第四話/掃き溜めのミロスラヴ
メッシーナ辺境伯の別荘は、本宅から馬車で半日ほど南下した静かな木立の中にあった。白を基調に建てられた小さな館で、大きな窓から注ぐ陽光と草の香りをアデーレは大いに気に入った。
ちょうど初夏の美しい季節で、林の中を散歩してベリーを摘んだり、小川のせせらぎを聞きながらレース編みをしたり、自然の中にいることは、野良育ちのアデーレにとって心休まる時間であった。何より、頭のおかしい一族に囲まれていない分、胎教にもよほど良いと思われる。
ただ、日増しに膨らんでくるお腹の中の子には、意識を向けないよう気をつけた。ナディアに釘を刺されたこともあるが、自分の精神を守るためでもある。
産み落とした瞬間、この子はナディアのものになる。母性がわいてしまえば、引き離されるのが辛いだろう。ただでさえ情の厚いアデーレである。大きな瘤が腹にできたと自分に言い聞かせ、赤ん坊のことは考えないように心がけた。
そして、森の木立が秋の気配を帯び始めたころ、アデーレはひっそりと赤ん坊を出産した。骨太い体格の健康な男の子で、髪の色や顔立ちはトレヴァーによく似ている。メッシーナ伯爵家としては申し分のない結果となったのだが、アデーレはひと目もその子を見ることはなかった。
産室に控えていた乳母が、生まれるやいなや赤ん坊を布でくるみ、どこかへ連れて行ってしまったからだ。さすがにこれにはアデーレも驚き、側で控えていたハンナに尋ねた。
「ねえ、赤ちゃんをどこへ連れて行ったの? 生まれたばかりだっていうのに」
アデーレの問いに、ハンナはもじもじと答えた。主人に知らせるなと口止めされていたらしい。
「実は、すぐ近くにもうひとつ別荘があって、そこでナディア様が待機されているそうです」
アデーレは呆れてものが言えなかった。まだ臍の緒がついている新生児を、医師や乳母がついているとは言え、連れ去ってしまう神経が理解できない。妻と同じく、子どももメッシーナ家にとっては道具と同じなのだろう。
「ナディア様たちは、そこにしばらく滞在されて、お子様の首が据わったら本宅に戻られるそうです」
ナディアは実家で出産したことになっており、本宅に戻ったら大々的に嫡男のお披露目が行われるという。アデーレには「産後の体調が戻るまで別荘に滞在し、その後は久々に実家に里帰りしてはどうか」と、トレヴァーからの手紙が届いていた。
「なるほど、しばらく戻ってくるなということね」
言外の意を汲み取り、アデーレはため息をついた。それもいいかもしれない。そのうちメッシーナ伯爵領には、厳しい冬が訪れる。実家でぐずぐずしているうち、積雪で馬車が通行できなくなったと言い訳すれば、あと半年ほどあの家に帰らなくてよくなる。
ちなみに、トレヴァーの手紙には続きがあり「しばらく体を休めた後は、もうひとり男児を生んでほしい」と書いてあった。アデーレはその手紙を暖炉にくべてやろうかと思ったが、まだ火が入ってない季節だったので、びりびりと破いて屑籠に捨てた。すでに堪え難きを堪え、自分の務めは果たしたのだ。これ以上の理不尽に従うつもりはない。
「ハンナ、荷物をまとめておいてちょうだい。しばらく実家へ帰るわよ」
若い体は回復が早い。しばらく休めば、馬車の旅に耐えられるようになるだろう。アデーレはまだわずかな膨らみの残る腹を撫で、あの赤ん坊がどうか健康に育ちますようにと神に祈った。
それからしばらくして、アデーレはペルコヴィッチ伯爵領へ出発した。道中、あのまま婚家へ戻らなくてよかったとしみじみ思った。そうならないよう気をつけていたつもりだが、思っていたよりも赤ん坊に対する情がわいていたのだ。
何カ月も命を育んだのだから当たり前なのだろうが、アデーレの立場では許されることではない。その未練を断ち切るためにも、生まれ育った土地で気分を変えて過ごす時間は必要だと思われた。
「私の可愛いアデーレ、辛い思いをさせたわね。存分に羽根を伸ばしてちょうだい」
大仕事を終えて里帰りした末娘を、母親のバージットはもちろん、父や兄も大歓迎した。何しろアデーレが体を張ったお陰で、ペルコヴィッチ伯爵家は没落を免れたのだ。家族にとっては救世主である。
その歓迎に甘えて、アデーレは自由に過ごすことにした。まず最初にやったことは、領都レヴェックを訪れ、ティトリー子爵に面会することだ。これまでにも何度か、研究院の運営について手紙で相談されていた。院生の人数が増えて収拾がつかなくなったことが主な内容だが、ヴィトーの生活についても報告があるらしい。
アデーレはいつか訪れた、ヴィトーの雑居アパートを思い浮かべた。独り立ちできる稼ぎがあるにも関わらず、いまだにあの場所で暮らしている理由が何なのか、実はアデーレも気にかかっていた。きっとハンナは嫌がるだろうが、一度ヴィトーと会ってみるべきだろう。
「お越しいただき、ありがとうございます。実は研究院の仕組みを変えようと思いましてな。アデーレ様にご相談してからと思っておりました」
久々に面会したティトリー子爵は、相変わらず柔和な笑顔の好々爺だった。一時期アデーレは、父親から子爵との交誼を控えるように言われていたが、今となってはむしろ、研究院の名誉理事という肩書きを得たことを、親戚や知人に吹聴しているくらいである。貴族は名誉職に弱いのだ。今日など「子爵によろしく」と、手土産付きで実家から送り出された。都合よく手のひらを返すのも、貴族の特徴だと言えよう。
「院生を得意分野で二つに分けるのですね」
「ええ。絵画と彫塑、それぞれ制作の道具や環境が異なるので、作業場を分けた方が効率的なのです」
6人の院生で始まったC・ティトリー芸術研究院も、今では20人に近い大所帯となった。子爵が精力的に若手を発掘し、育ててきた成果である。そのため、現在の施設が手狭になってしまった。そこで院を二分化することになったのだが、子爵はもう一つ悩みを抱えていた。
「そろそろ、院から出て独り立ちをする時期に来ている者が、何人かおります。彼らの受け皿を作ってやりたいのです」
研究生たちも、いつまでも院に留まっているわけにはいかない。それなりに技術が磨かれてくれば、一人前の画家として世に出ていくのが本来である。富裕層に絵が売れれば収入も桁違いになるし、自由な題材で芸術性を追求することだってできるのだ。
「ただ、具体的な案は出ておりません。せっかく育てた画家たちを路頭に迷わせるわけにもいきませんので、アデーレ様に良いお考えがございましたらご協力ください」
そう言ってティトリー伯爵は、白い髭をしごいた。アデーレは検討することを子爵に約束し、今日の本題と思われるヴィトーの素行についての話を切り出すことにした。
「ヴィトーは、どうしていますか?」
ティトリー子爵の眉が下がった。あまりよろしくないことは予想していたが、いざそれを聞かされるのは、やはり気分のいいものではない。
「仕事は頑張っておりますが、あまり良い生活をしているとは言えないようです」
ヴィトーは、雑居部屋の連中と深夜まで繁華街を徘徊したり、泥酔して警官の世話になったりしているらしい。本人は絵を描く以外に趣味はないので、馬鹿騒ぎに巻き込まれた格好だと思われるが、そんな暮らしぶりでは稼いでも手元に残るわけがなく、食事もまともに摂っていない様子だという。
「あと、おかしな絵を描くようになりまして、それも心配しております」
最近は独り立ちに向けて、受注品ではなく独自の作品を精力的に描いているヴィトーだが、絵のモティーフに女性の淫らな姿を選ぶことが多くなった。恐らくはタチアナや、部屋に出入りする踊り子たちをスケッチしたものだろう。中には乳房や尻を丸出しにしてポーズを取っているものもあったらしい。
「正直それらは、作品としては芸術性が高いと言えます。しかし、そのような前衛的な作風がミロスラヴだと思われてしまえば、もう彼は表舞台に出ることは叶いません」
淫らな題材を描いた作品は、この国では公に売買できない。そのため、好事家の間で闇取引されるのが常である。画家ミロスラヴはようやく名が売れ始めた段階で、貴族や富裕層の肖像画で評価を得ている。そんな彼が問題作の作者だと知られれば、二度と肖像画の注文は来なくなってしまうだろう。
「それが彼の芸術性であるならば、否定しません。でも、今は画家として、陽の当たる道から外れる時期ではないと、私は思うのです」
帰りの馬車の中で、アデーレは深く考え込んでいた。絵のことは、正直よくわからない。ヴィトーが芸術性を貫きたいのであれば、応援したい気持ちもある。しかし、結論から言うと子爵と同じように、目の前の可能性を無駄にしないで欲しいというのが本音だ。
これは、やはりヴィトーと会った方がよさそうだ。彼の意志を聞き出して、最善の道を探す手伝いをするべきだとアデーレは考えた。ヴィトーは流されやすい。絵を描く以外には何にもこだわらないからこそ、容易く環境に左右されるのである。
その数日後、アデーレに一通の封書が届いた。早馬車を使って届けられた速達で、差し出し人はトレヴァー・メッシーナと書かれている。少し乱れた文字の表書きに一抹の不安を感じながら封を開くと、そこには目を疑う言葉がしたためられていた。
――父が危篤状態に陥りました。直ちに帰還されたし。




