お風呂場(麗)
今日も苦行を終えて愛すべき仮宿に戻る。
苦行、そう苦行だ。
仕事が難しいかと言われればまったくそんなことはない。むしろ簡単すぎる。なんせアルバイトがするような単調なデータ入力をやらされているのだ。
ならば別のやりがいを感じるような仕事をやればいい、という話になるのだが、私にはそんな仕事、決して回ってこない。営業所の人たちは私を仕事仲間だと認めていないのだ。本社から左遷された問題ある人物として腫れ物のように扱われている。
業務中は必要最低限の会話しかせず、休み時間になるとコンビニで買ったお弁当を一人で食べる。そしてまた業務を再開する。
まるでロボットだ。それも中身がだいぶ壊れている不良品。
業務終了の時間になると、他の人たちはその日の業務の成果やら反省を総括するが、私は退職願いを出さなかった自分を褒めて総括としている。
やりがいのない仕事を強制され、いてもいなくてもいいという目で見られ、左遷という立場から、この苦行の先には何もないときてる。
普通の人なら辞めるだろう。
だが、私は辞めない。辞めるわけにはいかない。
この苦行から解放された時、私に待つ癒しの時間の為に。
幸いなことに今日はノー残業デーなのでいつもよりも早く苦行は終わった。別に普段から定時までには仕事を終わらせているが、他の人たちが仕事をしているなか帰るのははばかられるので、仕事をしているふりをして小一時間やり過ごしているのだ。
駅から歩くこと二十分。住まわせてもらっている叔母さんの家まで来ると、鍵を開けて中に入った。
「あら、麗ちゃんお帰りなさい」
リビングに行くと、叔母さんが私を出迎えてくれる。数時間ぶりの人の暖かみに触れて嬉しいが、それよりも今は……
「あ、彰君はもう寝ちゃいました?」
「ううん、あの子はお風呂よ」
お風呂、なんと絶好のタイミングで帰ってこれた!
「お夕飯は食べた?」
「まだです」
「そうなの、一応今日の夕飯の残りが冷蔵庫の中に入ってるけど……」
「はい、自分で用意しますから、叔母さんは休んでください」
「悪いわねえ、それじゃあお言葉に甘えるわね」
そういって叔母さんは欠伸を噛み殺しながらリビングを出て行った。そんな遅い時間でもないが叔母さんはいつも早寝をする。私としては実に都合がいい。
叔母さんが寝室のある2階に向かったのを確認し、私はお風呂場に向かった。
脱衣所に入る。むわっとした湿気が漂う。
これからが私の癒しの時間だ。私はこの瞬間のために生きていると言っても過言ではない。
「彰君、ただいまー」
「……おかえり」
アクリルのドア越しからワンテンポ遅れて返事がきた。
このドアの向こうに現役男子高生が裸でいると思うと正直興奮する。この薄い扉を開けたい衝動に駆られるが、そんなことをすればすべてが終わる。せっかく手に入れたこの極上の時間が無くなれば私は生きる意味を失う。
これが私の『癒し時間』。裸の男子高校生と触れ合える至福の時間。
「お風呂の湯加減どう?」
「……あー、いいよ」
「そうなんだ、私も早く入りたいな……」
嘘をついた。別にお風呂に入りたくはない。それよりも『ここでしかできないこと』をやりたい。
「俺はもうすぐ出るから……」
「ああ、急かしてるわけじゃないんだ、ゴメンね」
今出られたら逆に困る。
いや、裸の彰君と鉢合わせするとか滅茶苦茶美味しいシチュエーションなら大歓迎なのだが、そんな嬉し恥ずかしハプニングをしてしまった日には、次の日から彰君に避けられてしまうことは確実。
私がやりたいこと、それは……
洗濯かごの中を見る。そこには洗い物が入っていた……すなわち、今お風呂に入っている彰君の洗い物が。
端的にいうとお宝である。
私は利用したことがないが、どこぞのショップで買おうと思えば数千円はするのではないか? それぐらい貴重なものが無造作に置かれている。これはもういろいろと使わなければ損だ。
「彰君、今日学校はどうだった?」
「あー……普通、かな?」
「そうなんだ……」
私は彰君に話しかけながら彰君の洗い物……これは制服のワイシャツだ……を手に取った。
ここでポイントなのは『彰君に話しかけながら行為に及ぶ』という点だ。
アクリル越しに向こうが見えるということは、向こうからもこちらが見える。つまりここで不自然に長居すれば、彰君に怪しまれてしまう。なので、あえて話しかけまくることで『彰君と話すためにここにいますよ』というアピールをし、ここに長居することを誤魔化すのだ。
それに彰君が唐突にお風呂から出てきて私の変態行為を目撃されるのを防ぐ意味もある。さすがに彰君だって、私がいるのに裸のまま出てくることはないだろう。
……まあ、おばさん一歩手前の女が、男子高生が入っているお風呂の隣の脱衣所に入っている時点で割と通報案件なのだが、彰君がその辺りの事に疎いのが本当に助かる。
「もうすぐ夏休みだよね?」
「……そうだな」
彰君のワイシャツの襟首の部分に顔をうずめ、鼻で大きく呼吸する。
男の子の汗の匂いがたまらない。
「……何か予定ある?」
「とくにはないけど……」
この匂いを嗅ぐことに集中したいが、適度に会話を続けなくては怪しまれる。
「私ね、夏休みがちょっと取れそうなんだ」
「そう……」
社会人になると休みを取るのも一苦労だ。うちの営業所はそこそこ忙しいが、幸いというかなんというか、半ば放置的な措置をとられている私は休みを取るのもかなりスムーズに出来た。こういうところだけは左遷されたことに感謝しなければ。
「彰君も予定ないんだよね?」
「うん……」
息を大きく吸い込む。そして吐いた。
「どこかさ、遊びに行かない?」
「え?」
言えた。この言葉を。
現役男子高生とお遊びだなんて、まるでいけない事をしているかのようだ。いや、やましい気持ちがないかといわれればそんなことはないのだが……とにかく、今の私にはたくさんの癒しが必要なわけで、彰君に傷ついた私の心を癒してもらおう。
「お金はもちろん私が全額出すから」
「ああ、考えとく……」
バン!
彰君のどうとでも取れる反応を聞き、私は反射的にアクリルのドアを叩いていた。
「……約束だよ? 忘れちゃダメだからね?」
「わ、わかった……」
彰君を驚かせてしまって申し訳なく思うが、こちらもはぐらかされたくはない。なによりもさっきの彰君のあの返答はあのクソ部長を思い出させて非常に不愉快になったのだ。
あの男は私が何を言っても「考えとく」としか返答せず、いつか答えてくれるだろうと思って素直に待っていた結果が今のこの状況だ。許されるのであれば物理的制裁をあの男に加えてやりたい。無論この手で……
はっ、いけない! ……あの男に心を乱されるなんて、それこそ不愉快の極みだ。
私は乱れた心を静めるべく、彰君のワイシャツの匂いを思い切り嗅ぐ。
やはり男子高生の匂いは良い。さきほどまでの苛立ちが一瞬で鎮まり、代わりに身体の中が熱くなってきた。
ああ、やっぱりいつ嗅いでも、何度嗅いでも、飽きないどころか癖になる。なんで男の子はこんな良い匂いがするのだろう? やっぱり女と違って筋肉があるのが原因だろうか。彰君にお金を払って時々二の腕をもませてもらっているが、あの力強い弾力は癖になる。いずれあの両腕に抱かれる日がきっと来……
「……麗ちゃんさ」
「な、なに!? 彰君?」
匂いと妄想に夢中になるあまり、彰君本人がお風呂場にいることをすっかり忘れていた。
「さっきからそこで何してるんだ?」
そしてまさかのピンポイントの疑問である。それを言われないために頑張ってきたつもりだったのに……
「え? え? な、何って……な、なんのことかな?」
とりあえず、精一杯とぼけてみた。余計怪しまれるであろう返事なのは言ってる本人が一番わかってる。
「いや……歯磨きとかそういうことやってるのかなって」
「あ、ああ……そういうこと聞いてたのね、そうかそうか……」
おそらく彰君的にはすでに私がどんな事をしているかおおよそ理解しているのだろう。あえてこのような聞き方で角が立たないようにしているのだ。少なくとも彰君は私よりも世渡りが上手いと思う。
「べ、別に……大したことはしてないよ、ちょっとしたことを、ね……?」
「ちょっとしたこと? でもずっとそこにいるよな?」
「え? あ、うん……」
彰君は追及の手を緩めない。完全に私を追い詰める気でいる。仏の顔も三度までというが、普段は私のセクハラまがいの行為も笑って流してくれる彰君も、とうとう堪忍袋の緒が切れたということか。これはまずい。非常にまずい……
「麗ちゃん? どうした?」
「な、なんでもないよー……あ、そうだ! 私まだ夕飯食べていなかったんだ、食べに行かなくちゃ……」
ひとまず私はそそくさとこの場を退散した。彰君を怒らせてしまった以上、なんとか事を穏便に解決させる方法はないものか。今この場で彰君に見捨てられるのは非常に困る。とりあえずいつものバイト代を2倍くらいにすれば許してくれるだろうか……