わたしの口がかくれんぼするなんて
※本作品にはいじめの描写が含まれます。苦手な方はご遠慮ください。
歯磨きをしてもう寝ようかなと、早紀が洗面台に行き、鏡を見たとたんにひっくり返ってしまいました。
――えっ、なにこれ、わたしの、わたしの口が……ない――
鏡に映った早紀の顔には、あるべきところに口がなくなっていたのです。皮ふがぴったりくっついていて、まるでそこだけのっぺらぼうになったように、つるつるに変わっていました。ペタペタと口だった部分をさわっても、もちろん口は出てきません。夢かと思ってほおを引っぱっても、目が覚めることはありませんでした。
――なんなのこれ、ねぇ、なんなの――
「わたしさぁ、いっつもいっつも、クラスメイトの子たちから、口が悪い、口が悪いって責められて、もううんざりしてたのよね」
耳元から声が聞こえてきました。ハッとしてあたりを見わたしますが、誰もいません。さらにきょろきょろする早紀を、聞いたことのあるその声はアハハとバカにしたように笑ったのです。
「そんなバカみたいに見まわしたって、わたしは見つけられないわよ。かくれんぼしてるのに、すがたを見せたら面白くないでしょ」
――かくれんぼ? いったいなにをいってるの? ていうか誰? どこかで、ううん、なんだかいつも聞いているような――
「どこかで聞いたことがあるぞ、って、そんな顔してるわね。そりゃそうよ。だってわたしは、あなたの口なんだもん」
早紀は鏡の自分を見て、大きく目を見開きました。
――わたしの口? じゃあ、まさか、わたしの口がなくなっちゃったのは――
「そうよ。あんたのおかげで、わたしはいっつも悪口ばかりいわれてたから、こらしめてやろうって思ったのよ」
――こらしめるって、そんなのひどいよ――
「ひどいのはあんたじゃない。他のクラスの子たちの悪口いったり、あることないことうわさしたりして、みんなから嫌われてるのわからないの? それなのに、いつも悪くいわれるのはわたしだけ。こんなの不公平じゃない」
――だってあなたは、わたしの口なんだから、そりゃあそうでしょ――
「でも、わたしはもううんざりなの。だからわたし、隠れることにしたのよ。かくれんぼってのは、そういうこと」
――そんな――
「もしあんたがわたしを見つけられたら、そのときは戻ってあげてもいいけど、もちろんあんたがあやまってくれたらの話よ。ちゃんと反省してなかったら、わたし、戻ってあげないから」
――めちゃくちゃいわないでよ! ねぇ、戻ってよ、戻ってってば――
「早紀? なにごちゃごちゃいってるの? 電話でもしてるの?」
お母さんの声が聞こえてきました。ドタドタと足音もしてきます。
――やだ、もしこんな顔をお母さんに見られたら――
早紀はあわててあたりを見回し、それからハッと、タオルといっしょにしまってあった布マスクを手に取ったのです。すばやくそれをつけるとともに、洗面所のドアが開きました。
「なにをおしゃべりしてるのよ? ……あら、どうしたの? マスクして」
お母さんに聞かれても、もちろん早紀は答えることなどできません。どうしようかとおろおろしていると、突然早紀の声が聞こえてきたのです。
「ごめん、お母さん、ゴホッ、のどが痛くて、ちょっと声が出ないの」
早紀の言葉を聞いて、お母さんは心配そうに早紀の顔をのぞきこみました。
「あら、そうだったの……。もしかしたら風邪の引き始めかもしれないし、お薬飲んどく?」
早紀はあわてて首をブンブンふります。お母さんは小さくため息をつきました。
「まぁいいわ。とにかく今日はすぐ寝なさい。おやすみなさい」
「おやすみ」
またしても早紀の声が聞こえてきます。お母さんが洗面所から出ていくと、早紀の声は意地悪く早紀の耳元でささやいたのです。
「とりあえず今日はうまくごまかしてあげたけど、明日からはあんたが上手くやりなさいよ。もし口がないことがバレちゃったら、あんた、多分病院に連れていかれて、手術されちゃうわね。ううん、もしかしたら、めずらしい症状だっていわれて、ずーっと病院でにがーい薬に、いたーい注射ばっかりされちゃうかもよ」
病院が大きらいな早紀にとって、そのおどしは効果てきめんでした。ぶるぶると青い顔をする早紀に、早紀の声はふふんと楽しげに続けたのです。
「ま、とにかくしっかり反省しなさい。それじゃあね」
ブンブンと首をふっていやがる早紀をあざ笑いながら、早紀の声はじょじょに遠ざかっていき、やがて消えてしまったのです。
「やっぱり学校お休みしたほうがいいんじゃないの?」
お母さんの言葉に、早紀は首をふりました。もちろん早紀だって、できることなら学校を休んで、家でふとんにくるまってじっとしていたほうがいいに決まっています。ですが、昨日さんざん部屋の中を探したのに、どこにも早紀の口は見つからなかったのです。家にいないということは、それ以外、もしかしたら学校に隠れているのかもしれません。早紀は手に持っていたノートに、キュッキュとマジックで文章を書いていきます。
「『学校大好きだから、休みたくない』ね。……まぁ、熱もないみたいだし、わかったわ。でも、きつくなったらすぐに先生にいうのよ」
早紀はこくりとうなずきました。
「早紀ちゃん、給食食べないの?」
クラスメイトの女の子たちが、目をきょろきょろさせて早紀にたずねました。食べたくとも、早紀には口がないのです。早紀はおどおどした様子で、あいまいにうなずきました。
――ご飯は食べてあげるから、お腹は空かないと思うわって、口がいってたけど、これじゃあ怪しまれちゃうわ――
早紀の不安は、果たして現実のものとなってしまいました。
「どうせきらいなものが出てるから、ズルして食べないっていってんでしょ!」
亜弥がキンキンした声で早紀に文句をいったのです。早紀はぶんぶんと首をふりますが、亜弥はもう止まりません。いつも早紀に悪口いわれたり、ときにはうそのうわさを流されていた亜弥にとって、これはまたとないチャンスだったのです。
「だいたい声が出ないっていうのも怪しいわ。あんた、そうやってマスクつけてるけど、どうせマスクの裏ではベーって舌出してわたしたちのことバカにしてるんでしょ!」
早紀はショックを受けたように、目をこれでもかと大きくしていましたが、すぐに頭がもげそうになるほど首をふります。しかし亜弥は収まりません。ずんずんと早紀に近寄り、あろうことかマスクをつかもうと手を伸ばしてきたのです。
「なにをいやいやしてんのよ! あんた、どうせこのマスクだってズルしようと思ってつけてるだけでしょ! ほら、早く外しなさいよ!」
もしみんなに口がなくなったことがバレてしまったら、それこそ終わりです。早紀の抵抗のしかたは尋常ではなく、マスクをがっちり押さえて、必死で顔を隠します。亜弥の顔が、だんだんと怒りから面白がるような、いじめっ子の顔へと変化していきました。
「アハハハハッ、わかった、あんたそんなに必死に顔を隠してるってことは、にきびかなんかできて、ぶっさいくな顔になってるからでしょ! でもそんなの誰も気にしないわよ! だってあんた、口が悪すぎて、ぶっさいくな口してたじゃない!」
早紀の目から、ぽろぽろと涙があふれていきましたが、亜弥はマスクを取ろうとするのをやめません。そしてついに――
「ほら、取ってやったわ! さぁ、ぶっさいくな顔を……キャアアアアッ!」
早紀のマスクを取った亜弥は、突然すさまじい悲鳴を上げたのです。
「おい、お前らなにをやってんだ! こら、亜弥、やめなさい!」
ようやく騒ぎに気づいた先生が、二人の間に割りこみます。早紀はすばやくマスクで顔を隠したので、なんとか先生には秘密を見られることはありませんでした。しかし……。
「あ、ああ、あ、あんた……」
口をパクパクさせて、亜弥が早紀を指さします。ですが、恐怖でいっぱいだったその目は、落ち着きを取り戻すとともに、暗い炎に満たされていったのです。
「なるほどね……。いいもの見せてもらったわ」
亜弥の言葉に、早紀はぞっと身をふるわせるのでした。
早紀の必死の捜索にも関わらず、口はどこにも見つかりませんでした。二日、三日と日にちが経ち、そして一週間が経過したころ、なぜかクラスメイトのみんなが、早紀を露骨に避けるようになっていたのです。
――いいわよ、別にわたしも、みんなのこと好きじゃないし――
しかし、無視はまだ始まりにすぎませんでした。ある日早紀が登校してくると、机の中になにか手紙が入っていたのです。なんだろうと見て、早紀はビクッとからだをふるわせました。
『口が悪すぎて、口がなくなったかわいそうな子』
口のない女の子の絵とともに、そう描かれた手紙を見て、ぶるぶるとふるえる早紀を、亜弥とその取り巻きたちがおかしそうに見ています。ハッとしてまわりを見ると、亜弥だけでなく、他の女の子たちもにやにやと意地悪な視線を早紀に向けていたのです。早紀の秘密は、他のみんなに知れ渡っていたのでした。
――そんな――
「ねぇ、早紀ちゃん? ほら、わたしママから、口紅もらってきたの。早紀ちゃん、口がなくてさびしいでしょ? わたしが描いてあげるわ」
亜弥がくくくと笑いながら、早紀に近づいてきます。ヒッといすから立ち上がり、あとずさろうとする早紀のうでを、他の女の子たちがつかんで押さえこみました。
「アハハハハ、ほら、遠慮しないでよ。どうせみんな知ってるんだからさ。あんたの秘密、みんなに見てもらいなさいよ!」
抵抗もむなしく、とうとう早紀はマスクをはぎ取られてしまいました。あちこちで悲鳴と歓声がわき起こります。
「ほら、わたしがいった通りでしょ? 大丈夫よ、今から口を描いてあげるから! これでマスクもいらないわね」
はぎ取ったマスクを、亜弥がはさみで切り刻んでいきます。あまりの出来事に、早紀はもうなにがどうなっているのかわかりません。目の前はにじんでよく見えず、頭の中はぐるぐるといろいろなことが巡って、パンクしてしまいそうです。耳の奥はいじめっ子たちの嬌声がうずまき、キーンと耳鳴りがします。押さえつけられた早紀は、亜弥にめちゃくちゃに口を描かれて、それどころか顔中に落書きをされてしまったのです。「アハハハハ」とあざ笑うクラスメイトたちの声が、いつまでも早紀の耳の中に残って消えませんでした。
早紀が屋上から飛び降りたのは、その日の午後のことでした。
「本当にいじめはなかったんですか、先生!」
激しい剣幕で先生にせまる早紀の両親を、亜弥たちはちぢこまって見ていました。先生にはうまくバレないようにいじめていたのですが、亜弥は早紀と争うところを見られています。そうでなくても、もし早紀が遺書でも書いていたなら、亜弥たちもひどく責められるでしょう。ガチガチと歯を鳴らす亜弥でしたが、先生もあいまいにあやまるばかりで、どうしようもありませんでした。
「亜弥ちゃん、やっぱり……」
クラスメイトの一人が、小声で亜弥にささやいてくるのを、亜弥は怖い顔でにらみかえしました。
「もしわたしのことばらしたら、あんたたちのこと許さないからね!」
押し殺した声でおどす亜弥を、クラスメイトたちは青い顔で見つめ、それからコクコクとうなずきました。
そして葬儀が始まりましたが、葬儀のあいだじゅうずっと、早紀のお母さんはクラスメイトたちに射抜くような激しい憎悪の視線を送っていました。亜弥をはじめとして、クラスメイトたちはみんな身をちぢめてその視線に耐えるしかありませんでした。
お坊さんのお経が始まりました。しかし亜弥も、他の子たちも、お経に交じってなにか声が聞こえてくるのに気づいたのです。クラスメイトたちだけでなく、早紀の両親も、先生も、他の人たちもざわめきはじめます。なにごとかとみんなが耳を澄ました次の瞬間……。
「亜弥、よくもわたしを殺してくれたわね! わたしが悪い、わたしが悪いって、よくもいじめてくれたわね! おかげでわたしが死んじゃったじゃないの! わたしが死んだら、わたしももう終わりだわ! 呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる、呪ってやるぅぅぅっ!」
引っ越しもすんで、ようやく落ち着いたころに、亜弥は歯を磨こうと洗面所に向かいました。
――パパもママも、わたしのことをめちゃくちゃに責めて、本当に最悪だわ! 学校も転校して、まるでわたしだけが悪者みたいじゃないの! みんなもいっしょになっていじめてたくせに……! 早紀のやつ、化けて出てきなさいよ、そしたらもう一度殺してやるのに――
怒りでぐるぐるになった頭のまま、亜弥は鏡に映る自分の顔を見つめました。……そして、声なき悲鳴を上げたのです。
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