第一話/男は誘惑に弱い生き物
季節は駆け足で過ぎ去り、アデーレは14歳になった。背丈がほとんど伸びなくなったかわりに、体つきがふっくらとして娘らしい清涼な色香が漂い始めた。まさに蕾が今にも溢れんという年頃である。
来年になれば王都の役所に赴き、貴族籍を成人に書き換える儀式が待っている。そして年末から新年にかけては、お披露目の舞踏会とそれに続く社交の日々である。この機に娘を良い結婚相手に結びつけようと、伯爵夫人バージットが張り切っているのは言うまでもない。
「お前、また仕立て屋を呼んだのか」
あまり妻に小言を言わない伯爵が、辛抱たまらず苦言を呈した。何しろ、この数カ月でアデーレのために5着もドレスを誂えたのだ。田舎なので親族の茶会に着ていくくらいしか出番がないのに、勿体ないではないかというのが伯爵の意見であった。
「あら、嫁入り前の娘がいつも同じドレスを着ていては、我が家の品格が疑われてしまいますわよ。今が最も人目につく時期なのですから、きれいにしておかなくては」
アデーレのためだと主張するが、その割にはちゃっかりと自分のドレスも仕立てているところがバージットらしい。伯爵とて妻や娘に流行のドレスを新調してやりたい気持ちはあるのだが、どうにも昨今は鉱山の事業が立ち行かなくなっており、資金的に厳しい生活を強いられている。
馬の生産事業は一応安定しているものの、そちらを一任している長男のセルジュが間もなく結婚をするので、それを機会に規模を大きくしたいと言い出した。しかし、その資金をどこから捻出するかなど考えていない。みんな金が泉から湧いて出てくるとでも思っているのだろうか。自身の散財や投資の失敗は棚に上げ、ペルコヴィッチ伯爵は家族の無理解を嘆いた。
そんなある日、アデーレにとって不運としか言いようのない出来事があった。「C・ティトリー芸術研究院」の設立がきっかけで、アデーレはティトリー子爵夫妻と手紙の付き合いを続けていた。研究院の一件は家族に内緒にしていたため、普段はレヴェックの郵便馬車詰め所止めにしてもらっていたのだが、子爵がうっかり間違ってペルコヴィッチ伯爵家のアデーレ宛に送ってしまったのだ。
「旦那さま、ティトリー子爵からアデーレ様にお手紙が届いておりますが、如何いたしましょう」
よく言えば几帳面、悪く言えば融通の利かない執事が、その手紙を屋敷の主である伯爵へ持って行ってしまった。貴族同士の書簡である以上、主人の判断を仰いだ方がいいと思ったのだ。使用人としては正しい行いである。
「はて、アデーレと子爵に付き合いはなかったはずだが。何かの間違いではないだろうか?」
私信の開封は家族同士でもマナーに反するが、未成年の娘に男性から手紙が届いた場合は話が別だ。伯爵は躊躇なく封を開けて中身を確認した。するとそこには、研究院の催しに関する報告やヴィトーの近況などが綴られていた。そこから判断するに、どうやら自分の知らぬところで、アデーレが芸術の支援者となっていることに伯爵は気づいた。
芸術を好んだり、慈善事業に奉仕することは問題ない。むしろ貴族にとっては奨励されるべき行いである。しかし、引き離したはずのヴィトーといまだに繋がっていることは看過できなかった。伯爵はアデーレを書斎に呼び出すと、手紙を机に広げて説明を要求した。
「ヴィトーがヘインの工房でひどい目に遭っていると聞いて、気の毒に思ったのです。それで子爵に相談したのが、きっかけです」
アデーレは正直に話すことにした。姑息な言い訳をすると、後で辻褄が合わなくなる。ただしブランドンのことは言わずにおいた。自分が助けを求めたせいで、ただでもこの家での立場が難しい彼に迷惑をかけたくなかった。
「何で私に黙っていた」
「お父さまが私に、ヴィトーと関わるなとおっしゃいましたので」
「その言いつけを守らなかったのはどうしてだ」
「だって、ヴィトーが可哀そうだったんですもの」
アデーレは目を潤ませて父を見上げた。そして小さな声で「ごめんなさい」と呟く。可愛い末娘の謝罪に、哀れな父親は陥落した。もともと人助けをしたのだから、頭ごなしに怒ることではない。特定の、しかも異性の元使用人と懇意にするなということを言いたかったのだ。これ以上娘に嫌われたくなかったので、伯爵はその辺りを妻に丸投げすることにした。
「もうしないと誓うのなら許してやろう。しかし、どうしていけないのかを理解しておくべきだ。お母さまにこのことを話して、なぜ怒られたのか教えてもらいなさい」
その夜、アデーレは母の離れを訪れ、子爵からの手紙が見つかって父に怒られたことを白状した。バージットはやれやれという顔をしながらも、アデーレを隣に座らせて、もう自分と変わらない体格になった肩を抱き寄せた。
「お父さまは、意地悪で仰ってるんじゃないのよ。あなたは女の子だから、気を付けないといけないことがあるの。もし殿方と間違いがあっては、まともな嫁ぎ先がなくなってしまうわ」
「私とヴィトーは友だちなのよ」
「知っているわ。でも、他の人たちはどう思うかしら。実際に何もないことが大事なんじゃなくて、人から何もないと思われることが大事なの。それにね」
バージットがアデーレの瞳を覗き込んだ。口元は微笑んでいるように見えて、目は全く笑っていない。それがやけに不気味に思えて、アデーレは身を堅くした。
「アデーレは最近、とても美しくなってきたでしょう? たとえ友だちだと思っていても、男は理性を失うことがあるのよ。だから、女はきっかけを作らないよう、慎まなくてはいけないの」
「ヴィ、ヴィトーは、そんなことしないわ!」
アデーレは弾かれたように否定したが、その一方で絶対そうだと言い切れない気もした。いつもはやさしい父親も、ハンナを手籠めにしようとした。さらには間もなく結婚する兄のセルジュも、レヴェックの町娘に手切れ金を払って関係を清算したばかりである。アデーレはまだ男の生理がどういうものか、はっきりと理解していなかったが、ヴィトーだけが例外ではないということを、母の言葉から薄々と感じ取っていた。
それからしばらくして、まさに母親の言葉を裏付けるような報せが、アデーレの元へ届いた。レヴェックからの帰り道、いつもように郵便馬車の詰め所に立ち寄ってみると、ティトリー子爵からの手紙があると知らされた。表書きに「親展」の印があることに不安を覚え、アデーレは自室に帰ると早々に、封を切ってその内容を確認した。
「ヴィトーが結婚しました。お相手はレヴェックの酒屋の娘で――」
ほかにも情報が書いてあったのだが、その部分の文字しか目に入らなかった。ヴィトーが結婚? 彼はまだ、17歳ではないか。16歳になれば平民は成人と認められるので、もちろん法律上は問題ない。しかし、ようやく本格的に修行を始めたばかりで、この時期にどうして結婚する必要があったのか。
何より、彼にそのような間柄の女性がいたことに、アデーレは強い衝撃を受けた。やがて、胸を焼かれるような痛みが駆け巡る。この頃にはアデーレも、ヴィトーに叶わぬ恋をしていることを自覚していたので、それが失恋の悲しみだということを認めざるを得なかった。
それでも、大切な人が幸せを見つけたのだから、祝福するべきだと正論で己を制御しようとした。しかし、感情の方がはるかに勝っている。アデーレはどうしても納得できず、ハンナをレヴェックに遣いにやって、様子を見てきてもらう事にした。
「アデーレ様、やはりヴィトーは結婚しておりました」
アデーレはハンナの言葉に項垂れた。子爵が嘘の情報を送ってくるわけがないので、当然と言えば当然だ。しかし続くハンナの言葉を聞いて、アデーレは仰天した。
「ただし、ヴィトーは騙されたようです。今は研究院を辞めて、酒屋の下働きをしています」
ハンナが聞いてきた話によると、相手の女はヴィトーよりも10歳近く年上で、父親が経営する酒屋の女給をしている。最近外で食事をする余裕ができたヴィトーは、その店にたびたび仲間と訪れていた。そこで女がヴィトーを誘惑し、なしくずしの関係となったらしい。
「そこまではありがちな話なんですが、女の父親が婚期を過ぎた娘をどうにかしようとしたらしく、ヴィトーに責任を取れと迫ったそうです。その女はけっこうな阿婆擦れで、店の客と懇ろになっては逃げられていたそうですが、ヴィトーは押し切られて結婚に応じたらしいです」
「なんてこと、それでヴィトーは絵をやめてしまったの?」
「夫婦になったのだから、妻の家業を手伝うのは当たり前と言われたのではないでしょうか。ヴィトーは世間知らずだから、何とでも騙せるのですよ」
想い合って結ばれたのであれば、アデーレも涙を呑んで祝福しようと思っていた。しかし、騙されて結婚した挙句に絵まで取り上げられて、それではヴィトーの将来はどうなってしまうのか。父からは二度と彼に関わるなと言われていたが、アデーレは居ても立ってもいられなかった。