アルバイト後編(名もなきキャリアウーマン)
営業で汗を流すのは久しぶりだ。最近は内勤が多かったが、こうして外に出て直接顧客と商談するのも悪くない。
夏になって、日差しも強く、外回りには辛い季節だが、逆にそれが私に働いているという実感をくれた。
しかし、この炎天下で外を歩き続けるのは辛いというのも事実だ。午前中に入れた商談を終え、次の商談まではまだ時間がある。
ちょうど雰囲気の良さそうな喫茶店を見つけたので、そこで時間を潰そうと思い、お店に入った。
その瞬間、私は運命の出会いをした。
「いらっしゃいませ、お一人様でしょうか?」
「……え?」
「え?」
いや、『運命の出会い』という言葉は正確ではない。
私達はすでに出会っている、正しく表現するのならば『運命の再会』だ。
まさかこんなところで『彼』に出会うとは。彼は同じ満員電車に乗っている男子高校生だ。
私は彼と浅からぬ縁がある。
以前、その電車で痴姦の被害に会った時、彼を助けた。
さらに最近では、ナンパ女にしつこく迫られているところに割って入り、彼を助けた。
そんな彼と、こんなところで偶然出会うなんて……何らかの運命があると考えてしまうのは仕方ない事だろう。
「あの、お一人でしょうか……?」
「……あ、は、はい、一人です!」
思わずボケッとしてしまったので、すぐに返事をした。
「タバコはお吸いになられますか?」
「す、吸わないです……」
私は彼を認識して動揺しているが、彼の方は、バイト中だからだろうか、飲食店の接客の定型文で対応している。
「カウンター席とテーブル席がございますが、どちらがよろしいですか?」
「……テ、テーブル席で」
「かしこまりました」
そのまま席に案内された。ひと段落したら、声をかけてくれるのかもしれない。あんな印象的な出来事で二度も会ったのだ、私の顔を忘れてはいないだろう。
「では、こちらにどうぞ」
「は、はい……」
「注文が決まったらお呼び下さい」
彼は頭を下げてその場を立ち去ろうとする。
私は慌てて止めた。
「あの、すみません……」
「はい」
彼はキョトンとした顔で振り返った。
この反応……まさか、私の事を覚えていない?
「ご注文お決まりですか?」
「あ、そうではなくて……私、なんですけど」
「はい?」
彼の顔はキョトンとした顔から、「何言ってるんだコイツ」の顔になった。
嘘だろう……まさか本当に私の事を覚えていないのか。
「……えっと、私です」
「ワタシ? ……あ、あー……」
ここで彼はやっと何かを思い至った顔をした。
「分かってもらえましたか?」
「あ、はい、すみません……」
私は安堵で胸をなでおろす。
「あの、俺、ここのバイト始めてすぐでして……」
「……え?」
なでおろした胸があがってきた。
雲行きが怪しい返事だぞ、これは。
「いや、ですので、お客様が注文したいものがちょっとよくわからないんですけど……」
「……えっと、すみません、どういうことですか?」
「……え? 常連の方、ですよね?」
「……あ、いや、そうではないですね、ここには初めてきます」
どうやら常連だと勘違いされて納得されていたらしい。
確かに注文する時に「私です」を連呼すれば勘違いもするか……まあこれで、彼が私の事を一切覚えていないという悲しい事実が判明してしまったわけだが。
「……そうだったんですか」
「……はい、えー……あの……」
ああ、これはダメだ、向こうがこちらを覚えていないとなると、私の行動は客観的に見れば全て「怪しい客」ということになってしまう。
とにかく、この場を何とか切り抜けないと。
「……とりあえず、ここのお店の、おすすめのメニューとかを教えてください」
「それでしたら……コーヒーとかがおすすめです」
「コーヒー……何コーヒーですか?」
「えっと……キリマンジャロ、ですかね」
「じゃあ、キリマンジャロでお願いします……」
「かしこまりました、ご注文は以上でよろしいですか?」
「……はい」
おすすめのメニューを聞きたかった客、として上手く誤魔化せただろうか?
……誤魔化せなかっただろうな。いろんな人と会う職業上、相手の反応で、おおよそ相手の心情を推察できる。その経験則からいえば、彼は私を「怪しい客」と認識したままだ。
カウンターに向かう彼の背中を見送る。
私は大きなため息をついた。
……しかし、気を落としてばかりもいられない。
むしろここで出会ったことを利用して、彼と親しい間柄になればいいのではないだろうか。
それから数分が経った。
彼がキリマンジャロをお盆に乗せて運んでくる。
「こちら、キリマンジャロになりま……」
「……? どうしました?」
妙なところで彼が言葉を詰まらせた。
「……いえ、キリマンジャロ、です」
「ありがとう……」
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
彼が伝票をテーブルに伏せて置き、離れようとする。
「あの、すみません」
そこを呼びとめた。
ここから私の営業職としての腕の見せ所だ。短時間で相手に好印象を与える術は心得ている。自慢じゃないが、私は自分で取ったアポを外したことがない。
「はい、追加のご注文でしょうか」
「いえ、違うんですが……あの、つかぬことを伺いますが、普段からここでバイトを?」
まずは答えやすそうな質問をして、相手と会話する雰囲気を作る。
「はい、といっても、今日で二日目ですけど」
「二日目ですか、接客が堂に入っていたものだから、ベテランなのかと思いましたよ」
「そうですか? ありがとうございます」
そして褒める。(ほぼ)初対面の相手と円滑に会話するには、嫌味にならない程度に相手を褒めることが有効だ。
「あ、もしかして他に接客業のバイトでもしてるんですか? それでそんなに上手いとか?」
褒めるついでにさらに情報も聞きだす。
「いえ、これが初めてのバイトで、他にバイトもしてないです」
始めて二日目のバイトということは、おそらくはまだまだ辞めることはないだろう。一週間のシフト制と考えて、来週のこの時間帯にここに来ればまた会える可能性が高い。
他のバイトもしていないのなら、部活動でもしてない限り、バイトのシフトが急に変わることもないだろう。
「へえ、それはすごいですね、接客や営業の才能があるかもしれませんよ、羨ましいです、私も営業で外回りをしているんですが、中々上手くいかないもので」
これは嘘だ。さっきも商談を一件まとめてきたばかりだ。でもここは私の自慢話をするところじゃない。
「学生さんですよね? 夏休みを利用してバイトを?」
「はい、そうです」
「コーヒーが美味しいですし、このお店にまたくるかもしれません、もしまた会ったら、よろしくお願いしますね」
「あ、はい」
これも嘘だ。コーヒーはまだ一口も飲んでない。でもここで「また君に会いに来ます」なんて正直に言ったら100%気持ち悪がられる。
今の私は『外回りでたまたまこのお店に立ち寄ったOL』であり、『ここのコーヒーに惚れこんで常連になりかけているお客』なのだ。
「玉城君、ちょっと……」
カウンターにいる女性、おそらくはこの店の女主人だろう、彼女が彼を呼ぶ。
ひとまずはここまでだ。続きは来週……いや、念のため明日も来よう。それでもし運よく彼がいれば、「あ、今日もバイトだったんですね」と気軽に話せる。さすがの彼も、一日で私の顔を忘れることはあるまい。
私は今後の明るい展望を予測し、気分よくキリマンジャロを飲んだ。
美味しいコーヒーをじっくりと味わい、そろそろお会計をしようかというところで、
「申し訳ない、だろうが!」
穏やかな喫茶店には似つかわしくない厳めしい声が聞こえてきた。
そちらを見ると、初老の男性が彼を怒っていた。
「まったく、今時の若い奴らは常識というものがない、俺がアンタみたいな年のころは、親や学校の先生に厳しく躾けられたものだ、アンタはそんな経験ないだろう?」
なんとも聞くに堪えない言いがかりだ。
おそらく、あの初老の男性はクレーマーだろう。定年後の男性に多い説教タイプとみた。『誠意』を要求するタイプではないのでそれほど悪質ではないが、「悪気がなくやっている」場合が多いので、厄介な相手ではある。私の商談相手でも時々あれの一歩手前くらいの人物がいるから、その厄介さはよくわかる。
「はい」
「それだからいけないんだ、アンタはまだ若いからきっと言っても分からんだろうがな、社会に出たらそんなんじゃやっていけないぞ」
「……はい」
私は立ち上がった。
クレーマーは接客業をやっていれば避けては通れない相手だ。しかし、バイトを始めて二日目の彼にクレーマーの対処など出来るわけもない。
ならば彼を救えるのは私しかいない。
女として……一人の大人として彼を救うのだ。
そして救った後にお礼とかを言われたりなんかして、なんやかんやあるかもしれない。いや、あって欲しい。
「ちゃんと聞いてるのか?」
「はい」
「そういう不貞腐れた態度がいけないと言ってるんだ」
「ちょっと、いいですか」
私は横から二人の話に割って入った。
「なんだ、アンタは?」
「いや、とても素晴らしいお話をしていたと思いますが、ちょっと時間と場所が良くないなと思いまして」
こちらの口調はあくまで丁寧に。クレーマーにつられて怒ったり委縮したりしてはいけない。
この手のタイプは頭ごなしに否定したり、すぐに謝罪すると逆にヒートアップする。まずは相手のクレームを認めてやるのが大事だ。
「そのお話しの続きはまた今度ということにした方がいいと思います、彼はいま仕事中ですし」
「アンタには関係ないだろう」
「ええ、関係ないですけど……」
私は彼の胸に手を置いてグイッと押した。
更に目で合図をする「ここは私に任せろ」と。
彼が一歩引くと、私は位置関係的に、彼とクレーマーの間に割って入った。
彼の盾になる格好だ。
「はいはい、どうかされましたか?」
カウンターにいた女主人もこの騒ぎに気付いたらしくカウンターから飛んできた。
「俺はあの店員に教えてやっただけだ」
「そうなんですか、ただ、今やることじゃなかったですね」
「わざわざすみません、何かうちの店員が粗相をしましたか?」
女主人は彼を店の裏まで下がらせた。
私の勇姿を彼に見せられないのは少し残念だがまあ仕方ない。今はこのクレーマーの対処だ。
「教育がきちんと出来てないんじゃないか? 礼儀がなってなかったよ」
「そうなんですか、私は彼の接客に満足できましたけども」
初老の男性がこちらを睨む。
「アンタに何がわかるんだよ、俺は長年この喫茶店に通ってるんだぞ」
この客は常連らしい。とすると事は面倒だ。こういう老舗の喫茶店では常連客を手放したくはないだろうし、女主人も強くは出られないはず。
「彼の教育は私がやりました、ですので不愉快にさせてしまったのならまず私が謝ります、申し訳ありませんでした」
女主人が頭を下げる。
これでクレーマーが矛を収めてくれればいいが……
「加咲さん、アンタね、この店はご家族で頑張るって言ってたでしょ、私だって、アンタたちのそういうところを気に入ってこのお店に通ってるんだよ? それなのにあんな礼儀知らずの若いやつを雇って、何考えているんだアンタ」
クレームの矛先が女主人の方に向いた。親切心を通り越したお節介すぎる理不尽なクレームだ。
「それは……重ね重ね申し訳ありません」
ここで謝ってしまうのか。それではこのクレーマーを助長させてしまうだけだ。
仕方ない、ここは私がこのクレーマーにガツンと言うか……騒ぎは大きくなってしまうだろうし、おそらく私も追い出されるだろうが、このままだとこれからここで働き続ける彼が不憫すぎる。
「あのですね、あなたの言ってる……」
「お代は結構ですので、もうお帰り下さい」
「え?」
一瞬、女主人が私に対して言ったものかと思ったが、彼女ははっきりとクレーマーに対して言っている。
「な、何言っているんだ、加咲さん……」
クレーマーの方も戸惑っているようで、その声に先ほどまでの勢いは、なくなっていた。
「うちのお店のことを考えて頂けるのはとても嬉しいです、ですが、この店をどうするかは私が決める事です、それが気に食わないのならば、もうここに来なくても構いません」
女主人はきっぱりと言い切ると、頭を下げた。
「本日までご贔屓にしていただきありがとうございました、お代は結構ですのでお帰り下さい」
クレーマーはこんな事になるとは思いもよらなかったらしく、焦りの色を隠せず、女主人の後頭部を見つめている。
しばらくの間、重苦しい沈黙が続く。
その間も決して頭を上げない女主人に、クレーマーは追い詰められた表情を浮かべながら立ち上がると、財布から一万円を出してテーブルに叩きつけ、逃げるように店から出て行った。
「……行ったみたいですよ」
女主人はゆっくりと顔をあげた。
その顔は疲れているようだが、しかしどこか清々しく見えた。
「お客様にもご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いえ、私は自分から関わりにいきましたし」
絡まれているのが彼でなかったら、放っておいたかもしれないし、お礼や謝罪はいらない。
だが、もし彼からのお礼ならば存分にもらいたいとは思う。
「彼は大丈夫でしょうか?」
「これからフォローをしておきますので」
女主人はペコリと頭を下げて店の裏に行った。
私は一旦、自分の席に着いて時計を確認する。
時間の方はまだ問題ないが、長居出来るほどの余裕もない。帰る前に彼と一回会っておきたかったが、そうはいかないようだ。
カバンから財布を取り出し、テーブルに置かれた伝票を持ってレジに向かった。
レジにある呼び鈴を鳴らすと、伏せ目がちの太った女の子が、するりとレジの前に立った。
伝票をみた彼女は、人差し指だけでレジを叩くと、
「……600円です」
と少し小さめの声で言った。
私は、財布から千円札を出して渡す。
「……千円のお預かりで、400円のお返しです」
やはり少し物足りない声量とともに、400円が返ってきた。
「あの男の子の店員、明日もこの店に来ます?」
こちらの手元を見ていた女の子が、私の何気ない一言にハッと反応した。
「……なんでそんなこと聞くんですか?」
「え? いや、まあ気になったもので……」
「……」
女の子はこちらをジッと見ている。
なんだか胡散臭いものを見るような眼だ。
「……ご来店、ありがとうございました」
女の子が、こちらの質問に答えずに頭を下げる。
この反応、どうやら私の事を警戒しているらしい。もしや、この女の子も彼の事を……?
私はひとまず、店を出た。
次の日、モーニングから例の喫茶店を訪れた。
しばらくはここ周辺で新規顧客開拓をする、ということで昨日の段階で上司から許可はもらっている。おかげで朝から喫茶店に入ることも可能になったし、営業の外回りはこんな風に自由が効くから好きだ。
店に入ると、昨日のクレーマーがカウンターにいる女主人に頭を下げているところだった。
女主人は昨日の毅然とした顔とは打って変わって笑顔で対応し、クレーマーの方は申し訳なさそうに頭をかいている。どうやら、上手い具合に丸く収まったらしい。
「……お一人ですか?」
さて、私に対応してくれたのは、あの例の私の事を警戒している伏せ目の女の子だ。
「ええ、そうです」
「……タバコは吸いますか?」
「吸わないです」
「……カウンター席とテーブル席はどちらがいいですか?」
「テーブル席で」
彼女は私をテーブル席に案内すると、
「……ご注文が決まりましたらお呼び下さい」
と告げて、仕事は終わったとばかりに席から離れていくので、それを呼びとめた。
「注文は決まっているので、いいですか?」
「……どうぞ」
「キリマンジャロで」
彼が勧めてくれたコーヒーだ。頼まないわけにはいかないだろう。
「……キリマンさん……」
「え?」
「……何でもないです」
今度こそ席を離れようとする女の子を再度呼び止める。
「ああ、待って下さい、聞きたいことがあるんですが」
「……なんですか?」
「あの男の店員はいますか?」
「……いません」
女の子はむっつりとした顔で否定した。
「それなら今日は出勤しますか?」
「……今日は……」
「今日は?」
「……」
「……」
「……出勤しません」
ずいぶん間があった気がする。同僚が出勤するかどうかなんてすぐに思い出せるだろうに。
「それではいつ出勤しますか? 明日とか?」
「……」
女の子の目が、一段と険しくなった。そして、
「……辞めました」
「え?」
「もう辞めました」
「辞めたって……あの男の子が、このバイトを辞めたってことですか?」
「そうです」
いや、それはないだろう。いくらクレーマーに当たったとはいえ、始めて二日目のバイトを辞めるものか。
「……本当に辞めたんですか?」
「本当に辞めました」
「彼はもうこのお店に来ない?」
「来ないです、絶対に来ません」
「……絶対に来ないんですか?」
「絶対に来ません、100%来ません」
もう完全に嘘だこれは。この女の子はよほど私を彼と会わせたくないらしい。
「……そうですか」
「はい」
「……」
「……」
私達の間に沈黙が流れる。
いいだろう、そちらがその気ならこちらだってやってやる。これから毎日この店に通いつめ、必ずや彼と再会して見せる。