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背徳の画家ミロスラヴとそのパトロネス  作者: 水上栞
Season4/雁字搦めの幼妻
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第五話/私はあなたの妻ではない



 その翌日、アデーレは婚家へと急いだ。もしもの場合に備えて、家長代理のセルジュも同行している。通常であれば一週間の旅程を一行は5日間の強行軍で駆け、その甲斐あってメッシーナ家に到着した時には、まだエリオの息はあった。ただし、もう何日も意識が混濁しており、医者は「時間の問題でしょう」と診断を下したらしい。



「旦那さま、アデーレです。おわかりになりますか」



 旅装を解く間も惜しんで離宮へ赴き、アデーレは夫に呼びかけてみた。夫と言ってもしばらく同じ敷地内で暮らしただけなので、夫婦である実感はない。それでも、アデーレの記憶の中で印象的だった、猛禽類のようにいかつい眼光や、人を竦ませるような威圧感が、目の前の肉体から失われているのを見ると、急激に死が己の周囲に滲み込んできたようで、ぞっと寒気を覚えた。



「長旅でお疲れでしょう。ここは私が付き添いますから、どうぞアデーレ様はお休みになってください」



 エリオの病床に寄り添うアイリスが、アデーレに休息を勧めた。しかし、彼女の方こそ顔色が悪い。あまり眠っていないのではないだろうか。だが、側を離れられない心境もわかる。アデーレはアイリスに甘えて、部屋へ下がることにした。



 それから二日後の寒い朝、エリオ・メッシーナはひっそりと息を引き取った。この冬最初の雪が降った、翌日のことだった。






 エリオ逝去からしばらく、メッシーナ家は慌ただしさを極めた。辺境伯として名を轟かせた人物だけに、葬儀には国内外から多数の弔問客が訪れる。しかし間もなくこの地は雪に覆われてしまうため、先に近親者だけの葬儀を済ませ、公式な葬儀は春を待って執り行うことに決定した。その出席者に送る書状を書くのが、本妻であるアデーレの役目である。



「お会いしたこともない方ばかりだわ。親族でさえお付き合いがないのに」


「それでもアデーレ様は奥方でいらっしゃるのですから、仕方ありませんわ」



 書いても書いても、延々と終わらない書状にうんざりしたアデーレを、ハンナが宥める。実家でゆっくりしようと思った矢先に呼び戻され、またもや雪の中に閉じ込められることになってしまった。エリオは持病があったので、長生きしないだろうと予想はしていたが、まさかこれほど早く不帰の客となるとは。


 正直なところ、全く悲しみはない。むしろ、屈辱的な結婚生活が終わって安堵している。それはメッシーナ家の面々もわかっているはずだ。しかし、形ばかりではあっても、正妻がいなくては葬儀の体裁が整わない。そのために、アデーレは呼び戻されたようなものである。




 セルジュは昨日、ペルコヴィッチ家へと帰って行った。長逗留しては積雪で馬車が動かなくなるため、家族葬を済ませるとすぐに出立したのだが、その前夜にトレヴァー夫妻から今後のアデーレの処遇について、内密の打診があったそうだ。



「きっぱり断っておいた。服喪期間が終わったら、うちに帰ってきなさい」



 リマソール王国では、夫を亡くした貴族女性は一年間喪に服す。その後は引き続き婚家に留まる場合もあるが、アデーレのように年若い未亡人は、実家へ帰り再婚先を探すのが一般的である。しかしトレヴァーたちはアデーレに、メッシーナ家に留まって欲しいと要求した。男児が一人では心許ないので、もう何人か生んで欲しいというのがその理由だ。



「なんて破廉恥な。夫の命令だったから堪えたものの、トレヴァー様は義理の息子ですわ。それだけでも人道を逸しているというのに、未亡人が子を宿すなど神罰が下ってしまいます」



 アデーレは、怒りを通り越して呆れてしまった。彼らは自分たちのことで頭がいっぱいである。しかもアデーレが自分たちの言いなりになると考えているらしい。その傲慢さが我慢ならなかった。



「ああ、そのように言って断ったよ。あちらは資金援助の話もちらつかせて来たが、そのことなら私と父上で何とかする。お前にはこれ以上、苦労はかけない」



 家同士の爵位は同等だが、立場はメッシーナ家の方がはるかに強い。その相手に一歩も引かず、申し出を跳ね付けてくれたのだ。この時のセルジュは頼もしく見えた。






 こうしてアデーレは、服喪期間を未亡人として静かに過ごすことになった。ただし、以前に暮らしていた母屋ではなく、エリオがアイリスと暮らしていた離宮に居を移した。理由は二つある。


 母屋はトレヴァー夫妻も暮らしており、彼らや赤ん坊とはなるべく接触したくなかった。特にトレヴァーはセルジュに断られたにも関わらず、考えを変えるようアデーレに迫ってきた。だからはっきり言ってやったのだ。



「何か勘違いなさっていませんこと? 私はあなたの義母であって、妻ではありませんわ」



 トレヴァーは苦虫を噛み潰したような顔をして去っていき、二度と現れることはなかった。




 そして二つ目の理由は、アイリスの体調が思わしくないことだ。看病疲れだろうか、顔色が悪く食欲もない。やがてとうとう床から出られなくなったため、アデーレが看病を申し出た。トレヴァーは「実家に帰ってもらえ」とにべもなかったが、これまで父親を支えてくれた女性に、感謝の意もないのかとアデーレは立腹した。そこで、先代未亡人の権限を行使して、離宮をアイリスの病室にしてしまったのだ。



「申し訳ないわ、アデーレ様。あなたにはご迷惑ばかりかけてしまって」


「何を仰います。まあ、不思議な出会いではありましたが、私たちは友人ではありませんか。どうぞ頼ってくださいませ」



 そう言って甲斐甲斐しく看病するアデーレであったが、アイリスの病状は悪化の一途をたどった。そしてそのうち医者が、ある疑いを持つようになった。



「奥さま、どうかご内密に。もしかすると毒の症状かもしれません」



 アデーレはまず驚き、次に背筋が凍るような恐怖に陥った。すっかり記憶から消えていたが、母からもらった水銀が行方不明のままである。もしや誰かがアデーレの毒を盗み、アイリスを亡き者にしようとしたのだろうか。もしそうなら、いったい誰が。


 どう考えても辻褄の合う答えにたどり着かず、アデーレは頭をかかえた。ハンナの目を盗んで、以前使っていた部屋を隅から隅まで探してみたが、壺は出てこなかった。水銀をこの家に置いておいたせいで、アイリスの命が危険に晒されたかもしれないと思うと、アデーレは罪悪感で頭がおかしくなりそうだった。


 しかし、そんなアデーレの様子に気づいたアイリスが、思ってもみなかった事実を告げた。ハンナを下がらせ、二人でお喋りをしていた昼下がり。今日のアイリスはやや具合がよく、林檎のピュレと温めたミルクを少し口にしたところだった。



「アデーレ様、あなたに黙っていたことがございます」


「まあ、何ですの」


「あなたのお部屋から、毒を盗んだのは私なのです」



 アデーレは手に持っていた紅茶のカップを落としそうになった。しかしアイリスはさらに驚くべき秘密を打ち明けた。アデーレは震える手でカップを小机に置き、ベッドに横たわる友人を見た。彼女の口から出た言葉がとても信じられない。



「エリオは、私が殺しました」




 アイリスが語ったところによると、アデーレの部屋で手芸をしていた際に刺繍糸がなくなったことが発端だった。同じ色をアデーレから借りようとしたが、たまたま何かの小用で中座していたため、後で断るつもりで手芸箱を開けた。そして小さな壺を見つけてしまい、好奇心で中身を確かめたところ、どうやらそれが水銀であることに気づいたということらしい。



「どういう理由で、そんな物騒なものを持っていらしたのかは知りません。でも、それをお持ちになっていてはいけないと思いましたの。何かあった時、あなたが疑われてしまいますもの」



 そこで、アイリスは水銀の壺を離宮に移した。そして、どう処分したものかと考えているうちに、エリオを亡き者にという考えが浮かんできたという。



「彼が生きている限り、アデーレ様は気の毒な立場に置かれますし、それを見ている私も辛いのです。彼の身勝手は若いころからだけれど、今度だけは度が過ぎているわ」



 エリオの病気が重篤であることを、アイリスは知っていた。どうせ放っておいても長くは生きられない。だったら今すぐに、こんな罪深い策謀は終わらせてしまおう。そう考え至ったアイリスは、エリオが寝ている間にランプの灯で水銀を気化させた。いつか新聞記事で見た、毒が最も回りやすい方法である。これを繰り返しているうち、吸い込んだ毒に体が内側から侵されていくのだ。



「でも、そうしたらアイリスさまも」



 水銀を吸い込んでしまう、と言いかけて、今のアイリスの症状がその毒によるものだと気づいた。なんということだろう。彼女はエリオと共に逝く覚悟だったのだ。



「私たちはもう十分長生きしました。若いあなたに、幸せになって欲しいわ」



 アイリスはそう言って、青ざめた頬に精いっぱいの微笑を浮かべた。アデーレは返す言葉が見つからず、ただ呆然と友の顔を見つめるしかなかった。




 アイリスが眠るようにこの世を去ったのは、それから約一カ月後。正式な婚姻関係ではなかったため、棺は橇に乗せて領都ソルティアの息子宅に送られる。夫のためには一滴の涙も零さなかったアデーレであったが、粉雪の中を搬送されていく小さな棺を見送りながら、その日は滂沱の涙を禁じえなかった。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 「これも愛だなぁ」と思うと鬼気迫るものを感じました。 [一言] いやぁ……何ということでしょう。 すごい展開だ!
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