ままならない主人公
――教室に着いた主人公は自分の席に座り、眠たげな瞳を校庭に投げかけた。
……。
――教室の中では
うーん……駄目だ。
この先の展開が思いつかない。
これはあくまで日常の一コマ。
教室は別に普段通り。
描写をするようなものは無い。
――クラスメイトは
……いや、主人公は外を眺めている。
いきなりクラスメイトを出すのはまずいだろう。
まず、外の様子を描写しないと。
友人との会話はその後にしよう。
――校庭をぐるりと囲うように植えられたゴールドクレストの植木は白い太陽に照らされ、鮮やかな黄緑色の葉を輝かせている。グラウンドでは朝練中の野球部がジャージ姿で横一列に並び、声を張り上げてキャッチボールに勤しんでいる。
さあ。書いた。
ほら動け。
――なんて物好きなやつらだろう。主人公は目を細めた。朝練なんてしなければ、もっと沢山寝ていられるだろうに。それに腹も空いてしまう。ああやって無駄に動いているから、うちの野球部は早弁だなんだと怒られてしまうのだ。
違う違う。
外の景色はもう書いたからいいんだ。
野球部なんて、俺が書きたい物語には一切必要ない。
というかお前はなんでそんなものを眺めているんだよ。
早く動いて、次の展開まで場面を移してくれ。
――においでバレるっていうのに、よくやるよ。主人公はお腹をさすった。夏は窓を開けているからまだいいけど、冬は地獄だ。暖房が効いた教室のモワリと淀んだ空気に、灯油と弁当のにおいがブレンドされて、教室の中は吐くほど気持ち悪くなる。しかも、朝練の後はそれに汗のにおいまで混じる。授業なんてもうやってられないね。
おい。なにをしているんだ。
早弁なんてどうでも良いだろ。
さっさと隣に話しかけろ。
もしくは話しかけられろ。
――朝なんて、眠くて眠くてたまらなくて、肘をついて外の景色を眺めるだけで精いっぱいだよ。主人公は重い体をぐだりと机に預け、大きなあくびを作った。そりゃ、朝に強いやつは元気だろうけど、俺は違うからね。きゃあきゃあと騒がしい連中をBGMに、窓に映る校庭ライブ配信をぼんやり眺めるだけさ。
そうかい。
じゃあもうそれでいい。
早いとこその生産性絶無の空想を終わらせて教室に変化を与えろ。
物語が語られてから、まだ朝礼すら始まっていないじゃないか。
――野球部のやつらはまだ朝練をしている。
はあ?
野球部の話はさっき。
――ジャージ姿の大柄な丸坊主の手から、泥だらけの野球ボールが勢い良く飛んでいく。ボールは少し軸をずらしながら弧を描き、グラウンドの向こうで待つペアの、これまたうす汚いグローブにバシリと収まった。あ、そうそう。野球部の坊主頭だけどさ。あれ、威圧感あるよね。高校生って体格的にはもうだいぶ大人だから、近くで見るとけっこう怖い。こうなると中学の時はぜんぜん気にならなかったのが不思議だよな。きっと、この"威圧感"があるかどうかが、つまりは大人と子供の違いなんだろう。あの卵のように丸っこい頭から、徐々に"可愛らしさ"が抜けていって、その代わり、他人行儀の威圧感とゴツゴツした汗臭さが生えてくる。いや、野球部だけじゃないな。俺や、まわりのやつらだって、最近は子供らしい丸っこさが削れていって、骨太な"大人"の形が見えるようになってきている。なんか羽化をしているみたいだ。精神がドロドロにとろけて、肉体が急激に変化していく。なるほど。こう考えてみると、人間は羽化をする動物だったんだな。それならつまり、思春期っていうのは人間が子供から大人に変わる間の繭。なるほど、なるほど。俺は繭の中に居るから眠いんだな。
おい。
なんだこれは。
俺はこんな文学的な話。
――中学の頃、さなぎのグロテスクな実験を先生から聞いた。……詳細は覚えていないし、思い出す気もない。ただ、実験の対象にされ、半分だけ羽化した蝶が、普通の蝶と同じように羽ばたこうとしてすぐに死んでしまった話だけ、今でもはっきりと覚えている。あのとき、残酷だな、と思ったのと同時に、親近感が沸いた。どうして実験台の蝶なんかにひどく同情してしまったのか、あの頃は全然理解できず、言葉にすることさえ出来なかったけれど、今ならよく分かる。
ストップ、ストップ。
止まれ。いったん止まれ。
――俺は蝶なんだ。実験台にされ、死んでゆく仲間のことを想い、義憤を感じて泣いたんだ。
わあ。
――殺されてしまった仲間のためにも、俺たちは立派に羽化しなければいけない。もう高校生。蝶になる日は近い。ほら、背中にヒビが入っている。少し力んでやれば、このヒビは背中全体に広がって、たちまちのうちに羽化が完了するだろう。
もう駄目だこれ。
――今日は快晴。風もなし。航海日和とはこのことだ。さらば同胞。さらば諸君。俺は今日旅立とう。窓を越え、グラウンドを越えて、この広い青空に向かって飛び立とう。
……。
――学生服を脱ぎ、シャツを脱ぐ。裸になった背中のヒビはもう肩の辺りまで来ていた。パラパラと落ちて行く表皮の速度がまどろっこしくて、両手を使って手伝ってやる。すると、エメラルド色の綺麗な羽がポンと弾かれるように背中から現れ、教室の後ろ半分に広がった。俺は窓枠に足をかけると、びっくりしているクラスメイトたちに一礼し、大きく羽ばたいた。涼しい、気持ちの良い風が肌を冷やす。野球部は手を止め、俺に向かって手を振った。さあ、もっと高く。もっと遠く――
消えたよ。
主人公消えちゃったよ。
――
どうすんだよこれ。
話を転がすやつが居なくなっちまった。
信じられねえ。
まだ朝礼も始まっていないんだぜ。
――
ああ、クソ。
舞台が残ったままだ。
――
締めねえと。
――
でも、もう主人公は居ないんだよな。
友人は一人も出てきてねえし、野球部の連中はいまだにグラウンドでキャッチボールしてるし。
他にこの物語を動かせる登場人物なんて、どこに。
――
俺か。
――
仕方ない。
締めてやるか。
――……はい。そういうわけで主人公は空の彼方へと消えてしまいましたとさ。空想癖が強い高校生の見る胡蝶の夢。いかがでしたでしょうか。主人公と友人のハートフルストーリーを期待していた方は、申し訳ない。この主人公は友情よりも孤独な自由を愛していたようです。文章世界の空想は時間にも空間にも縛られないからいけませんね。では、また次回。
……ふう。
なんだこれ。