41.「俺が部活を辞めた日」
俺は本当に恋をしているのだろうか。
今まで恋というものをしたことがなかった。仲がいい女子はそこそこいたけども、接していくうちに恋心を抱くということは全くなかった。
「部活やってたら、繋がりがあったのかな。」
階段を昇りながら、思わずそんなことを口にしてしまった。俺は自分で自分の口を手で覆い隠し、周囲を見渡す。誰もいないよな?それを確認する。
夏休みあたりからちょくちょくこういう言葉が出てきている。これが俺の本音なのか……そんなことを考えてしまい、また俺は首を横に振る。
……未練たらたらじゃねーか!
そんなことを思っていた瞬間だった。階段を昇るときに踏み出した左足は、思いのほか手前で、俺はゆっくりと体が後ろに倒れていくのを感じた。
おいおい、階段でズッコケるとか……そんなあほらしいことあってたまるかよ。ひょっとしたら余計な事を考えすぎたのかもしれない。
菜月朱音の事、花園栞の事。そこでやっと俺は気づいた。ここ数日、この2人のことしか考えていないことに。
そして、薄れゆく意識の中で、俺は階段から派手に落ちてしまった……
はずだった。
「……。」
どれくらい時間が経ったのか分からない。でもまだ外は明るかった。
俺はゆっくりと目を開けた。そして現在位置を瞬時に把握した。白いベッド、そしてその周りは白のカーテンで隔たれている。
そう。ここは保健室だ。
階段を踏み外して後ろから倒れる直前までは記憶があった。つまり、誰か親切な人が俺を保健室まで運んでくれたのだろう。
その親切な人にお礼をしたい気持ちもあったし、段ボールを持ってくるって言ってそのまま帰ってこなかったことになるから、後で菜月と花園にも謝らなくてはいけない。
そして、俺はおもむろにカーテンを開けた。その親切な人がカーテンの裏側で待機しているとも知らずに。
「お、やっと目覚めたか。」
俺はその姿を見て、目を大きく見開いた。そして同時に、言葉を失った。
謝らなくてはいけない人は、菜月と花園以外にもいたのだ。
「お前は……!」
「何だか久しぶりだね、神谷。」
すぐ隣の椅子に座ってニコニコしてる男は、開登でもなければ近藤や志賀、渡部でもない。優しい大きな瞳に、校則をきちんと守った頭髪、特徴的な黒縁眼鏡。
そして頬はテニスの影響で、日焼けしていた。
「来栖……!」
名は来栖啓哉。俺と同じソフトテニス部に所属していて、俺が辞めるまでずっとダブルスのパートナーを組んでいた、いわばバディーだ。
1年の夏の大会では来栖と組んで1年にして県大会の出場権をもぎ取るなど、かなりの偉業を成し遂げたこともある。
その影響か、他校にもそこそこペアの名は知れ渡っていた。俺が辞めるまでは。
「……来栖がここまで運んでくれたのか?」
「うん。保健室も近かったし放っておけなくてね。」
来栖も優しい。思いやりがあって、何より穏やかだ。全体的に見てもかなり偏差値の高いこの高校の中でも成績優秀で、先生からも気に入られていると聞いている。
「そうか。悪いことしちゃったな……。ごめん。」
「いやいや、気にしないで。こっちも善意でやったことだしね。」
「でも、俺が目が覚めるまでここでずっと座って待ってたんだろ?悪いって。」
「そこも大丈夫。言うて10分くらいだしね。」
そう笑って言う来栖は10分を短いものだと捉えていたが、何もせずに10分というのは普通の人には苦行以外の何物でもない。本当に申し訳ないことをさせてしまったと実感させられる。
「いやいや、10分って相当長いって。後で礼かなんかしなくちゃな。」
「お礼なんかいいよ!階段も4段目くらいから落っこちたみたいであまり大きな怪我にもならなかったみたいだし。」
来栖がそう言うと、なんだかあっけないもののように聞こえるが、4段目から落ちるのでも相当なダメージのはずだ。俺が石頭なのか、当たり所が良かったのか。
「そ、そうか。」
「それより、俺は神谷に聞きたいことがあって、ここまで待ってたんだ。」
来栖の声のトーンが1段階下がった。そんな気がした。同時に俺はドキッとしてしまう。ここでドキッとしてしまったのは他でもない、心当たりがあったからだ。
「な、何だ?」
「何て言うか、今ここでこの話を切り出すのは恩着せがましいんだけども、」
俺と、来栖の目があった。
「何で、急に部活辞めたの?」
俺は脈拍が早くなるのを肌で感じた。俺が予想していた問とどんぴしゃりだった。そりゃ、パートナーがいきなり部活を辞めたら誰だって不審に思う。
「それは……。」
俺は誰にも、何も言わないでいきなり部活を辞めた。辞める日の前日もいつもと変わらない表情で練習をしていた。
ただ、俺を退部に追いやった理由があるのは確かだ。
「……ごめん。あまり言いたくない類の話だったよね。」
俺は腹を括った。こいつには、来栖には話さなくてはならない。このまま黙ったまま離れ離れにはなりたくない。
今日、この瞬間が過ぎてしまったら次いつ話あえるか分からない。そう、開登にも言わなかった話を今解禁する時がきたのかもしれない。
「……話すよ。」
その日はある9月の晴れた日だった。まだ夏の暑さが抜けない今、俺はいつもと同じように、一生懸命練習をして、大会に向けてひたすらに努力していた。
8月の大会で県大会まで勝ち進んだのも大きな理由の1つだった。そこで期待されていたのが大きな動力となったが、その反面、ちゃんとその期待に応えきれるのかという不安もあった。
そしてその日も何事もなく練習は終わった。午後6時半に練習は終わり、もう日は沈んでしまっていた。
その後、何事もなく電車に乗り、何事もなく自転車をこぎ、何事もなく家に着く。今日もそんな何事もない1日を過ごす予定だった。そう、信じていた。
最寄り駅に着く直前、滅多にメールをしないし、ここ数カ月は滅多に会わないお母さんからあるメールが届いた。
至急、総合病院まで来て。
簡潔すぎるこのメールに、俺は嫌な胸騒ぎを感じた。総合病院は確かお父さんが盲腸で入院しているはずだった。
……まさか。まさか、ね。
俺はダッシュで自転車をこいで、病院に一直線に向かった。思えば、盲腸にしては恐ろしく入院期間が長かった、そんな気がした。
到着するとすぐさま指定された病室へ向かった。真っ白な扉の向こう側には何が待っているのか。でも、その時は不思議と見たくない気持ちの方が勝っていた。
俺は息を呑んだ。そしてゆっくりとドアを開けた。
「……うっ…………うっうっ。」
そして、1番最初に視界に飛び込んできたのはベッドの前で泣き崩れているお母さんだった。




