第一話/みんな、狂っている
アデーレとエリオ・メッシーナの結婚式は、メッシーナ伯爵領の領都、ソルティアの大聖堂で執り行われた。メッシーナ家が代々洗礼を受けてきた、由緒ある荘厳な教会である。
間もなく雪が降ろうかという重たい空が、まるで花嫁の心情を表すかのようであった。アデーレは、年若い花嫁にしては装飾の少ないドレスを身に纏った。年配の花婿と調和が取れるようにとの配慮である。
いざ式が始まっても、アデーレは隣の老人の妻になる実感はなかったが、教会を出てたくさんの人々に祝福の声をかけられると、急に不安で押しつぶされそうになった。わかっていたことだが、もう後戻りはできないのだ。
アデーレは花で飾られた馬車に乗り込み、夫と共に領都の目抜き通りを一周した。屋敷に戻った新郎新婦を待っていたのは、大勢の招待客である。人数が多いため、大広間だけでなく隣のダイニングまで開放して料理や酒を並べている。アデーレたちが入室すると、一斉に拍手が巻き起こった。
「さあ皆さん、私の妻、アデーレを紹介しましょう」
アデーレが静々と、淑女の礼を取る。割れんばかりの拍手をしながら、笑顔の下で花嫁の値踏みをしている人間がどれくらいいるだろうか。あまりにも平凡で年若いアデーレに、何らかの事情を嗅ぎつけてはいるだろうが、流石に上流階級だけあって皆、噯にも出さない。
その中にあって、ペルコヴィッチ伯爵家の面々だけが、貼り付けたような笑顔で場から浮いていた。子を産んだばかりのロッサーナがこの場にいなくて正解である。豪奢な調度品や高級なワインに興奮した彼女が、いつ余計なことを言い出すかと気を揉まなくて済むからだ。
やがて深夜を過ぎ、泊り客以外は一組、また一組と暇を告げ始めた。ようやくアデーレが部屋へ下がったのは、間もなく夜が明けようかという時刻で、緊張から解き放たれた開放感もあり、ベッドに横たわるとそのまま深い眠りに落ちてしまった。
「アデーレ様、おはようございます。と言っても、もう夕方ですが」
ハンナの声で、ようやく脳が覚醒した。この部屋で寝起きするのは三日目だが、まだどうも目に映る景色が見慣れない。
結婚が決まったとき、アデーレはハンナに生まれ故郷に残るよう勧めたのだが、彼女はメッシーナ伯爵領に付いていくと譲らなかった。実家を嫌っていることもあるが「生涯の主人として奉公したい」というのが彼女の理由で、内心は不安でいっぱいだったアデーレにとっては、何より心強い言葉であった。
「すっかり寝坊しちゃったわ。誰も訪ねてこなかった?」
「はい、どなたも」
本来であれば結婚式を挙げた夜から、夫婦は寝室を共にするのが当たり前だろうが、辺境伯は夜通しの宴には耐えられないので、昨夜は早めの時間に引き上げた。その後はアデーレが一人で客の相手をすることになるため「翌日はゆっくり寝ていなさい」と言われていたのだ。
しかし安らかな独り寝も、おそらくはこれが最後だ。結婚式のため屋敷に逗留している実家の家族たちも、積雪が心配なので明日には帰ってしまう。そうなれば、いよいよ名実ともに辺境伯の妻である。
「アデーレ様、そろそろお支度をいたしましょう」
ハンナが浴室の湯を整えて呼びに来た。パーティーの疲れはまだ薄っすらと残っているが、間もなく晩餐の時間である。両親や兄たちと卓を囲む最後の夜なので、精いっぱい着飾って、幸せそうに笑って、両家の親睦を深める務めがある。たとえ売られた娘だとしても。
なごやかに晩餐を済ませた後、サロンで少し歓談をして、その夜は静かに過ぎて行った。そして、男性陣がスモーキングルームに移動し、女性陣はそれぞれの寝室に引き上げた。その途中、二階へ向かう階段でバージットがアデーレの腕を取り、自分の部屋へ来るように誘った。
「でも、旦那さまがお戻りになった時、部屋にいなくちゃいけません」
新妻の心得からすれば、正しい返答である。しかしバージットは諦めず、娘の腕をさらに引き寄せた。
「しばらく会えなくなるんだもの、少しくらいいいでしょう?」
腕をしっかりと掴んだ手から、何やら覚悟めいた意志が感じられ、アデーレはそれが意味するところを察した。恐らくは今夜のうちに、この結婚がどういう取り決めの上に成り立つのかを、娘に言い含めるつもりであろう。アデーレは「少しだけなら」と言って、母の誘いに応じた。
どうせ、不利な条件を押し付けられたはずだし、聞けば気分が落ち込むに違いない。しかしアデーレは自分が何と引き換えに売られたのかは、知っておきたかった。もうこれ以上、知らぬところで自分の人生が歪められるのが耐えられなかったのだ。
それからわずか半刻後、アデーレは自室の長椅子の上でランプの灯りを見つめていた。ハンナはアデーレがひとりになれるよう、続きの女中部屋でドレスの手入れをしている。バージットの部屋から帰って来たアデーレを見て、ひどく傷ついていることを察したからだ。
実のところ、話はあっという間に終わった。とんでもなく屈辱的な条件であった。なんとアデーレは、当主エリオの正妻として迎えられたものの、長男のトレヴァーの子を生まねばならないそうだ。
「おかしな話ですわ。トレヴァー様には、ナディア様という奥方がおられるではないですか」
「ええ、だけどあの夫婦には娘ばかり4人なの。しかも最後のお産でナディア様が体を壊して、もう次は望めないと医者に言われたらしいわ。それで気鬱になっておられるそうよ」
「では、ご次男の御子を跡継ぎにすればよろしいのでは」
「どうしてもトレヴァー様の御子でないといけないそうよ」
そういう場合、妾なり養子なり、やり方はいろいろあるはずなのだが、メッシーナ一族はあくまでも後継者は嫡男にこだわった。さらには、ナディアの実家は軍部で力を持つ侯爵家である。どうしても「表向きには」彼女が生んだ男児でないと体裁が悪いという考えらしい。
そこで、辺境伯の妻としてアデーレを娶り、トレヴァーの子を生ませる。そしてその子が男児なら、ナディアが生んだ子として育てようと考えたらしい。そうすれば外部に知られることなく、メッシーナ家はトレヴァーの血を引いた跡継ぎが得られる。あとは関係者が口を閉ざしていればいいだけだ。
「要するに、私は借金の形に売り渡されて、お腹を貸すのですね」
アデーレは、あまりの惨めさに声が震えた。家畜ではあるまいし、法律上は息子である男の胤を孕むなど、およそ普通の倫理観からは逸している。
「なんてことを言うの、アデーレ」
「でも、実際そうでしょう? 若くて健康で、おまけに困窮して立ち行かない家の娘ですもの。きっと私はお誂え向きだったのね」
バージットがぐっと唇を噛んだ。彼女もとんだ貧乏くじである。本当なら家長として父親が伝えねばならないはずなのに、娘に恨まれるのが怖くて逃げ出したのだ。仕方なく母親の彼女が、アデーレに真実を告げる役目を負った。
最初からこの結婚に反対してきたバージットだけに、娘の気持ちを考えると気が狂いそうであったが、それを受けねばペルコヴィッチ伯爵家は没落する。彼らは悪魔に魂を売らざるを得なかったのだ。バージットは小さく「ごめんなさい」と呟くと、力なく項垂れた。
「このことは、お兄さまやお姉さまはご存じなのですか」
「……セルジュだけ。セヴェリナとブランドンには言っていないわ」
婚姻の宴で、姉と次兄が普通の態度でアデーレに接していたのは、そういうことだったのか。実家から離れて暮らす二人には、この先も伏せておくつもりらしい。アデーレもその方が良かった。末妹をかわいがってくれた二人を、徒に悲しませることは本意でない。
「アデーレ、これをお持ちなさい」
話が終わり、辞去しようとしたアデーレの手を取り、バージットが小さなガラスの壺を握らせた。
「これは?」
「水銀よ」
びっくりして手の中から壺を取り落としそうになり、アデーレは冷汗をかいた。水銀は塗料や防腐剤として使うものだが、毒薬にもなる。その水銀を母親が娘に渡す意味がわからず、アデーレは戸惑った。
「この結婚は、不幸であることは間違いないわ。でも、長くは続かない。メッシーナ辺境伯はご高齢でご病気もおありだから、あなたは若くして未亡人になる。そうしたら、今度こそお父さまに頼んで、良いところへ嫁がせましょう」
バージットは壺を握った娘の手を自らの手で包み込み、耳元で囁いた。
「もし、あなたがここでの生活を早く終わらせたいと思ったら、これをお使いなさい。毎日一滴ずつ、飲ませるの。決して、誰にも言ってはいけません。私とあなただけの秘密よ」
この時、アデーレは初めて母を心底恐ろしいと思った。そして同時に、自分を取り巻く貴族社会が、狂気と背中合わせであることを理解した。これから自分はこの渦の中で生きていかねばならないのだ。
アデーレは長椅子の上でランプの灯りを見つめながら、この結婚の闇の深さに絶望しそうになった。どうすれば、自尊心を失わずにいられるのだろう。わずか16歳のアデーレには、答えなど見つかりそうにもなかった。




