第二話/いけすかない婚約者
ヴィトーが研究院をやめたことは、ティトリー子爵にとっても痛手だったようで、手紙には「何とかならないだろうか」と嘆きの言葉がしたためられていた。
しかし、平民の問題に貴族が表立って首を突っ込むわけにいかない。アデーレも今回ばかりはお手上げだと思っていたが、ハンナが意外な解決策を見つけてきた。何と、ヴィトーの叔父、テッサロをけしかけたのだ。
「ねえ、あんたの甥っ子が結婚したそうね」
馬小屋の近くで、片足を引きずって歩く男にハンナが声をかけた。テッサロは面倒くさそうに振り返り、それがハンナだとわかると肩をすくめた。
「ふうん、そうなのかい。ガキのくせに色気づきやがって。まあ、今さら俺には関係のない話だな」
「随分と年増だそうよ。さんざん遊んで行き遅れになったくせに、生娘を汚した責任を取れって、親から押し付けられたんですって」
「へっ、とんだ貧乏くじだな。ぼんやりしたあいつらしいや」
「あの子は親がいないから可哀そうね。私が親なら、よくも騙したなって金を巻き上げてやるんだけど」
そう言い残すと、ハンナはその場を後にした。テッサロはしばらくその場で考え込んでいたが、やがてにやりと口角を上げた。ヴィトーの働く酒屋で騒ぎがあったのは、それから数日後のことである。
「アデーレ様、ヴィトーが離婚したそうです」
ハンナからの報せを聞いて、アデーレは驚いた。それが本当ならひとまず安心だが、そんなに早く離婚できるものだろうか。子爵の手紙を読んでから、まだ二週間程しか経っていない。
「でも、教会で婚姻をしたのでしょう? 裁判所で教区簿冊を抹消してもらうには、何年もかかるのではなくて?」
「それは貴族や正式な結婚をした者たちの場合です。彼らは教会へ金を払いたくなかったようで、口約束だけでした。ですから当人同士で話がつけば、その場で縁切りできます」
教会で司祭に儀式を執り行ってもらうには、ある程度の喜捨が必要になる。そのため、貧しい庶民の中には事実婚で夫婦になる者も少なくない。きっとヴィトーも払う金がなかったのだろう。
「でも、よく相手が応じたわね」
「ヴィトーの叔父が酒屋で暴れたそうです」
テッサロはレヴェックの街で女の評判を探り、数々の男と浮名を流していた証拠を掴んだ。なんと、親子ほど年の離れた商店主との間に、子までもうけていたそうだ。しかもその商店主とは今も愛人関係が続いている。
叔父は酒屋に乗り込み、客がいる前でその証拠を片っ端からぶちまけた。そして、かわいい甥が騙されたことに対して慰謝料を払えと迫ったのだそうだ。
「それで縁切りになったのね」
「ええ、こういうことは平民同士で解決するのがいちばんです。アデーレ様が思い悩む必要はありません。すべてハンナにお任せくださいませ」
それからしばらくして、郵便馬車の詰め所にヴィトーからの手紙が届いた。屋敷を出て以来、初めての手紙である。そこには、たどたどしい文字で感謝の言葉が書かれていた。
――アデーレへ――
たくさん心配をかけてごめんなさい。いつも君には助けられてばかりです。今回のこともきっと、アデーレが助けてくれたのでしょう?
僕の軽率な行いを、君は軽蔑していると思います。本当に反省しています。
でも、君に対しては何があっても紳士であることを約束するよ。ずっと良い友だちでいてください。
それを読んで、アデーレは嬉しいよりも切なさで泣きそうになった。お前は女の範疇にないと宣言された気がする。実際そうなのであろう。アデーレは今更ながらに、彼との様々な意味での隔たりを嘆いた。
ヴィトーの結婚騒ぎが収まってしばらくしたころ、今度はアデーレに結婚話が持ち上がった。間もなく成人としてのデビューを控え、この時期から多くの娘たちは婚約の前哨戦が始まる。アデーレもその一人であった。
親同士でめぼしい家にあたりを付け、舞踏会や社交パーティーなどで軽く挨拶をさせてみる。それで相性がよさそうなら、本格的に婚約の段取りへ進むのだ。まずアデーレが紹介されたのは、ライオット侯爵家の六男、ロデリックであった。年齢はアデーレよりも6歳年上、王立学院を卒業後は隣国に留学していたらしい。
ライオット侯爵家は、ペルコヴィッチ伯爵家よりも家格は上だが、なにしろロデリックは六男である。どう転んでも兄たちのお零れに預かる立場であり、将来は親族の経営する銀行の端役に就くことが決まっている。それでも気位だけは高いようで、何かにつけ格下のアデーレを見下した。
「ペルコヴィッチ伯爵家は、マナーにあまりこだわらないのかな。ああいう場では、女性は発言しないものだ。覚えておきたまえ」
アデーレがとあるパーティーに、ロデリックのエスコートで参加した。その際、彼の知人男性から質問されたことに、淀みなく答えたことが気に食わなかったらしい。早々に会場から連れ出され、帰りの馬車の中で小言を喰らった。
「では、どうすればよろしかったのでしょう。質問にお答えしないのも、失礼かと思うのですが」
アデーレにとっては純粋な疑問だったのだが、これもまた癇に障ったようで、実に頓珍漢で彼の心根が透けて見える答えが返ってきた。
「淑女は男に対して、口答えなどせぬものだ」
翌日、アデーレはパーティーの様子を家族に聞かれて、件のやり取りがあったことを伝えたのだが、これには伯爵夫妻も眉間にしわを寄せていた。
「正直、どうお答えすればお気に召すのかわかりません。それとも、何も喋らない方がよいのかしら」
紅茶のカップを手に持ったまま、アデーレがため息を吐く。ちょっと尊大だとは聞いていたが、花婿候補はなかなか癖のある人物のようだ。
「そんなおかしなマナー、聞いたことがないわ。そもそも淑女が発言してはいけないのなら、質問する男性の方がマナー違反ということになるわね」
「従順な女性が好きなんだろう。しかし、ちょっと失礼が過ぎるのではないかな。まだ数回しか会っていない相手に、自分の価値観を押し付けるのは感心しない」
そこで、今まで黙っていたセルジュが言葉を挟んだ。彼はつい最近、妻を迎えたのだが、そこから何かを学んだようで、実に渋い表情をしてアデーレに忠告を与えた。
「アデーレ、お前はまだ若い。結婚相手はよくよく考え、納得してから選ぶべきだ」
セルジュの妻ロッサーナは、実家が裕福である。そのせいかペルコヴィッチ伯爵家の感覚からすると、やや贅沢が過ぎると思われるところがあった。もちろん持参金も多かったのだが、新品の馬車を誂え、侍女を何人も引き連れて三日と開けずにレヴェックへ出かける。
この日も芝居に着ていくドレスを新調するとかで、レヴェックで人気の仕立て屋に行っていた。もちろんそのドレスに合わせて宝石も高級品を欲しがるので、先日ついにセルジュが窘めた。すると、烈火のごとく怒って夫婦喧嘩に発展してしまったという。
「ロッサーナ、うちに嫁いだのなら、我が家の暮らしに慣れてもらわないと困る。ここは君の実家ではない。質素を旨としているのだ」
「ドレスも買えない生活なんて、まっぴらごめんよ! 質素って聞こえはいいけど、貧乏ってことでしょう。私はそんなの耐えられない」
嫁いで早々これでは、先が思いやられる。そんな兄夫婦を見ていると、やはり結婚相手はじっくり吟味するべきだとアデーレは納得した。
「もう少し様子を見て、やはり無理だと思えばお断りしてもいいかしら」
「うむ、男にとって自尊心が高いのは悪くないが、他者を見下すのはいかん。よく観察して、何かあれば報告しなさい」
父にもそう言われ、アデーレは今しばらくロデリックを観察してみることにした。しかし、彼の態度は一貫して高圧的で、アデーレとペルコヴィッチ伯爵家に対する敬意は感じられなかった。アデーレがいよいよ無理だと思ったのは、ブランドンの出自を貶されたことだ。こればかりは笑って聞き流すことはできなかった。