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最愛の人を殺した男と結婚した王妃の話  作者: 木津川 結
第一幕 とこしえの春
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1.王と王妃(1)

 ひとりで眠る時、エリノアはいつもあの人の夢を見る。


 今夜の夢の中で、エリノアは黒いドレスとヴェールを纏い、礼拝堂の中で祈りの言葉を聞いていた。今から五年前、あの人が最愛の妻を亡くした時の光景だ。

 葬儀の列の中にあの人の姿は見つからなかった。まだ幼いエリノアは、きょろきょろと左右を見まわしてあの人を捜そうとした。

 そして、思い出した。あの人はその身分から、自分の妻の葬儀に出席できなかったのだ。


 礼拝堂から出ると、エリノアは広い敷地を走り抜け、あの人がいる場所へ走った。十三年間、あの人よりも長く暮らしてきたこの城の中で、エリノアが知らない場所などひとつもなかった。

 あの人は自分の居間で、肘かけ椅子に腰を下ろして本を開いていた。


「エリノア」


 あの人――エリノアの祖父の甥で、その祖父の後を継ぎダウランドの王となったギルフォード・シェリンガムは、エリノアに気づいて顔を上げた。

 やや長い黒髪が頬にかかり、この一年でいくらかやつれたその顔は、三十歳という年齢よりも老けて見えた。


 エリノアは歩み寄り、書見台に開かれた本を覗きこんだ。祈祷書を置き、妻のために祈りを捧げているのかと思ったが、ギルフォードが眺めていたのは古い法の書だった。膝の上には何枚かの紙が置かれ、乾ききらない多くの文字が書きつけられていた。


「お仕事をしていらしたの?」


 咎めるような口調にならないよう、エリノアは慎重に尋ねた。最大の不幸に見舞われたばかりの相手にどこまで踏み込んでいいものか、十三歳のエリノアは測りかねていた。

 ギルフォードは弁解するようにほほえんだ。暗い青灰色の瞳に、涙は宿っていなかった。


「王の仕事は絶えることがない。不幸のあった日でも、国は変わらず動いているのだから」


 エリノアはその場に屈みこみ、ギルフォードの手に自分の手を重ねた。

 王としてのこの人は厳格で、妥協を許さず、そのために敵を多くつくりがちだったが、私人としてはいつも穏やかで、優しかった。同い年の妻のことを深く愛していたことも、エリノアは誰よりよく知っていた。


 エリノアはなんとしてもこの人を慰めたかった。この一年前、エリノアが祖父――両親を亡くして以来、親がわりだった先代の王――の死に遭ったとき、慰めてくれたのがギルフォードだったのだ。


「王さまなのに、自分の奥方のご葬儀に出られないなんて」


 王家の慣習により、王は自らの家族を喪っても葬儀には参列できない。神の代理人たる王が死を連想させる場に姿を見せてはならないのだという。

 エリノアはギルフォードのために憤慨しつつも、心の別の部分では密かな誇りを感じていた。


 悲しみの中にいるこの人の側にいて、手に手を重ね、瞳を覗きこみ、寄り添うことができるのは自分だけだ。戦や政の場では血も涙もないと言われているこの人が、最愛の妻の死にうちひしがれていることは、この国中でエリノアだけが知っている。


「ありがとう、エリノア」


 ギルフォードは再びほほえんだ。そうすることでかえって悲嘆が顔に浮かび上がることに、きっとこの人は気づいていなかった。


「どうして笑うの? おじさま」


 笑わなくていいのよ、と言いたかった。たとえ公の場では悲しみを表に出さなくても、自分の前でだけは心のままの顔をしていてほしかった。


「おいで」


 ギルフォードが重ねた紙を脇に置き、腰かけたままエリノアに向かって両腕を広げた。

 エリノアは迷わずその中に入った。祖父を亡くして以来、辛いことや悲しいことがあるたび、決まってこの腕が包みこんでくれていた。大きなてのひらで髪や背を撫でてもらうと、不安も心配もどこかへ遠ざかり、この世でいちばん守られている気分になれた。

 今、悲しみに沈んでいるのはギルフォードのほうだというのに、エリノアはその腕のあたたかさに浸り、酔いしれていた。


「きみの優しさはわかっている」


 埋めた胸の上のほうから、ゆっくりと声がした。


「きみが今のわたしのことを、誰よりわかってくれていることも知っている。だが、神に遣わされた王家の者は、私的な感情にとらわれていることは許されない。たとえ心中が暗く覆われていても、面には安寧と豊潤をたたえていなければならないのだよ」

「安寧と、豊潤?」

「そうだ。きみもじき大人になる、エリノア」


 そう。もうすぐ大人だ。あと二、三年もすれば、誰かの妻になって子を産むことができる年ごろになる。


「きみはエセルレッド王の嫡孫で、シェリンガム王家の正統の姫だ。大人になったら自分の感情は抑え、国のために働くことを覚えなければならない。泣きたいような時にでも笑っていられるように」

「笑っているほうが、いいの?」

「そうだ。王家の姫であるきみが笑みを浮かべていれば、臣民たちも穏やかでいられる。どんなに辛い時でも自分の身分を忘れず、多くの人々のために笑うんだ、エリノア」


 エリノアは顔を上げた。目の前にある青灰色の瞳を見つめ、にっこりと笑顔をつくった。


「わかったわ、おじさま」


 あなたがそう望むなら、わたしはいつだって笑ってみせる。愛しい人。


 あと二、三年したら、わたしは大人になる。

 その時この人は、妻を喪ってできた心の空間に、わたしを迎え入れてくれるだろうか。

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