第三話/売り飛ばされた末娘
「卑しい妾腹……と仰いましたか?」
その日アデーレはロデリックに誘われ、レヴェックで最も格式のあるティーサロンで午後のお茶を飲んでいた。その席でペルコヴィッチ伯爵家の話になり、ブランドンの生まれを貶されたのだ。全く以て失礼な話である。
怒りを含んだアデーレの声に、ロデリックもまずいことを言ってしまったと気づいたようだが、謝り方を知らない男である。ますます火に油を注ぐ言い訳をひねり出し、収拾がつかない事態に陥ってしまった。
「早合点はやめてくれ。伯爵家を貶めたのではない。どんな家にも事情の一つや二つはある。玉に瑕(きず)と言うだろう、私はそのことを」
「ブランドンは瑕などではございません。大切な家族であり、誇りに思っておりますわ。きっと父や母も同じ想いです」
ロデリックの言葉を遮り、アデーレはきっぱりと反論した。その声には有無を言わせぬ迫力があり、ロデリックが取り繕おうと言い澱んでいる間に、さっさと辞去の挨拶をしてしまった。
「私、気分がすぐれませんので、本日はお暇いたします。送って下さらなくて結構ですわ。自分で辻馬車を雇います。では、ごきげんよう」
そう言ってサロンを出ていくアデーレを、ロデリックは呆然と見送った。普通の男ならここで見限られたとわかりそうなものだが、ロデリックの場合は違った。癇癪持ちの田舎令嬢には、自分の高邁な価値観は理解できなかったと受け取ったのだ。そして妻にするのであれば、再教育の必要があると判断したらしく、実に無礼な手紙を送りつけて来た。
――先日の君の振る舞いに関しては、広い心を持って宥恕しよう。ただし心から反省し、礼を尽くした謝罪をすることが条件だ。君には少々、淑女の心得が欠落しているようなので、良い教育を受けさせてもらえるよう、父君に頼んでみてはどうか――
これにはペルコヴィッチ伯爵夫妻が激怒し、ロデリックの父親であるライオット侯爵へ、「ご子息は我が娘ならびにペルコヴィッチ伯爵家がお気に召さないようなので、今後のお付き合いは控えたい」との旨を、慇懃無礼な表現で送りつけた。それに対し侯爵からは形式的な謝罪の意が示されたが、以後もロデリックはアデーレに手紙を送り続けた。自己弁護と、自分を袖にしたアデーレに対する憎悪にまみれたその文章は、とても読むに堪えられない醜悪なものであった。
しかし、その手紙があるときぴたりと途絶えた。アデーレがようやく成人し、年明けの祝賀会があちらこちらで開かれていたころだ。そろそろ嫌がらせにも飽きたかと安堵したアデーレであったが、気を取り直して次の相手を探すべく参加したパーティーで、あるご婦人から自分の置かれた状況を知らされることとなった。
「立ち入ったことを伺いますが、こんな所においでになって大丈夫ですの? つい先日、婚約者がお亡くなりになったばかりでしょう」
「何かのお間違いでは? 私は婚約などしておりませんが」
「あら、ライオット侯爵家のロデリック様とご婚約されていると聞いておりましたわ。婚約者が亡くなったばかりなのに、もうパーティーに参加されているので、慎みのないご令嬢だと噂になっておりましてよ」
なんとロデリックは、しばらく前に流行り風邪で亡くなっていた。そして亡くなる前に、周囲にアデーレとの婚約が整ったと吹聴していたというのだ。そんな中で見合いとも言えるパーティーに参加すれば、悪い噂が立つのは当たり前である。アデーレは慌てて最も口が軽いご婦人に、婚約していないことを説明したが、一度流れてしまった悪い評判を消し去ることはできなかった。
「全く縁談が来なくなったわ」
バージットがデビュー間もない娘の身に起こった不運を嘆く。きちんと釈明すれば納得してもらえることでも、最初から遠巻きにされてしまえばどうしようもない。体面を気にする貴族にとっては、噂の真偽ではなく噂が立ったこと自体が問題なのだ。こうしてアデーレは訳あり令嬢となってしまった。
さらに悪いことは重なるもので、ついに領地の鉱山に国から廃坑の命が下った。以前から何度も注意勧告は受けていたのだが、深く掘りすぎて表層が崩落の危機に陥っている。これ以上掘り進めば地盤が不安定になり、周囲の町にも被害が及ぶと専門家が判断したのだ。
「手をこまねいていたわけではないのだ。この土地には、他に可能性のある産業がない。それは私にはどうしようもないことだ。違うか?」
鉱山で働く従業員や関連施設、数千人の雇用が失われることで、連日責任追及のやり玉に挙がっている伯爵は、機嫌が悪いことこの上ない。解雇するにも相当の金が要る。しかし、万年赤字の家計から捻出する資金などなく、従業員の怒号に耳を塞いでいる毎日だった。
鉱山は有限の資産である。先代から爵位を継いだ時点で、産業がないなら興せばよかったのに、その努力さえもしてこなかった。こうなったのは経営者による人災だとアデーレは思ったが、これ以上父の機嫌を損ねたくなかったので、黙っておいた。
「ロッサーナが実家に帰ると言い出しました。早晩、馬の事業にも影響が出ると言ったら、これ以上落ちぶれたくないと泣きわめいています」
セルジュも暗い顔だ。鉱山の機動力であった荷馬車も、廃坑になれば需要が激減する。そうなれば、ペルコヴィッチ伯爵家の財政は緊迫状態になるだろう。相変わらず贅沢が控えられない兄嫁は、それに耐えられるとは思えなかった。しかし彼女は第一子を妊娠中であり、この家の跡継ぎを産んでもらわないわけにはいかないのだ。
その八方塞がりの状態を打破するために、ペルコヴィッチ伯爵が縋ったのは政略結婚であった。いわく付きの令嬢になってしまったアデーレであるが、まだ成人したばかりの若さと健康を売り物にし、経済的に援助してくれる相手を募ったところ、思わぬところから声がかかった。しかしその縁談については、夫と妻の間で意見が真っ二つに分かれた。
「冗談じゃありませんわ、アデーレが可哀そうです。どうしてそんな年寄りに嫁がないといけませんの。あなたより年上ではありませんか」
伯爵がアデーレとの婚姻を進めようとしているメッシーナ辺境伯は、資産家として名高い傑物である。しかし年齢が60歳を超えており、アデーレとは父と娘以上の開きがあった。さらにはこれまでに二回結婚し、30代の長男を筆頭に二男四女がいる。そのためアデーレが嫁いでも跡継ぎを生むことはできず、それどころか夫にその能力があるのかさえ疑わしい。娘の母親としては、女の幸せを望めない結婚に賛成できるわけもなかった。
「それはアデーレに申し訳ないと思っている。しかし、もう先方には子が何人もいるのだし、無理をして産む必要はないだろう。それに、きっとそう長くないうちに未亡人になるのだから、また好きなところへ嫁げばいいのだ」
「ばかなことを仰らないで! そんな人生、あの子に背負わせるなんて、あなたは父親としての愛情がないの?」
伯爵とて、できれば年頃の合う相手に嫁がせて、まともな家庭を持たせてやりたい気持ちはある。しかし、彼にとって早急の問題は傾いた財政の立て直しである。アデーレをメッシーナ伯へ差し出せば、巨額の援助をしてくれるというのだ。鉱山の後始末をするには、どうしてもその金が必要だった。
「あなたは、自分の娘を売り飛ばすおつもりなの!」
優先順位の異なる夫と妻では、この議論は平行線である。結局、実権を握る伯爵が話を進めて、アデーレはメッシーナ辺境伯の三番目の妻として、その年の冬に嫁ぐことになった。通常であれば時間をかけて婚約の儀を進め、数年後に婚姻を結ぶ家が多いのだが、アデーレの場合は待ったなしである。
成人の祝賀からわずか一年。ペルコヴィッチ伯爵家の運命を背負って、アデーレは16歳の幼い花嫁となるのだ。