3.昔語り(2)
「頬紅を少し、多めにお載せしてよろしいですか」
「いいわ」
エリノアは鏡台の前に座り、自分のまわりで動くジャニスの手をぼんやりと眺めていた。
太い筆が頬骨の上を這うと、春の花のような薄紅色がほんのり残る。起き抜けの冴えない顔色が、幼い子どものように瑞々しくなる。
鏡の前にはジャニスの仕事道具が置かれている。多くは硝子の容器に粉を入れたものだ。頬紅の瓶は深紅から淡い桃色まで、途中で橙も混ぜながら濃淡の順に並んでいる。
「ジャニス、あなたはどこで化粧を覚えたの?」
顔から筆が離れると同時に、エリノアは尋ねた。
「イヴェールです、王妃さま」
「イヴェールのどこ? 他の職人と同じように、技術を身につける場所があるの?」
化粧という文化が海を隔てた異国イヴェールで生まれたことは、エリノアも聞いたことがある。ダウランドにいる数少ない化粧師のほとんどが、イヴェールから渡ってきた者であることも。
「工房のような修行の場はございません。わたしに化粧を教えてくれたのは、さる貴婦人にお仕えしている化粧師でした」
「その方についていって、その場で仕事を覚えたの? 医者の見習いのように?」
「はい。独り立ちした後は、わたしも同じように高貴な女性に仕えることができました」
うらやましい、という言葉を、エリノアはすんでのところで呑みこんだ。働く女性にはその立場にいなければわからない苦労があるはずだ。
それでも想像せずにはいられない。ジャニスのように手に職をつけることが許されるならば、愛しても愛されてもいない男に体を開かなくても、自分で自分を養うことができたのに。
「いかがですか」
最後に紅を引いた筆を置くと、ジャニスは一歩下がって鏡の中のエリノアに問いかけた。
頬の薄紅色が引き立つように、他の部分にはあまり色を使っていない。瞼の二重幅を灰色で優しくぼかし、くちびるに頬よりやや深い紅を引いただけだ。エリノアは顔の要素のひとつひとつが大きく、はっきりとしているので、それぞれに濃い色を使うと勝ち気な顔つきに見えてしまう。
顔全体にはたいた白粉だけは、普段よりやや厚めにしてある。ジャニスは何も言わないが、エリノアの顔色が冴えないことにきっと気づいているのだろう。
〈王妃の塔〉でエリノアに仕えている女性たちの中で、ギルフォードの生前のことを知るのはジャニスだけだ。ウォルターはウィンバリーにやってきてエリノアと婚約した直後、エリノアについていた女官をすべて入れ替えてしまった。ギルフォードがエリノアにつけてくれた者たちに暇を出し、オニール派の支持者に連なる女性をあてがったのだ。
ジャニスだけは女官ではなく、化粧師という特殊な職で雇われた者だったため、また同じ技能を持つ者を見つけるのが難しかったため、王妃となったエリノアの側に残ることを許された。
悪夢のようなできごとの連続だったこの八か月間で、それだけが幸運だったとエリノアは今も思っている。
「参りましょう」
エリノアはジャニスの手を借りて立ち上がった。
今朝も〈王妃の塔〉を出て、〈王の塔〉から来た城壁の上でウォルターと合流し、愛の言葉とくちづけを受ける。それから礼拝堂へ向かうのがエリノアの日課である。
「失礼いたします、王妃さま。言伝をお預かりしてきた者がおりますが」
女官のひとりが木の扉を開き、王妃の居間に入ってきた。
ヘザー城で暮らす者は互いに伝えたいことがある時、使用人に言い聞かせて伝言させる。エリノアもそうして伝えたことも伝えられたこともある。
しかし、こんな朝早くに届けられることはめったにない。
「どなたからなの?」
「カルヴァート卿のお遣いです、王妃さま」