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背徳の画家ミロスラヴとそのパトロネス  作者: 水上栞
Season4/雁字搦めの幼妻
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第ニ話/所詮、飛べない小鳥



 トレヴァーがアデーレの寝室を訪れたのは、ペルコヴィッチ伯爵家の面々が帰ってから二日後のことだった。覚悟はしていたことだが、実際にその時が来ると身が竦んでしまう。しかし、アデーレは精いっぱい平然とした様子を装い、トレヴァーに向かい合った。



「事情は、母から聞きました。しかし、旦那さまから何のお話もないので、どうしたものかと思っております」



 結婚式以来、夫のエリオは朝食のテーブルを共にするだけで、晩餐にも現れず寝室にも寄り付かない。夫婦というよりは、ただの同居人である。そのため、今後の話は何も本人の口から聞かされないままであった。



「もうすぐ父がここへ来る。ちゃんと、話をしよう」



 トレヴァーが居室のソファへ座ると、ハンナが蒸留酒とグラスを乗せた盆を運んできた。両家の取り決めについて伝えたときは、烈火のごとく怒って手が付けられなかったハンナだが、アデーレが達観した振りをして何とか説き伏せた。



「男児さえ生めば、そのうち実家に帰れるのよ。ここで起こったことは、悪い夢を見たと思って忘れましょう」



 どっちみち貴族の女である限り、好きでもない男に嫁いで子を成すのだ。倫理観さえ麻痺させれば、薄気味悪い老人より年代の近い息子の方が良いではないか。そう言って笑って見せたアデーレだったが、ハンナは騙されなかった。いちばん辛いはずの主人が、無理に明るくふるまいながら自分を宥めようとしてくれている。その心に打たれたハンナは、アデーレをこれ以上悲しませないために怒りを鎮めたのだった。




 やがて10分ほどして、エリオがやってきた。ガウンを着て、もう寝支度を済ませている。話だけしたら、さっさと自室に戻ってしまうつもりらしい。



「驚かせてすまなんだな。母君のおっしゃった通りだ。お前には申し訳ないことになるが、どうかメッシーナ伯爵家の未来のために、尽力して欲しい」



 世を欺く詐謀であるにもかかわらず、まるで雑用を頼むような気安さである。曲がりなりにも妻となった女が、実の息子と子を成すことに、何の抵抗もないのだろうか。この辺境伯にとってそれほど、アデーレの値打ちは低いのだ。金を出して便利な道具を買ったつもりなのだろう。



「それと、言っておくが私はここへはもう来ない。普段は離宮で暮らしているのだよ」



 エリオには結婚前にアイリスという恋人がいたが、お互いに親の決めた相手と結婚をした。しかしエリオは彼女への想いを断ち切れず、二人目の妻を亡くした後、未亡人となっていたアイリスを屋敷に呼び入れ、敷地内にある離宮で共に暮らすようになった。つまり実質上、エリオの妻はアイリスなのだ。


 それを聞いていよいよアデーレは、自分には母体としての役目しか期待されていないことを悟った。この家族には、思いやりや気遣いを求めるだけ無駄である。結婚したからには、少しでも妻として婚家に尽くそうと考えていたアデーレであったが、その想いはたちどころに萎えてしまった。




「君には気の毒だと思うが、家と家で決めたことだ。辛抱してくれ」



 エリオが立ち去った後、アデーレはトレヴァーに促されて寝室へと向かった。父親にそっくりの、いかつい鷲鼻と鋭い目つき。もしこの男の息子を身籠ったら、同じような顔の赤ん坊が生まれるのだろうか。アデーレは屠殺場へ導かれる牛のように、虚ろな表情で茉莉花の香るシーツに身を投げた。






 その夜、トレヴァーが去った一人のベッドで、アデーレはヴィトーのことを考えていた。彼を訪ねて行った日、二人しておかしな気分になって、男女の一線を越えてしまった。その時は、何と愚かなことをしたのかと後悔したが、今となってはあの過ちが自分を救ってくれる気がしてならない。




 あの日、ハンナがヴィトーの部屋に入ってきた時、アデーレとヴィトーは淫らな姿でベッドに横になっていた。ハンナはやっとのことで悲鳴を飲み込み、アデーレを叩き起こすと、猛然と脱ぎ散らかした衣服をひっつかんで身支度をさせた。唇を噛みしめて手が震えていたので、よほどの怒りを抑えていたと思われる。きっと潔癖なハンナには耐えられない破廉恥な光景だっただろう。彼女には本当に悪いことをしたと思っている。



 やがて目を覚ましたヴィトーを、ハンナは容赦なく平手打ちにした。ヴィトーはそれで自分がしでかしたことの重大さに気づき、素っ裸のまま震えていた。



「ごめん、アデーレ、ごめん」



 正直、アデーレはヴィトーに謝って欲しくなかった。嫁入り前の娘を汚してしまったことに対する謝罪だろうが、まるで、「好きでもないのに魔が差した」と言われているようだ。実際、ヴィトーには恋愛感情などなかった。想い人と結ばれたにも関わらず、アデーレの気持ちだけが空回りしているのを、まざまざと思い知らされた切ない記憶である。




 しかし、アデーレは全く後悔などしていない。もしも、清らかなまま嫁いでいたとすれば、道具にされた惨めさに耐えきれず、世の中の全てを恨んでいただろう。しかし、婚家には言えない罪を背負った今なら、天からの罰を受けているのだと諦めがつく。アデーレは被害者から共犯者になったのだ。




「アデーレ様、何か温かいものでもお持ちしましょうか」



 寝室から灯りが漏れているのに気づいたハンナが、ドアの向こうから声をかけた。今夜のことは彼女にとっても、辛い出来事だったと思われる。もう日付が変わった深夜であったが、眠らずに主人の様子を伺っていたようだ。



「いいえ、大丈夫よ。もう遅いからあなたもお休みなさい」


「はい、ありがとうございます。アデーレ様も早めにお休みください」



 ハンナの心配に反して、意外や当のアデーレはけろりとしていた。行為自体はすでに経験があったので、未知への恐れは殆どなかった。女性として不愉快きわまるひと時ではあったが、嫁いだ身に付随する務めだと割り切るしかないのだ。


 貴族階級の女であれば、婚姻は一種の博打である。親の決めた相手に嫁ぎ、子を生んで遠い土地に骨を埋める。その一生のうちに、家庭での安らぎや愛情が得られるかどうかは、本人の努力よりも運が大きい。アデーレの母が良い見本である。それでも彼女の場合は生んだ子を慈しむことができただけ、アデーレより運が良かったと言えよう。



「大したことではないわ、みんな我慢の種類が違うだけよ」



 アデーレは自分に言い聞かせるように、目を閉じた。トレヴァーはアデーレが生娘ではないことに気づいただろうか。例え気づいたとしても、それは彼にとってどうでもいいことだろう。アデーレにとってトレヴァーがどうでもいい存在なのと同じである。



 それよりも、扱いが難しいのがトレヴァーの妻のナディアだ。メッシーナ伯爵が望んだにせよ、自分の夫が法律上の義母と通じるなど、耐え難い苦痛だろう。ただでも気鬱になっているのに、その上アデーレが男児を産んだりすれば、居所がなくなってしまうのではないだろうか。


 そう思ってアデーレなりに気を遣っていたのだが、その必要はなかったようだ。廊下で顔を合わせた際、彼女は居丈高な態度でアデーレに言い捨てた。



「あなた、絶対に男の子を生んでちょうだいね。でないと私、お義父さまに叱られてしまうわ。もう名前も決めてあるの。借金を肩代わりしてやったのだから、それに見合う働きはしてもらうわよ」



 鬱気味で苛立っているとはいえ、あまりにも礼を失した態度に、アデーレとハンナは唖然とした。家中の誰もが、アデーレがエリオの妻だとは思っていないということだ。それは使用人にしても同じで、当主の妻だというのに侍女はハンナひとり。あとは雑用の女中が二人いるだけで、ほぼ放っておかれている状態である。



「アデーレ様、ハンナは口惜しゅうございます」



 ハンナは前掛けの布を握りしめ、悔しさに震えている。そんなハンナの背中をそっと摩り、アデーレはやれやれと苦笑いをした。



「仕方ないわ、本当のことだもの。恨むべきは、借金をこしらえたお父さまよ。所詮、今の私は籠の鳥なの。よしんばここから逃げ出したところで、風切羽を抜かれているから飛べないわ」






 その夜、メッシーナ伯爵領に真冬の到来を告げる猛吹雪が吹き荒れた。見る見る高さを増してゆく積雪に、すっかり町が覆われてゆく。これから春になるまでは、この地は雪に閉ざされた陸の孤島となるのだ。



 アデーレは窓から銀世界を見渡し、なぜメッシーナ伯爵家が年内に結婚を急いだのか合点した。何も知らせぬまま花嫁を嫁がせて、事情を理解したころには雪に阻まれ逃げ出す事さえできない。アデーレは本当に自分が籠に閉じ込められた小鳥なのだと、もうここへ来て何度目になるかわからない溜息を吐いた。




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― 新着の感想 ―
[良い点] ぐおおおーーーーん…… あんまりたぁぁぁ…… [一言] 『Classique Ave.の飛べない鳩』というアルバムを思い出しました。
[一言] ヴィトー……そこは謝ったらあかんでぇ…… 「抱いてやった」くらい言われた方がまだマシ。 まったくこの小説の男はどいつもこいつも! ハンナちゃんだけが救いだわ〜( ´△`)
[一言] 屠殺場へ導かれる牛 (´;Д;`) 表現がうますぎて辛っ。 ヴィトーも何謝ってんねんて話ですよ。そこは何かなかったんかい。 貴族の女性はこういう方多かったと思いますね。婚家の意思に従う…
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