2.吟遊詩人(3)
真夜中を過ぎて祝宴がやっと終わると、エリノアはウォルターの腕を借りて広間を後にした。
二重の城壁から成るヘザー城の中で、広間があるのは城壁の内側中央に建っている〈双子の館〉である。縦長の建造物を左右にふたつ並べた姿からそう呼ばれるこの場所には、王族の食堂や謁見室も設けられている。
エリノアはウォルターの腕に手をかけて〈双子の館〉を出ると、内側の城壁の一角にある〈王妃の塔〉に向かった。〈王妃の塔〉にはその名のとおり王妃の居所が、その隣の〈王の塔〉には同じく王の居所がある。宮廷行事や礼拝を終えて城壁に戻る際、ウォルターはいつも〈王妃の塔〉にエリノアを送り、それから自分の〈王の塔〉に戻るのが常だった。
「わたくしの誕生日を夜更けまで祝ってくださって、ありがとう存じます、陛下」
螺旋階段を上りながら、エリノアは隣を行く夫にほほえみかけた。
ウォルターはエリノアの手を腕に絡ませて、エリノアの半歩先を導くように進んでいる。ふたりの前には蝋燭を持った女官が足もとを照らしながら先導し、背後にも二名の女官が口を利かずに従っている。
ウォルターはエリノアの顔を振り返りもしなかった。
「そのつくり笑いは引き下げておけ。もう誰も見ていない」
「……申し訳ございません、陛下」
ウォルターがエリノアにほほえみかけ、甘い言葉をささやくのは、臣民たちの目がある時だけだ。そうでなければエリノアとは目もあわせず、必要以上に言葉も交わさない。
エリノアが公に向けた表情のまま、自分に愛想を売るのも気に入らないらしい。いつも苛立ったような顔つきで拒絶する。
そう言われてもエリノアは、ウォルターの前では常に微笑を絶やさない。少しでも気を抜けば、押し殺している本心が――ギルフォードを殺した男への憎しみが――表に現れてしまいそうで怖いのだ。
螺旋階段を上りきり、最上部にある木の扉を女官が押し開く。中にある半円型の部屋が王妃の居間、同じ型の続きが寝室である。
まだ隣にウォルターがいるとはいえ、住み慣れたこの居所に戻ってくると一瞬でも気が休まる。エリノアは根が内向的なたちなのか、部屋でひとり物思いに耽ったり、縫いものをしたりして過ごすのが好きだ。おおぜいの人間と酒食をともにし、気の利いた言葉を交わしあうのは、本当は性にあわない。今日のような夜更けまでの行事から戻ると、身も心もぐったりと疲れている。
居間を抜けて寝室のほうに入ると、ウォルターは払いのけるようにエリノアの手を外した。それから向き直り、立ち尽くすエリノアの顔を覗きこんだ。
「ハンフリー・カルヴァートと話したいか」
「いいえ、陛下」
「あなたの父親の従弟だろう」
「わたくしはもう、あなたの妻ですもの」
「誰とでも、好きなように会えばいい」
ウォルターはエリノアの顎に手をかけた。灰茶色の瞳よりも白の部分が多い、感情の宿らない両目がエリノアを見下ろしている。
今日はすぐに立ち去らないつもりだ。それを悟って、エリノアは身をこわばらせた。
「だが、王妃としての体面を保つことだけは忘れるな」
返す言葉を探す暇もなく、エリノアはくちびるを塞がれた。広間で交わしたのとはまるで違う、熱の感じられないくちづけだった。
もっとも、広間でのそれに何らかの感情がこもっていたわけでもないのだが。
エリノアが夫のいないところで誰に会おうと、別の男性と心を通わせようと、ウォルターはまったく気にかけたりしない。
ウォルターがエリノアに求めているのは、ただふたつだけ。
王を愛する新妻として、幸せそうにほほえんでいること。
オニールとマロリー、両家の血を引く健康な男児を産むこと。
ウォルターの手がドレスの背にまわると、エリノアはいつものように心を殺した。
王家に生まれたすべての女はこれに耐えてきたのだ。エリノアにも耐えられないはずがない。
「お召し替えを」
「構わない。すぐに済む」
控えていた女官の申し出を、ウォルターは短く遮る。手さぐりでドレスの合わせ目を見つけようとして、思うようにいかなかったようで舌打ちする。
「脱がせるのを手伝ってくれ」
ウォルターが命じると、女官たちがすぐに歩み寄ってきて、慣れた手つきでエリノアの衣装を脱がせにかかる。
エリノアは人形のように突っ立ったまま、女官たちの手に身を任せ、夫の袖のあたりをぼんやりと見つめた。
ウォルターが着ている黒地のローブには、生成色で模様が織り込んである。斜めに交差した線がつくる菱形の中にいるのは、前脚を高く上げた一角獣。ハロルド王とエリノア王妃の物語にも登場する、シェリンガム王家の紋章である。
ギルフォードも公の場に出る時、よくこの模様を身に纏っていた。
エリノアの視界を塞ぐように、ウォルターが再びくちびるを押しつけてくる。