体育祭練習編もしくは帰り道(名もなきキャリアウーマン)
「判子は貰いました」
『よくやった!』
客先から出て、街を歩きながら上司にスマホで商談の結果を報告する。
「あと一件ありますので、今からそっちに……」
『そっちは別のやつに行かせているから大丈夫だ』
私の取ったアポですが、私以外の人に任せて大丈夫ですか? ……なんて生意気な事を言うつもりはない。成約率の高さには自信があるが、そこまでうぬぼれてはいなかった。
『お前がそこのエリアに固執した時はどうしたんだと思ったが、ちゃんと結果を出すからさすがだな』
「自分の言ったことには責任を持ちますから」
『よく客が残っているとわかったな、やっぱりビジネスマンとしての嗅覚か? 羨ましいな、私も欲しいよ』
「いえ、そんなものじゃないですよ……」
そんなものがあるのなら私だって欲しい。
私がここに固執したのは別の理由だ。かなり個人的な理由なので会社には口が裂けても言えない。
ここの近くの喫茶店に、とある男子高校生が働いている。
いや、いま現在働いている様子がないので『働いていた』が正しい。
私は彼とお近づきになるために、その喫茶店に通い詰めるつもりで、外回りの担当エリアをここにしたのだ。
すでにここのエリアは、うちの部署の他の班が営業をかけた後だったので、新規の顧客開拓は無理だろう、と上司からは反対されたが、その反対を押し切ってまでの決断だ。結果がでなければ、今まで積み上げてきた社内での私の信頼が地に落ちていただろう。
だが、そこは私も踏ん張った。なんとか大口の新規の客を数件見つけだし、硬軟織り交ぜる商談を行って、契約を結んだ。人間本気でやればどうにかなるものだと実感した。
結局、ここのエリアを無理やり担当したことで、私の社内の評価は上昇した。
それ自体はとても喜ばしい事なのだが……一番肝心な部分が、芳しくない結果に終わってしまった。
「とある男子高生」のためにこのエリアに固執したのにもかかわらず、彼がそのバイトをたった二日で辞めてしまったのだ。
本当にひどい話だ。骨折り損のくたびれもうけ、彼はもういないのに私は開拓が終わったここのエリアに残らねばならなかったのだから。
しかし、もうこの苦労も終わりだ。結果も十分出したし、今日でここのエリアは撤退する。学生は夏休みも終えた頃だし、また満員電車で彼の後姿を見るだけの生活に戻るのだ。
『今夜どうだ、飲めるか?』
「え?」
『久々に飲もうじゃないか、私と』
上司も上機嫌のようだ。
会社の飲み会でなく、個人的な飲みの誘いなんて珍しい。もしかしたらあの高級ホストクラブに連れて行ってくれるのかもしれない。
「わかり……」
了承の返事を言いかけて止まる。
道路を挟んだ向こう側の道の先に、一瞬、見覚えのある後ろ姿が見えたのだ。
『どうした?』
「い、いえ、なんでも……」
もう一度目を凝らしてよく見直す。
やはり『彼』だ。私がこのエリアに固執した原因。満員電車その後姿は見慣れている。間違えるわけがない。
『それで、飲みの話なんだが……』
「あ、はい、それで大丈夫です……」
『うん? ああ……それじゃあ、とりあえず戻ってこい』
「はい、わかりました」
私はすぐに電話を切った。このような形で出会えるのは予想外だったが、しかし、嬉しい偶然である。
撤退前日に遭遇するとは……ここのエリアに固執したことは、無意味ではなかったらしい。
私は急いで車道を横切り、彼の数m後ろについた。
どうする? 話しかけるか?
話しかける名分はある。彼がアルバイトをしていた喫茶店で、私は彼と少しだけ世間話をしたのだ。つまり顔見知りである。道すがらでたまたま出会った、ということで話しかけるくらいは大丈夫のはずだ。
いや、しかし、待て。彼は二人の男子生徒と肩を並べている。
親しげに話しているところを見ると、どうやら友達らしい。さすがにあの輪に入り込んで話しかけるのは無理だ。
とりあえず、このまま彼の後ろを歩きながら話しかけるタイミングを覗おう……これは決して彼の跡をつけているわけじゃない。たまたま私の歩く方向と彼の歩く方向が同じだっただけだ。多分彼は駅に向かっているのだろう。
彼らの様子を観察しながら住宅街を歩いていると、細い路地から急にサッカーボールが飛び出てきて、私の前を横切った。ボールは歩道から車道に転がっていく。
そして、すぐにその細い路地から男の子も走ってきた。どうやらサッカーボールの持ち主らしい。
男の子はそのままボールを追って車道に入ろうとする。男の子を目で追う私の視界の端に、トラックが一瞬映った。
「危ない!」
私は歩道から出る間際の少年を抱き止める。
その瞬間、トラックが私たちの横の車道を走り去った。
あのまま、男の子が走っていたら、トラックに轢かれていたかもしれない。
「君、急に車道に飛び出したら危ないよ、危うく轢かれるところだった」
少年は一瞬キョトンとしたが、すぐに状況を理解したらしく私に頭を下げた。
「う、うん! ……ありがとう、おばさん!」
私もおばさんと呼ばれる年になったか、と感慨深く感じる。
しかし、最近の子供は礼儀正しい、ちゃんとお礼が言えるのはいいことだ。
私は男の子の頭を撫でた。
「車道の近くは危ないし、遊ぶのなら公園がいいよ、ここは近くに都市公園もあるし、そこで遊んだ方がいいかもしれない」
「うん、わかった!」
男の子は元気良く頷く。
私は車道を見る。幸い、車の行き来はなさそうだ。
「ほら、もうボールを取りに行っても大丈夫そうだよ」
「うん!」
男の子が元気よく頷いて、ボールを取りに行こうとしたが、すぐに足を止めて振り返った。
「おばさんも俺とサッカーやる?」
「……いや、私は止めておくよ、これから大切な用事があるんだ」
活発で可愛い子じゃないか。遊びのお誘いは五年後あたりにサッカー以外でお願いしたいところだ。
「さあ、行っておいで、車が来ないうちに」
「わかった、ありがとうね、おばさん!」
男の子が車道に入ったボールを取りに行く。
未来ある子供を守れてよかった……と、ひたっている場合ではない。男の子にも言ったが、私には大切な用事があるのだ。
私は彼の方を見た。しかしもういなくなっている。
……しまった! 見失った!
私は急いで駅に向かって走った。
駅前まで来て、ようやく彼に追いついた。
友達とは別れたらしい。今は一人だ。つまり話しかけるチャンスである。
いくぞ、と思って駆け寄ろうとしたその瞬間、
「あ、すみません、止まって下さい!」
「え!?」
足元で声をかけられて、私はつんのめるように立ち止まる。
足元を見ると、男性が這いつくばるように地面にしゃがんでいた。
「ど、どうされました!?」
「コンタクトを落としてしまって……探しているんですが……」
なるほど、そういうことだったのか……しかし、タイミングが悪い。こんなに急いでいる時にこの道をつかえないなんて。
隣のビルを大きく迂回して周り道をするか? いや、でもそれだとまた彼を見失ってしまうかもしれない。電車に乗られたら、もう追いつくとかそういう話ではなくなってしまう。せっかく目の前にいるというのに……
足元の男性を見た。
ピシリとノリが残っているリクルートスーツを着ている。時折見える横顔もまだまだ初々しさが残っており、いまの時期から察するに就活生だろう。そんな彼が必死に地面を這いつくばってコンタクトを探しているのだ。
私もその場でしゃがんだ。
「え?」
「私も探しますから」
「あ、ありがとうございます……」
社会人の先輩として、彼を放っておくことはできない。そして回り道もすることが出来ない。
ならばもう、ここで彼のコンタクトレンズを探す手伝いをするしかないだろう。
「就活されている方ですか?」
私が声をかけると、彼は頭をかいた。
「え? あ、そうなんです、色々回ってるんですけど、なかなか縁がなくて……」
「頑張ってください、あなたを必要としている企業は必ずありますから」
「……あ、ありがとうございます!」
彼を励ましながらも、私はアスファルトの地面に目を凝らす。
辺り一面を見渡すが見当たらない。もう踏んでしまったか、と少し後ろに下がったり、広範囲から見ようと立ち上がって俯瞰的に見てみたりした。
しかし、地面にそれらしいものはない。
どこにいった……とあたり一面をもう一度よく探していると、ふと、彼のスーツの太ももの一部分が光っていることに気が付いた
「ちょっと動かないでください」
「え? あ、はい……」
私は彼の太ももを凝視する。
やはりきらきら光っているモノがそこにあった。
「……これ違いますか?」
私がその部分を指差す。
「え……」
彼がソレを慎重に取った。
光に照らしながら確認する。
「あ、これです、このコンタクトレンズです!」
彼がはじけたように言った。やはりこれがコンタクトレンズだったようだ。
自分のスーツにくっついていたのだから、いくら地面を探しても見つかるわけがない。
「こんなところにあったなんて、地面を探しても見つからないはずですよ……ははは、お騒がせしてすみません」
彼は照れくさそうに頭をかいた。
「見つかって良かったです」
「本当にありがとうございます、助かりました!」
彼が深々と頭を下げる。
感謝されて悪い気持ちにはならないが、その思いにひたれるほど悠長にしている場合でもない。
駅の方を見ると、あの男子高生がちょうど駅に入っていくところだった。これはいけない。せめてホームで……いや、最悪でも同じ電車に乗らないと、話しかけるのは不可能だ。
「それでは私はこれで……」
「あ、待って下さい」
行こうとする私に、彼が声をかけて呼びとめた。
「え、なんですか?」
「あの、お、お礼がしたいんですが……」
「……いえ、お構いなく……」
「そ、そういわずに!」
彼の声は上ずっている。気のせいか、頬も少し染まっているように見えた。
「あの、もし今がダメなら日を改めてもいいので……」
「は、はあ……」
「ですので、もしよろしければ、連絡先とかを交換していただければ……」
連絡先を交換してほしいだなんて、男性から初めて言われた言葉だ。女としてこれほど光栄なことはないだろう。しかも相手は就活について少し躓いている青年。きっと私から彼にアドバイス出来ることもあると思うし、なんだったら、そのまま親密な関係になれる可能性もある。
しかし……
ちらり、駅の方を見ると、彼の姿はない。完全に駅に入ってしまったようだ。
「本当にすみません! いま急いでいるので……」
「あ、そ、そんな……」
私は誘いを振り切って走り出す。今はともかく、何よりもあの男子高生が優先なのだ。ここのエリアを営業担当として固執した、その意味を無にしてはならない。
駅構内に走って入って立ち止まる。彼は……と、駅の中を見渡すと、ちょうど改札に入るところが見えた。
よし、追いついた。
そう思って私も改札に入ろうとしたが、
「すみませんが……」
今度は横からか細い声で話しかけられた。
「はい?」
そちらを見ると、だいぶお年を召され、猫背になっているおじいさんが、杖をついて立っている。
「あのお、申し訳ないのですがあ、切符を買うのを手伝ってくれませんかあ……眼鏡を忘れてしまいましてねえ……」
「ええっと……」
どうする? 断るか? ……一瞬迷ったが、こんな弱弱しいご老人の頼みごとを断れるほど、私は目的のために非情にはなれなかった。
「……わかりました、どこに行きたいんですか?」
ご老人を券売機の前まで案内し、ご老人が告げた駅名を路線図から探しだす。
「えっと……360円ですね」
「360円ねえ……お財布は……」
ご老人はゆっくりと鞄を探り、ゆっくりと財布を取りだした。行動の一つ一つが遅い。普段ならば気にならないだろうけど、今この状況では急いでくれ、と急かしたくてたまらなくなる。
「300……60円、と……」
「貸してください」
私はご老人からお金を受け取ると、券売機に入れてボタンを押した。ご老人の目的の切符が出てきたので、それを渡す。
「これで大丈夫ですね? それでは……」
「ああ、待って下さいな……」
「はい?」
まだ何かあるのか。
私は走りだす足を止めた。
「お礼をしたいのですけれどもお……」
「いえ、そんな結構ですよ」
「いえいえ……あなたのように親切な人はなかなかいません、先ほども男の子に頼もうとしたのですが、睨まれてしまいまして……」
「はあ、そうですか……」
「妻に先立たれまして、娘夫婦の家に厄介になっているのですが、娘も私に冷たくてねえ……孫は可愛いのですけども、最近はいろいろとゲームとかなんだとかで、娘の遊びにも付き合ってやれなくなりましてえ……年を取るのは仕方ないですが、私も……」
「あの! お礼は何でしょうか!?」
このお話し好きのご老人に付き合っていては日が暮れる。
彼が行ってしまうその前に、さっさと進めてこの話を終わらせよう。
「ああ、そうでしたね……あなたは、どこまで行かれますか?」
「え? えっと……」
そんなことを聞いてどうするのだろう、と思ったが、ご老人は券売機の前で財布を開いたまま立っているのを見て察した。
「あ、もしかして私の分の切符を?」
「はい、どちらまで行かれますか?」
「それは本当に大丈夫です! お礼はお気持ちだけで結構ですので……」
「どうぞ、遠慮しないでください」
「いえ、そうではなくて……」
私は定期入れから、ICカードを取り出して、ご老人に見せる。
「私はこれがあるので、切符を買う必要がないんです」
「ほう……これはなんですか……?」
「改札でこれをタッチすれば、切符を買わずに改札を通れます」
「ああ、それは知っていますよ……確か娘も孫も、それを持っていました」
「はい、そういうことなので……」
「それは便利なんですねえ、今まではずっとよくわからないからと、気にしないでいましたが……使ってみるのもいいかもしれませんねえ……」
「は、はい、えっとそういうことなので、私は……」
「あのお、これはどこで手に入るものなのでしょうか?」
ご老人が私の目を見ながら聞いてきた。
私は彼の跡を追って改札に走り出したい衝動をグッと堪えながら、ご老人を券売機の隣にある多機能券売機の前まで誘導した。
「……ここで買えます」
「券売機は切符以外の物も買えるんですか、知りませんでした……時代は変わりましたねえ、私が若い頃はまだあの自動改札の方が珍しいくらいだったのに、今ではこんなものがあるなんてねえ……」
私は券売機にある通話ボタンを押した。
『はい、どうされました?』
「すみません、ICカードを買いたい方がいらっしゃるんですが、その方法を教えてあげてくれませんか?」
『わかりました、少々お待ちください』
改札の横にある窓口から、駅員がこちらに駆け寄ってきた。
「このお年寄りです」
「あ、わかりました」
「それでは後はお願いします」
私は駅員に後を任せ、走って改札まで向かうと、そのまま通り抜けた。
何やらご老人が背中越しに私に声をかけてきた気もするけど、それで足を止めたらまたご老人の話を聞かねばならなくなる。私は聞こえないふりをして、後ろを振り返らなかった。
改札を通り抜け、私は立ち止った。
上り電車と下り電車、彼はどっちに行った?
……恐らく彼は帰るはずだ、それならば下りの電車に乗るはず……
私は賭けにでて、下り電車のホームに走る。
ホームには、すでに電車が止まっていた。
しかも、発車を告げるサイレンがホームに鳴り響いている。
彼は果たしてこの列車に乗っているのか……電車の窓に見慣れた後ろ姿が見えた。良かった、私の勘は当たっていたようだ。彼がこの電車に乗っているのならば、もはや悩むことなど何もない。私は電車に乗りこもうと電車の入り口に突撃して……
ドン!
閉まりかけのドアに激突した。
「うごお!?」
衝突の衝撃が私の鼻さきに集中し、思わずよろけてからうずくまった。
『駆け込み乗車は危険ですのでお止め下さい』
車掌のアナウンスが聞こえる。そして後ろからプシューという音とガシャリという音……ドアが閉まる音だろう。
ガタンゴトンと腹に響く重低音、私は鼻をおさえながら振り返ると、電車がゆっくりと進んでいた。
呆然としながら、私はその電車を見送った。結局、彼には話しかけられなかったうえに、社会人にもなって、電車のドアに激突するという、とんだ赤っ恥をかいてしまったのだ。
私はゆっくりと立ち上がると、ベンチに座って肩を落とした。