第三話/内縁の妻、アイリス
それ以来、トレヴァーは三日と空けずにアデーレの寝室を訪った。とは言っても、アデーレを気に入ったからではない。子を孕ませるための義務としてそうしているのだ。当然、ほとんど会話もなく、泊っていくこともしない。
アデーレの生活は、全く退屈で単調だった。朝は身支度の後、部屋でハンナと一緒に朝食を取り、日中は本を読んだり手紙を書いたりして過ごす。そしてそれに飽きたら、ハンナとお喋りをするくらいしかやることがないのだが、話題がどうしても故郷の思い出話になってしまうので、里心がついて切なくなることも多い。
せめて外を散策したり、誰かが訪ねてきてくれればよいのだが、こうも雪が深くては外出もままならない。仕方がないので、アデーレは手芸を始めることにした。
「アデーレ様、なかなかお上手ですよ。こんな才能がおありになったとは」
ハンナのお世辞に気を良くして、アデーレは刺繍とレース編みに精を出した。もともと美しいものは大好きで、実家にいる頃は花瓶の花も自分で生けていた。他に楽しみが何もないので、アデーレは次々と作品に挑み、そのうち本格的に習いたいという意欲がわいてきた。
「誰か先生を付けてもらえないかしら」
結婚以来、ろくな事がなかったアデーレだが、ようやく日々の中で楽しみを得て笑顔が増えた。そんな主人の様子を嬉しく思ったハンナは、さっそく執事に掛け合うことにした。
家族はアデーレに無関心だが、一応は辺境伯の妻である。極端な贅沢でない限り、服飾や趣味には自由な予算が与えられている。しかし執事の口から出た言葉を聞いて、ハンナは困惑してしまった。
「アイリス様……でございますか?」
「左様、あの方はそのような工芸の手仕事が得意でいらっしゃる。お願いしてみてはどうだね」
同じ家の中に名人がいるのなら、師事するのは確かに合理的と言えよう。しかし、両者は戸籍上の正妻と内縁の妻である。とても和やかな関係は築けないと思うのだが、執事は平然としている。
ハンナは頭が痛くなりそうだったが、この家の人々とは倫理観を共有できないと諦めて、取り敢えず執事の提案をアデーレに伝えることにした。
「あら、そうなのね。じゃあ、お願いしようかしら」
意外にもアデーレは、その提案をあっさりと受け入れた。アイリスと親しくすることに抵抗はないのかとハンナが聞いてみれば、アデーレは既に諦めの境地に達していたようで、気にするだけ無駄だと肩をすくめた。
「たぶん、この家の人たちは慣れっこになっているのよ。これまでも、旦那さまは好き勝手なさっていたはずだわ」
それは実際そうだったようで、後ほど使用人たちに聞いたところ、もう辺境伯とその家族が何を言い出しても、みんな驚かなくなっているらしい。アデーレのことは、年若くして偏屈に嫁いだ気の毒な嫁という認識だという。
「こんな国境の僻地で、雪に閉ざされてどこにも行けないんだもの。正妻だの内縁だの言ってても仕方ないわよ。退屈で死ぬよりましだと思いましょう」
こうして、アデーレは夫の愛人であるアイリスに、刺繍とレース編みを習うことになった。
そしてその数日後、執事を通じて話がまとまり、アイリスがアデーレの部屋を訪れた。アイリスはエリオと同年輩の上品な婦人で、もとはブルネットだったと思われる半白の髪を、クラシカルなネットできちんとまとめ上げ、くすんだグリーンのドレスに、肩から灰色のショールをかけていた。
そのショールの縁には、若草の刺繍が施されている。さらに、細かい銀の糸で朝露が表現されているのを見て、アデーレはぱっと目を輝かせた。
「まあ、何て素敵な刺繍なのでしょう。これはアイリス様が刺されたのですか?」
「お褒めに預かり光栄ですわ。これは初心者でも刺しやすいので、見本として持ってまいりましたの」
「ぜひ教えてくださいませ!」
この日からアデーレとアイリスは、年の離れた友人になった。立場を考えれば世間では理解され難いだろうが、アイリスは知的で穏やかな人格者で、好奇心旺盛なアデーレとは非常に馬が合った。世間の柵や利害関係を無視すれば、人の相性など当人たち次第ということだ。
「エリオが本当にごめんなさい。あなたのような若いご令嬢の未来を、台無しにしてしまうなんて。罪深いことだわ」
時たまアイリスは、そう言って涙を流すことがあった。自分自身も親の思惑で望まない結婚をした身である。アデーレの立場を思うと、エリオの仕打ちの心無さに我慢ができなくなるようで、何度もメッシーナ家の人々と諍いがあったらしい。
しかし、世間体を守るためなら下級貴族の娘など踏みつけても構わない、という面々の圧力に屈してしまった。それを今でも悔やんでいるという。どうやらこの家でまともな価値観を持つのは、アイリスだけであるようだ。
「それでも私は、あの人を愛しているのです。私も罪深く、愚かな女だということです」
そんなアイリスを慰めながら、アデーレはヴィトーの顔を思い浮かべた。彼も女性にとっては不実な男であるが、未来永劫愛されないとしても、アデーレが彼を見限ることはないだろう。そういう意味ではアデーレとアイリスは同類である。
そんな日々の中、アデーレの体調に異変が起きた。微熱と怠さ、そして胃の違和感。月のものも止まったままなので、ほぼ身篭ったことは間違いない。間もなく雪が溶け始めようかという、早春のことだった。
「ようやくか、あとは生まれてくる子が男であれば申し分ない」
アデーレ懐妊の報せを受け、エリオ・メッシーナは上機嫌であった。そして子作りの義務から解放されたトレヴァーも、肩の荷が下りたようでほっとした顔をしている。唯一、アイリスだけが心配そうにアデーレの体調を気遣った。
「初産ですから、いろいろ不安なことも多いと思いますわ。私がお傍にいて差し上げられたらよろしかったのですが……」
アデーレは、悪阻が治まり体調が安定したら、出産を終えるまで領内にある別荘へ移される。「静かな森の中で心安らかに過ごさせたい」というのがエリオの言い分だが、何のことはない。本宅に来訪する客の目から、アデーレの妊娠を隠すためである。同時にナディアも屋敷を離れる。「5人目を懐妊したので実家で出産する」という名目で、メッシーナ伯爵領から雲隠れするのである。
アデーレには正直、そこまでして嫡男にこだわる彼らが理解できなかったが、中でも出立の間際にナディアから言われた言葉は狂気を含んでおりぞっとした。
「お腹の子に情が移らないようにしてね。あなたが生む子であっても、母親は私よ。マルティーンは、トレヴァーと私の息子なの」
そう言えば「もう、名前も考えてある」と言っていたのを思い出した。生まれた赤ん坊が女児だったら、くびり殺されるのではなかろうか。普通であれば喜ばしいはずの出産を、こうして鬱々とした気持ちでアデーレは迎えることになった。
しかし、アデーレの憂鬱にはもうひとつ、ハンナにも秘密にしている理由があった。実家の母から渡された水銀の壺が、どこを探してもないのである。留守中に掃除の女中に見つかってはいけないので、用心のため別荘に持って行こうとしたのだが、置いたはずの場所に見当たらない。
アデーレの記憶では、編み針やレース糸など細々としたものを入れておく、手芸用の箱に隠しておいたはずなのだ。見た目が香油やインクに見えるので、もしハンナや女中が見かけても、別段不審に思われないと思っていた。
「アデーレ様、何かお探しですか?」
「ああ、ちょっと刺繍糸を探していたの。もう見つかったわ」
出立の前夜、部屋を引っ掻き回しているところをハンナに見られて肝が冷えた。その時の彼女の様子を見る限り、壺のことは知らないと思われる。そもそもその箱は、手芸をするときくらいしか開閉しないのだ。しかし、それならいったい水銀はどこへ行ったのか。
(きっと、私の思い違いよ。別の場所にしまって、忘れてしまったのだわ)
記憶違いはよくあることだ、別荘から帰った後にゆっくり探せばいいと、そのときのアデーレは結論付けた。それが彼女の人生を変えるような事件につながるとは、その時には想像さえもしなかった。




