られちゃ、たまったもんじゃないや」
そう言ってテッサロは足を引きずりながら去って行った。アデーレはひどく不快で、心穏やかでいられず、その日はハンナに「頭痛がする」と告げて部屋に引きこもった。
それから半月ほど経ったころ、アデーレはレヴェックで思いがけない人物に遭遇した。最初、向こうは成長したアデーレの姿に気づかなかったが、伴をしているハンナを見て、ようやく目の前にいるのが誰であるか理解したようだ。
「まあ、アデーレ様ですか! お綺麗になられて、気づきませんでしたわ。お久しぶりでございます」
「お久しぶりですね、ロドラー夫人」
かつて、ペルコヴィッチ伯爵家の家政婦長をしていたロドラー夫人であった。ハンナを伯爵の愛人に推挙しようとしたが、バージットの策略によって追放された。本来であれば、元主家の人間の前に顔を出すことはできないはずだが、本人は昔のことなど忘れたのか、実にあっけらかんとしたものである。
ロドラー夫人は家政婦長時代、いつも糊のきいたブラウスを着て髪もきちんと結い上げていたが、彼女が失脚したせいでロドラー家は没落してしまい、今では苦しい生活だと聞いた。確かに、くたびれたモスリンのドレスを着ており、髪も簡素なひっつめである。とても裕福な暮らし向きとは言えない様子を見て、アデーレはあることを思いついた。
「せっかく偶然お会いしたのですもの、そこいらでお茶でもしませんこと?」
背後でハンナが苦虫を噛み潰したような顔をしているはずだが、アデーレは構わずロドラー夫人を誘った。このところ心に重くのしかかっている、母バージットについて、彼女ならアデーレの知らないことを教えてくれそうだと思ったのである。
「すぐそこに、ホテル・ラ・ネージュがありますわ。あそこのピュイ・ダムールは最高ですわよ」
ロドラー夫人の瞳が輝いた。一流ホテルで高級菓子のティータイムなど、今の彼女にとっては手の届かぬ贅沢であろう。嬉しそうに「少しだけなら」と食いついてきた。そしてアデーレが「自分が生まれる前の話が聞きたい」と水を向けると、ご機嫌で彼女の知りうる限りの「ペルコヴィッチ伯爵家の秘密」をぶちまけてくれたのだ。
どうせ解雇された家だ、今さら遠慮などあったものか、という開き直りだったのかもしれない。あるいはバージットに対する恨みを、娘のアデーレにぶつけて留飲を下げたかったのかもしれない。聞くに堪えないような話もあったが、脚色されているのは計算の内である。アデーレはただロドラー夫人の好きなように喋らせた。
帰りの馬車の中で、どうしてロドラー夫人を誘ったのかとハンナがアデーレに尋ねた。テッサロには口外しないことを約束したが、アデーレはハンナにだけバージットの所業を打ち明けた。こうやって、秘密は秘密でなくなっていくのである。
「まあ、そうでしたか。しかし、奥さまは……その、ずいぶんと……」
「そうね。おそらく大袈裟に言っていることが多いとは思うけど、ロドラー夫人の話を聞く限りでは、お母さまは品行方正とは言えないようだわ。ヴィトーの叔父の話を聞いたときには、信じたくない気持ちが強かったの。でも、今は……」
「アデーレ様、お気を落とされないでください。奥さまは、アデーレ様にとっては素晴らしいお母上でいらっしゃいます」
「ええ、私もそう思うわ」
自分に対する母の愛情を、疑ったことはない。しかし、バージットの隠された一面を知ってしまったことを、アデーレは少しだけ後悔していた。開けてはいけない箱を開けてしまったような気分である。そしてその一方で、もっと知りたいと思っている。好奇心は猫をも殺すと言うが、アデーレは自分の欲求を抑えられる自信がなかった。
「ひとつだけ、はっきりさせておきたいことがあるの」
「これ以上は、およしになった方がようございます。昔話をつつき回しても、ろくなことにはなりません」
先日ロドラー夫人から聞いた話で、アデーレはどうしても確かめておきたいことがあった。それは、長兄のセルジュがペルコヴィッチ伯爵の子ではないという噂話だ。母には結婚前に恋人がいたが、身分違いのため一緒になれなかった。しかし実家に里帰りをした際に縒りが戻り、その時にセルジュを身籠ったという内容だった。
ロドラー夫人も真偽のほどは定かでないと言っていたが、そんな不名誉な噂は真っ赤な嘘だと証明したい。そのため、アデーレは母が嫁いだ当時の侍女に会いに行くと言って、ハンナを困らせているのだ。
その侍女は母の実家からついてきた者だが、セルジュが生まれた後に結婚して辞職し、今はレヴェック郊外で暮らしている。その元侍女なら、きっぱり噂を否定してくれるはずだ。アデーレはそう信じて、ハンナが止めるのも聞かずにレヴェック郊外へと辻馬車を走らせた。
「そのようなことを、私の口からお答えするわけには……」
元侍女はバージットと同年代にしては、ずいぶんと年老いて見えた。夫は木材の問屋をしているそうだが、何年か前に大雨で植林地が土砂崩れに見舞われたそうで、暮らしはかなり困窮している様子だった。
最初、彼女は領主の娘がいきなりやって来たことに、ずいぶんと驚き委縮していたが、テッサロと同じ方法で口を開いてくれた。つまり、秘密を守る約束をした上で銀貨を何枚か握らせたのだ。
「そんな噂があったと聞いたの。実際のところを聞きたいのよ。その頃、あなたは母の侍女だったのでしょう?」
「ええ、確かに……私が侍女でございましたが……」
「大丈夫よ、誰にも言わないわ。私だって、ここであなたにこんな質問をしているのが知られたら、ただでは済まないもの」
元侍女は、爪の割れた両手で前掛けを握りしめながら、絞り出すような声でアデーレに告げた。
「その噂は、本当でございます。セルジュ様は……、旦那さまの御子ではございません」




