1.王と王妃(2)
エリノアはゆっくりと瞼を上げた。
見飽きた暗紅色の天蓋が、今朝もエリノアの世界に覆いかぶさっている。
目を閉じようとして、すぐにあきらめた。どうせあの夢には戻れない。戻れたところで、それは夢に過ぎない。
寝台の中でぼんやりとしているうちに、今日が自分の誕生日であることを思い出した。
あと二、三年で大人になる、その年もとうに追い越して、エリノアは今日で十八歳になった。
「おはようございます、王妃さま」
天蓋から下がる幕が開かれ、朝の光とともに女官たちが入ってくる。
エリノアはまぶしさに目が眩んだふりをして、自分の腕で顔を隠した。あの人の夢を見た朝は誰にも顔を見られたくない。ただひとりを除いては。
「ジャニスだけにして、あとは下がって」
女官たちが即座にきびすを返し、引き上げていく気配がする。エリノアがこう命じるのはほとんど毎朝のことなので、みな心得ているのだ。
遠くで扉の閉まる音を確かめると、エリノアはゆっくりと体を起こした。
寝台のかたわらには、ひとり残った若い女が、洗顔用の盥と水差しを手に立っている。
「また、夢をご覧になったのですね」
エリノアの目もとを見つめ、女がつぶやいた。顔つきは無表情で、声にも抑揚がなかったが、決して冷たい言い方ではなかった。
「ごめんなさい、ジャニス」
「お詫びなど仰らずけっこうです。いつものようにお直しいたしますね」
ジャニスは三年ほど前に雇い入れた化粧師だが、朝の洗顔から夜の手入れまで、顔に触れる一切のことを任せている。今朝も水を注いだ盥に布を浸して絞り、エリノアの顔をていねいに拭いはじめた。
鏡を見なくてもわかる。エリノアの目は赤く腫れ、頬は涙で汚れているはずだ。
すみずみまで拭いた後、ジャニスは再び布を濡らし、小さく畳んだそれをエリノアの両目に当てた。
「横になられますか」
「いいえ。このままで」
冷たい布で目を覆われていると、横になっているのと同じくらい楽でほっとする。夢から醒めたときの重苦しい感覚まで清められていくようだ。
布を取り払ってジャニスが下がると、入れ替わりに女官たちが部屋に戻ってきた。エリノアが寝台から降りると、女官たちは主人の身なりを整えはじめた。
ひとりが寝間着を脱がせ、ひとりが手足を拭いて清める。ひとりが下着をつけ、ひとりが上からドレスを着せかけ、ひとりが肩や腰をあわせる。
それからエリノアは鏡台の前に座らされ、髪を触れられるに任せた。波打った金髪はいつも結い上げず、肩から背中へ流されている。今日も女官はエリノアの髪を念入りに梳り、額から中央で分けるにとどめた。
鏡台の前に座ったまま待っていると、再びジャニスがやってきて背後に立った。
「今日はどのように」
身支度を整えてくれる女性の中で、エリノアの意見をつど尋ねるのはジャニスだけだ。
もっとも、エリノアの答えはいつも決まっている。
「王妃の顔にして」
ジャニスは鏡の中でうなずくと、大きな筆を手に取り、エリノアの顔に粉をはたいた。
くっきりした目鼻だちがきつい印象にならないよう、目のまわりにはほとんど色を載せない。かわりに頬紅には明るい色を使う。少しだけ橙の混じったほのかな薄紅色が、夢から醒めきらない顔を生き生きと見せてくれる。くちびるに同じ系統のより濃い色を引き、ジャニスは再びエリノアの背後に立つ。
「いかがですか」
エリノアは鏡の中の自分にほほえみかけた。
ジャニスの手で化粧を施された顔は、どこから見ても美しい、幸福な若い女のそれだ。涙の跡も、目もとの腫れも、どう捜しても見あたらない。
女官が小さめのクッションを捧げ持って近づいてきた。身支度の過程でただひとつ、エリノアが自分の手で身につけるものが、そこに載せられていた。
宝石と真珠がちりばめられた、金色の冠である。
「参りましょう」
エリノアはそれを自分の頭に載せると、女官たちを促して立ち上がった。
居所のある塔を頂上まで登れば、城壁の上に出ることができる。
鋸状に積まれた石に左右を守られたそこは、盛装した貴人が五人は並んで歩けるほど広い。左手には外側を囲むもうひとつの城壁が、右手には城の敷地の中心に建てられた礼拝堂が見える。
エリノアはそのどちらにも目をくれず、まっすぐ伸びた城壁の先にいる集団を見据えた。
こちらは女ばかりだが、あちらは男ばかりだ。女官たちに劣らず着飾った男たちの中心に、エリノアと同じ紫と金の衣装を纏った長身の男がいる。
男はエリノアが現れたのに気がつくと、城壁の上を進んで歩み寄ってきた。
朝の白い陽ざしを受けて、男が頭上に戴くエリノアと同じ冠が、まばゆい光を放った。
「おはよう、愛する王妃」
「陛下」
エリノアは近づいてきた男を見上げ、顔にほほえみを浮かべた。ジャニスが施してくれた化粧にふさわしい、花ひらくような美しい笑みを。
「誕生日おめでとう、愛しい人」
周囲によく響きわたる声で、その男、現ダウランド王ウォルター・グリフィスは告げた。それから身をかがめてエリノアの頬にくちづけした。
エリノアは夫のくちびるを受けながら、いっそう深くほほえんで見せる。
ウォルターは顔を離すと、体の向きを変えて今度はエリノアに肘を差し出した。
城壁から見下ろす地上には城で働く多くの人間が集まり、王と王妃の姿が見えるのを心待ちにしている。ウォルターの腕に手を通したエリノアは、彼と並んで城壁の縁に立った。
城の端から端まで響きわたるような、大きな歓声がエリノアとウォルターを包む。
隣からの視線に気づき、エリノアは控えめに顔を上げ、再び夫にほほえみかけた。
この世でもっとも愛しい人を殺した男に。