2.吟遊詩人(2)
吟遊詩人の演奏が終わると、エリノアは率先して手を叩き、賛辞を送った。宴席に並ぶ者たちも次々とそれに倣う。
「彼の歌声が気に入ったのか、愛しい人」
ウォルターが顔を傾け、エリノアの耳にささやいた。
「ええ。とても素敵でしたわ」
「その者をこちらへ。わたしの王妃を楽しませてくれた礼を言いたい」
こうした公の場にふたりで出る時、ウォルターはエリノアにとても優しい。
まさしく、歌の中のエリノア王妃に対するハロルド王のように。
吟遊詩人が楽器を手にして立ち上がり、顔を床に向けたままテーブルの前へ歩いてきた。見たところ二十代前半のその若者は、緑と黄で左右を割ったチュニックと、同じ色を逆に配した下衣を身につけていた。吟遊詩人にはよくある装いだが、彼がテーブルに近づいてくるにつれ、列席者のあちこちで小さな声が上がった。
国王夫妻の前でその若者が立ち止まり、伏せていた顔を上げた時、エリノアにもざわめきの理由がわかった。
「カルヴァート卿?」
小さくつぶやくと、ウォルターが隣で目を向ける気配がした。
「ごきげんよう、我が従兄の娘。しばらく会わないうちにまた美しくなられたようだ」
明るい茶色の瞳を輝かせて、若者がエリノアに口を開いた。
ハンフリー・カルヴァート。先王ギルフォードの、年の離れた異母弟だ。ギルフォードの在世中は宮廷で姿を見ない日はなかったが、エリノアが王妃になってから会うのははじめてである。
彼は確か、ギルフォードから与えられた郊外の屋敷に、ウォルターの許しを得て今も暮らしていたはずだ。
「ごきげんよう、カルヴァート卿――驚きましたわ、なぜそのような姿でおいでになりましたの?」
エリノアは努めて明るい笑みを浮かべた。祝宴にやってきた他のどの貴族にもそうしたように。
注意深く左右を見まわさなくても、ハンフリーの登場で広間の空気が一変したことがわかる。先王の異母弟が、兄を敗死させた新王の宴に現れた。それだけでも人目を引くというのに、わざわざ吟遊詩人に姿をやつしてきたのだから。
ハンフリーは整った顔だちに人好きのする笑みを浮かべた。
すらりと背が高く、日の光を束ねたような金色の髪を持つ彼は、ギルフォードの宮廷でも女官たちの目を引き寄せる美男子だった。
「人は誰しも、自分以外の者になりたいと思う時があるのですよ。意に染まぬ扱いを他人から受けている時はなおさらです」
テーブルに並ぶ貴族たちは、誰ひとり口を開かなかった。驚きに見開かれていた彼らの目が冷えていくのが、エリノアには肌で感じられた。
ドレスの身ごろの下で、礼拝堂の鐘のように胸が打ちつけている。
このままでは危険だ。この男に好きなようにしゃべらせておけば、良くないことが起きる。
ハンフリーは先王の弟ではあるが、その出自から王位継承権を持たないため、ウォルターを担ぐオニール派からさほど敵視されていない。ギルフォードから与えられていた職は解かれたが、住居までは奪われなかったのがその証左だ。エリノアの誕生日を祝う宴にも、王妃の親族として正式に招かれていたはずである。
その招待を蹴り、ふざけた変装で宴に現れたばかりか、現状への不満ともとれる言葉を王の前で口にした。これではオニール派の顰蹙と猜疑をわざわざ買いに来たようなものだ。
「カルヴァート卿、ご存じとは思いますが、今日はわたくしがこの世に生を受けた日なのです。夫がわたくしのためにこの席を用意してくれたのですわ」
どうか、表面上だけでもウォルターに敬意を示してほしい。エリノアが自分を押し殺してこの場でほほえんでいる、その苦労を無駄にしないでほしい。
その一心で、エリノアはハンフリーに語りかけた。
「それはお祝い申し上げる」
ハンフリーはエリノアに告げた後、隣にいるウォルターにちらりと目をやったが、すぐにエリノアに向き直った。
「あなたの夫は世界でいちばん幸運な男ですね。流浪の身からこんな美しい妻を手に入れたのだから」
広間の温度がまた下がったように、エリノアには感じられた。
視線の端でスティーヴンが立ち上がりかけ、思い直したように席にとどまるのが見えた。他のテーブルに並ぶ貴族たちも顔を見あわせ、この切迫した状況でどう立ちまわるべきか決めあぐねていた。
ハンフリーは彼らの凍てつくような目に気づきもせず――あるいはあえて気づかないふりをしているのか――エリノアだけを見て、エリノアだけに話しかけている。
「本当に美しくおなりだ、エリノア姫。はじめて会った時のあなたは、まだエセルレッド王の小さな孫娘に過ぎなかったのに」
「ありがとう存じます、カルヴァート卿。でも――」
「久しぶりにお会いできて嬉しいですよ。あなたさえ良ければ、明日にでも場を設けて昔のことを語らいませんか。この城でともに育った日々のことを」
昔のこと、と言われた瞬間、エリノアの頭はひとつのことでいっぱいになった。
ハンフリーはギルフォードの弟だ。もう地上にいないあの人のことを知り、その死を悼むことのできる数少ない人物。
もし、ハンフリーとふたりだけで会い、あの人のことを語りあえるなら。
「彼の誘いに惹かれているのか、愛しい人」
隣で聞こえた声に、エリノアは顔を上げた。ハンフリーも、スティーヴンも、この場に居並ぶすべての貴族も、声の主のほうに目線を向けた。
ウォルターが一点の曇りもない笑顔でエリノアを見つめていた。
エリノアは我に返り、自分でも驚くほど安心した。そして、するべきことを思い出した。
「わたしの前で他の男にそんな顔を見せるなんて、あなたはなんてひどい人だ」
「まあ、陛下。わたくしがお慕いしているのはただひとりですわ。わかっておいででしょうに」
「それでいながら、わたしの気持ちを弄ぶために、他の男と戯れて見せるのか」
「今日はわたくしの誕生日ですもの。そのくらいの遊戯は許してくださらなければ」
「本当にひどい人だ」
ウォルターは大げさに眉尻を下げ、エリノアの頭を抱え寄せてくちづけした。
エリノアは安らいで目を閉じるふりをした。何度も耐えてきた感触からできるだけ気をそらしながら。
他人にわからない程度に薄目を開けると、広間に集まった貴族たちが、ほっとしたような、白けたような面もちで、この三文芝居を見守っているのが見えた。
ただひとり、ハンフリー・カルヴァートだけが浮かべていた笑みを消し、エリノアとウォルターを射るような目で見つめていた。