ナンパ(名もなきキャリアウーマン)
街には人があふれている。今日が休日だからだろう。
「……ふう」
私はレストランで一息つきながら、コーヒーを飲んだ。
果たしていつごろからだろう、休日にスーツを着て仕事に出かけることに、何の抵抗も感じなくなったのは。
人であれ、物であれ、仕事上で相手をするのに「こちらの都合」なんてものは関係ない。この事実に気付いたころから、私は社会人として一皮むけた気がする。
会社にいる上司にメールで今日のことを報告すると、そのまま直帰の許可が降りた。たまの休日で遊んでみたらどうだ、と付け加えられていたが、もう一日の4分の3近くが終わっているし、遊んだり、おひとり様をやるよりも、とっとと家に帰って休んだ方が有意義だろう。
会計を済ませ、レストランを出る。
駅に向かおうとするその道すがら……
「あ、ちょっとごめんね」
声をかけられたので、足を止めた。
誰だろうと思ってそちらをみると、女子大生風の女が男子に話しかけていた。
どうやら話しかけられたのは私ではないらしい。
私は早々にその場を離れようとしたのだが、ふと、気になることがあったのでもう一度、その女子大生と男子を見た。
「ねえ、あのさ、今カラオケ店探してるんだけど、君この辺り詳しい?」
「まあ一応……地元です」
「そうなの? よかった、私この辺よく知らなくてさ」
やはりそうだ!
女の方はまったく見覚えがないが、男子の方はよく知っている。私が毎朝、満員電車で見ている彼だ。あの顔と、なによりもあの体格は一度見たら忘れようがない。
どうやら彼はここら辺に住んでいるらしい。
……そうか、住んでいるのか……
いや、特に何かするわけではないが、そういうのを知ることができると嬉しいと思ってしまう。
私はスマホをいじるふりをしてその場にとどまり、彼らの話を聞いた。
「今この辺じゃん?」
「そうですね」
「カラオケ屋ってどの辺にあるの?」
「えーと……」
どうやら女子大生は彼に道を聞きたいようだ。
スマホを見せながら彼の隣にピッタリとくっついている。
ちょっと距離が近すぎじゃないか?
まるで仲良しの友達か、それかもしくは恋人のような距離だ。初対面同士の距離じゃない。しかし、彼はまったく拒否反応を示さずに丁寧に道を教えている。
「そうですね、画面だとこうだから……ああ、つまりこの道を行きまして……」
「ふんふん」
何だか無性に腹が立ってきた。こんな遊んでばかりいるような女子大生がこんなに彼と近づけて、さっきまで仕事を頑張っていた私が遠くから見ているだけなんて、理不尽だろう。
「……それで、交差点のガソリンスタンドを左手に見ながら左に曲がると、目の前に看板が見えてくると思います」
「ガソリンスタンドで、はいはい」
横目でチラリと確認するが、女子大生は心なしかニヤついている気がする。そう思うとますます腹立たしい。
「でさ、せっかく教えてもらっといてアレなんだけどさ、そこの店って『ジューク』置いてる?」
「『ジューク』……? ああ、機種ですか」
「そうそう、あれメッチャ曲はいってるじゃん? できればあれ使いたいんだよね」
カラオケ、最近は行っていないが、私だって学生時代はよく通ったものだ。
今でも二次会でカラオケに行けば一時間はマイクを握れる。
「うーん……多分、あるんじゃないですかね、チェーン店だし」
「わからない? そこで歌ったりとかしないの?」
「歌うことはありますけど、友達と一緒に行く程度ですから」
「あ、そうなんだ、じゃあ今日も友達と一緒に遊んでたりしたんだ?」
「いえ、今日は一人です」
そうか、今日は一人なのか……いや、べつに私は声をかけたりはしないが、ただ、そろそろ日も暮れてきたし、最近物騒な世の中で学生が一人というのは、よくない気がする。何よりも彼はとても魅力的な男性なわけだし……。
「そっか一人なんだ、実は私も一人なんだ」
「そうなんですか」
「でもね、やっぱり一人は寂しいわけ」
うん? と私は首をかしげた。どうにも話の展開がおかしい。
そもそもこの女子大生は道を聞きに彼に話しかけたはずだ。なのにいつの間にか彼から色々な情報を聞き出している気がする。これではまるで……
「一人で行くのが目的じゃないんですか?」
「違う違う、友達誘ったんだけどみんな断られたの」
「ちょっと笑わないでよ、これガチなんだから」
「すみません」
「いや、本当に君ヒマなら一緒にカラオケきてくれない? 歌おうよ」
……やはりナンパだ!
今までの事は恐らく嘘で、全てはこのナンパに持っていくためのものだったのだろう。
私は危機感を募らせた。
良識ある男性ならこんなナンパに引っ掛かって遊びに行くことはないだろう。だが、彼は別だ。彼は女性対して慈悲深い……いや、端的にいうと恐ろしく無防備なのである。
そんな彼がはっきりとナンパを断れるだろうか?
「え、俺ですか?」
やはりマズイ。ここはすぐにでも断るところなのに彼は考えてしまっている。
特に最近は大学生によるレイプ加害のニュースを目にする機会が多い。今日家を出る時も酒を飲ませて後輩をレイプした女子大生がニュースでやっていた。カラオケという密室では、何をされるかわかったものではない。
「……ナンパ?」
彼がもしや、といった感じでつぶやいた。
どうやらナンパということにすら気づいていなかったようだ。本当に危なっかしいぞ。
「いや、まあナンパって言うかね、うん……まあ、ナンパなんだけど」
女子大生が歯切れ悪く答えた。
恐らくはやましいことをするつもりだったのだろう。
「……えーと、どう?」
「……」
どうもこうもあるまい。
彼は黙ってしまっているのを見て、女子大生はなぜ察することができないのだ。これはどう考えても拒否を示す沈黙以外にない。さっさと諦めろ。
「あ、わかった、今日はちょっと都合悪いかもしれないからさ、またいつか予定があったらとかにしない?」
「え?」
何て往生際の悪い。ここははっきりと断って……
「だからさ、そうだな……ラインとかやってる? それで遊びたくなったら連絡取り合うってのはどう?」
「いいですよ……」
……ちょ、ちょっと待って!
なんで了承しているんだ。こんなのに連絡先を知られたらろくなことがない。
「待つんだ」
「え?」
もはや黙って聞いていられず、私は二人の間に割って入った。
「……あんた誰?」
「私は……たまたまこの場を通りかかったものです」
「はあ?」
女子大生がポカンと口を開ける。
確かにこの女子大生とは初対面だが、彼となら……私は彼の方を向く。
しかし、彼もまた女子大生と同じくポカンとしていた。
くっ、痴漢から助けたはずの私の印象はそんなに薄かったか……!
「君は彼がナンパされて困っているとは思わないんですか?」
「……いや、アンタ関係ないんでしょ? 引っ込んでてくれない?」
女子大生が顔をしかめる。
本性があらわれてきたな。彼はこの女の笑顔に騙されていたかもしれないが、女というのは大抵、性欲にまみれているものだ。己の欲望を満たすためならどんな笑顔だって取り繕える。
「そういうわけにはいきませんね」
「……マジでなんだアンタ? 別に君の知り合いじゃないんでしょ?」
「……」
女子大生が私越しに彼に話しかけた。
彼ははっきりと否定せず、私の顔をじっと見ている。もしかしたら私の事を思い出しかけているのかもしれない。
私は決め顔を作り、彼に話しかける。
「君」
「はい?」
「君はもう行って」
「え?」
「ここは私に任せて」
彼の肩を押し、この場から離れさせる。
「さあ、早く……」
「は、はあ……」
困惑する彼の肩をさらに強く押した。
「ちょっとマジでおばさん何やってんの? キレそうなんだけど」
もはやこの女子大生は本性を隠すつもりがなくなったようだ。
やはり私の思った通り、その醜い凶暴性で彼を蹂躙しようとしたのだろうが、そうはいかない。私が彼を守るのだ。
「勝手にキレればいいでしょう、だけど君のやっていることは許される事じゃない」
「マジで意味わかんねえ」
私は毅然とした態度を崩さない。
この手の輩は舐められればつけあがる。
「ちっ……死ねよババア」
一向に引かない私に女子大生は早々と白旗を上げたようで、小声で捨て台詞を吐くと私に背を向けて繁華街へと消えた。
私はあんな罵倒の言葉が気にならないくらいの充足感を得ていた。一人のいたいけな少年を救えたことはそれほどに重要なのだ。
そして、このシチュエーション……ナンパ女から男性を救う……はベタなものだが、それがゆえにここまで舞台が整っていると、期待せざるを得ない。
すなわち、彼が私のもとにお礼を言いに来てくれるのではないか、と。
そしてそのまま仲良くなって、いずれは……
私はそんな物語を夢想しながら、なるべくゆっくりと駅に向かう。
この期待は自分の家に戻り、扉を閉めるその瞬間まで続いた。