一『ココロ』
この作品は『続 カラスはなぜなくの』の続編となっております。そちらをまだ読んでいない方は其方を読んで頂ければ幸いです。
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校庭の真ん中、煙と共に紫色の炎が天へと昇る。その光景を制服を着た一人の女生徒が見上げていた。
人類の叡智では理解出来ないその現象に恐怖を抱きながらも、女生徒は息を呑み、強く握った右手を震わせる。
──こんな事があっていいのかと。
──この炎は、私達の犯した罪への意識を向けさせる為のものなのだろうか。
そう思いながら、少しずつ昇っていく火柱の前に両手を広げ、その身を焼かれようと一歩を踏み出した時、視界の端で何かが動いた。
「──え?」
悪魔のごとく黒翼を羽搏かせるその生き物に目線を奪われ、炎へと向かう足を止めさせた。
「カ…ラス…?」
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ジ────ジ────ジ────ジ────
明朝、木に止まっている蝦夷蝉の鳴き声が山中に響き渡り、その喧しい鳴き声と腹から滴る汗と蒸し暑さで目を覚ます。
「くっ……んっ…、ふあぁぁあ」
大きな欠伸をした後、瞼の下に溜まった目脂を人差し指で取り、寝惚けた目を擦りながら二階の自分の部屋を出て、一階へと階段を下りる。
「おはよう…」
「おはよう琴音。朝ご飯できてるぞ」
「……うん」
彼女の名前は石蕗琴音、私立クインベルト学園に通う普通の中学三年生。
「いただきます」
座布団の上に正座で座り、箸で小鉢に乗った胡瓜のお新香を摘んで口の中に入れる。
* * * * *
琴音は卓袱台の上に出された白米、味噌汁、焼鮭、胡瓜と茄子のお新香を15分程で素早く食べ終える。
「ごちそうさま」
「おかわりはいいのか?」
「大丈夫。洗い物は後でやっておくから、お父さんはゆっくり食べてて」
「…そうか」
琴音の父は寂しそうに眉を顰めた。
琴音は自分の分の食器を水に浸け、早歩きで洗面所に向かい、歯磨きと洗顔をしてから、ドラム式洗濯機に寝巻きを入れた。
その後、二階にある自分の部屋に戻りジャージに着替え、荷物の確認を済ませると、一階へと戻った。
キッチンの洗い場を見ると、父親の分の食器も水が張られていた。
水道の蛇口を捻り、水量を中に設定させると、食器用のスポンジに洗剤を付けて、一つずつ丁寧に洗い始めた。
まだ朝が早いからか、昼間のような暑さは感じなかったが、様々な種類の蝉がけたたましく鳴く音と扇風機の小さな機械音が琴音に夏を感じさせていた。
「今日も部活か?」
「うん」
「…弁当、置いておく」
「ありがとう」
卓袱台の上に風呂敷に包まれた弁当箱とコップの中に入った冷えた麦茶が置かれた。
──私と父の生活は、あの日から色を失っているように感じる。一昨日も昨日も今日も、きっと明日も。そう、母が死んだあの日から。
「……カミキリムシ」
琴音の足下でゴマダラカミキリがゆっくりと6本の脚で動いている。
「窓から入ってきたのかな?」
琴音はゴマダラカミキリの背中を右手の人差し指と中指と親指で摘むと、玄関まで歩いてサンダルに履き替え、慣れた手付きで近くの木にゴマダラカミキリを逃した。
「あら、琴音ちゃんおはよう」
「あっ、竹富のお婆ちゃん、おはようございます」
ゴマダラカミキリを逃し、家の中に戻ろうとすると、家の隣にある山へと続く階段から近所のお婆ちゃんが声を掛けてきた。琴音はその声と石段を踏む、カンっと心地良く響く音に反応し、竹富の方へ振り向いた。
「琴音ちゃんは、今日も学校かい?」
「はい。部活動の練習があるんです」
琴音は階段を登り、背筋を曲げて猫背になった竹富の元まで上がった。
階段は段数こそ少ないものの、一段一段が大きく、大股で足を踏み出さなければ登るのに苦労する階段だ。
「そうかい、原十郎さんは元気かい?」
原十郎とは、琴音の父親の名前である。原十郎は漁師を生業としており、一船の船長を任せられている。そのため、いつも深夜に仕事に行っては早朝に帰ってくる昼夜逆転の生活を送っている。
だけど、そんな父親に琴音は感謝している。琴音が八歳の時に母親が死んでからと言うもの、悲しみに暮れていた彼女を慰め、寄り添ってくれた人が父親だけであるのだから。
「はい。父は元気です」
「そう……。あっ、そうだ!今朝トマトが採れたから、学校が終わったら私の家まで取りに来てくれない?」
「あっ、ありがとうございます。帰りに取りに行きますね」
トマトを貰う約束をし、琴音と竹富を階段を一段ずつ下りた。
「それじゃあまたね」
「はい」
琴音は歯に噛んだ笑顔で微笑み、右腕を小さく振りながら竹富の背中を見送った。
「──あっ、もう時間無いかも」
竹富の姿が見えなくなり、数秒間自然に身を委ねていると、冷んやりと頸を摩る風に目が覚めた。
風は冷たいが、周りの気温が少しずつ高くなっているのが嫌でも分かる。地球温暖化やらオゾン層の破壊やらが原因だと言われているが、実態は明らかではない。
「ただいま」
開けっ放しの戸から玄関に入り、サンダルを脱ぐ。すると、原十郎が居間から顔を出し、琴音と目線を合わせる。
「散歩か?」
「ううん、虫が入ってきたから外に逃しただけ。その後、竹富のお婆ちゃんに声を掛けられて…」
「そうか。……学校行く前に母さんに挨拶してからな」
「…うん」
緑色の風呂敷に包まれた弁当箱を持ち、琴音は二階の自分の部屋に荷物を纏めて入れたエナメルバッグを肩にかけ、もう一度階段を下りて、玄関前にそれを置いた。
身体の方向を玄関から居間の方へと向け、朝食を食べた卓袱台から左手に進んだ所にある観音開きの仏壇の前で正座した。
チーン チ──ン
一回目は優しく、二回目は少し強くりん棒でりんを鳴らし、目を瞑って手を合わせて黙祷をする。
母の葬儀が終わってからの琴音の毎朝の日課だ。
「………」
りんの音が耳元で鳴り止まない。この心を静かにさせる音は琴音を現実から引き剥がしているようだ。
「……麦茶」
ふと思い出して卓袱台の方を見ると、出しっ放しの氷の入った麦茶が置いてあった。
「忘れてた」
正座を崩してコップを手に取ると、一気に中に入っていた麦茶を飲み干し、氷もバリバリと口の中で砕いて飲み込んだ。
「行ってきます」
コップを流しに置き、玄関まで呼吸をずらさず歩き、エナメルバッグを肩に掛けてランニングシューズを履き、玄関を出て、戸を閉めた。
「…行ってらっしゃい」
琴音の姿が見えなくなったタイミングで原十郎は挨拶を返し、ドラム洗濯機の中に自分の洗濯物を入れた。
琴音はランニングシューズの爪先をトントンと地面に叩いて調整し、自転車の鍵穴を右に回して、それに跨った。
「そういえば、カミキリ……」
自転車に乗った時に下を向くと、何故か先刻前に逃したゴマダラカミキリが気になり、逃した木まで自転車を漕いだ。
逃した木の下まで来て、上を見上げるとゴマダラカミキリはいた。
だが、頭が無い状態でキツツキに咥えられていた。
「…行こう」
朝から自然の命をやり取りを見てしまった。これは自然界の中では極普通の事。だが、人間は長い間、一種族で社会を形成してしまったが為にこのような事を残酷だと思ったりする者もいる。
何故そのような者がいるのか、その原因は野生を忘れてしまっているからだと一人の生物学者は言う。しかし、人間にも本能的に野生を思い出す時がある。それは、蜚蠊と遭遇した時である。古い時代、人間の先祖は蜚蠊に襲われていたと最近の研究で判明している。その為、人間は蜚蠊を見た時、酷く嫌悪すると言う。つまり、上記のような一定の条件が満たされない限り野生を思い出さない。
しかし、時折りこのような条件が満たされていても野生を思い出さない者もいる。それは、単純に細胞レベルで自然と言うものを否定している者、或いは心を無くした者が該当する。