ソフトボールの試合(花沢)
放課後、クラスのみんなが教室を出ていく中、あたしは一人の男子に狙いを定め、その行動を注視していた。
その男子の名前は玉城彰、同じクラスだけど最近になって仲良くなり始めた男子生徒だ。
あたしはここ数日、彼にあるお願いをするために、話しかけるタイミングを図っていた。
話しかける状況としては、なるべく玉城の周りに誰もいない方がいい。特に玉城と仲の良いおしゃべりの長谷川とかが近くにいる場合は避けたい。
そして今日チャンスが巡ってきた。
数日待ったかいがあった。ちょうど玉城のまわりに人がいなくなったのだ。チャンスは今しかない。
「ねえ……玉城君」
あたしは少し緊張しながら玉城に話しかける。
「どうした?」
「玉城君さ……今、部活とかやってないよね?」
「ああ」
玉城は帰ろうとして担いでいた鞄を机に置いた。
「それならさ……ソフト部とか興味ない?」
「ソフト部?」
玉城がいぶかしげな顔をする。ソフト部は女子部だ。そのことを思い出したのだろう。
「まあ、正確に言うとマネージャーなんだけど……」
「ああ、マネージャーか」
玉城にソフト部のマネージャーになってもらう……これがここ数日、タイミングを図ってまでしたかったあたしの『お願い』だ。
「悪いが、マネージャーなんて経験がないんだ」
「あ、やることは簡単なんだ、用具の片づけとか、スポドリ用意したりとか、そんなの」
断りの返事をすぐに切り返す。
いきなりソフト部のマネージャーになってくれ、といわれて快く了承してくれる男子なんていないだろう。そんなことは予想済みだ。一応、何を言われてもある程度返事ができるよう、シュミレーションしていた。
「ちょっと聞きたいんだが何で俺がマネージャーなんだ? そういうのはもっと気の利くやつとか……とにかく俺以外に適任がいるだろう」
「いやいや、玉城君が気が利かないとかありえないでしょ」
玉城が気遣いのできる男子だということはあたしが一番よく知っている。むしろ玉城以上に気遣いができる男子などこのクラスに存在しないと思う。
「それに玉城君、身体大きいから力もあるでしょ? 今マネージャーも女子ばっかりなんだけどさ、玉城君がいれば力仕事も安心して任せられると思うんだ」
「……そうか」
あたしは畳みかけた。玉城にはなんとしてもマネージャーになってほしい。玉城以上の適任はいない。なによりも、もし玉城がソフト部のマネージャーになってくれたら、あたしのモチベーションの上がり方は半端ないと思う。毎日全力で練習に励める。
しかし、あたしの思いとは裏腹に、玉城の顔は晴れない。
「……難しい感じ?」
「うーん……」
イエスでもノーでもない返事だが、これは断られるやつだ。
「本当に全然簡単だよ? それに他にも男子マネいるから肩身が狭くなることもないと思うし……」
「そうなのか……」
「それにさ、ソフト部の子たちはみんないい子ばっかりだから玉城君も歓迎されるって、間違いないよ!」
断られれば終わりだ。なんとか挽回する為に必死に言葉をつなぐ。
しかし、それでも玉城は難しい顔をしたままである。
どうにか出来ないか、ここでこの話が流れれば、多分、もう一生マネージャーには誘えない。あたしの理想の部活動環境は永遠に訪れなくなる。
「奈江、早く行くよ、練習試合近いんだからさ、あんたレギュラーでしょ?」
声の方を振り向くと、麻美が教室のドアの前に立っていた。
「わかってる、先いってて」
「……オッケー、あんたも早く行かないと監督に怒られるよ」
それもわかってる。元日本代表という経歴を持つうちの監督は、レギュラー陣……特にあたしにかなり厳しい。怒られない日はないと言っても過言ではない。何度部活を辞めたいと思ったことか。
「試合が近いのか?」
「うん、今度の土曜日」
つまり、三日後。相手はほぼ同格。これから始まる選抜大会に向けた調整も兼ねる重要な試合だ。この試合に向けて、うちの監督もかなり気合が入っている。
「花沢はレギュラーなのか?」
「うん、これでも一応、スタメンでピッチャーやってるよ」
あたしはこれでもエースと呼ばれている。周りもそれを意識してくれることがあるが、正直、自分がそんなにすごいことをしているとは思っていない。なんだったら今年入ってきた新入生の方が、あたしよりも有望なんじゃないか、とさえ思っている。
「花沢、マネージャーの件なんだが……」
「う、うん、どう?」
もう仕方ない、これで断られたら諦めよう。あまりしつこく勧誘して玉城に嫌われたら元も子もない。それにあたしも時間ないし。
「正直、俺はソフト部がどんな雰囲気でやってるかとかよくわからない」
「あ、じゃあ見に来て! いつでも大歓迎だから」
玉城の返事は断るためのものではなかった。むしろ前向きなものだ。
あたしは玉城の腕を掴む。このまま部活に連れて行って、練習風景を見せよう。監督の怒声で引かれるかもしれないが、あの人はマネージャーに対しては怒らないから、その辺りはちゃんと説得できるはずだ。
「待て、土曜日に試合あるんだろ?」
「うん」
「それならその試合を見に行く」
「あ、わかった、うちの学校でやるからいつでも見に来て」
「それで、花沢はピッチャーやるんだよな?」
「うん」
「もしその試合でノーノーを達成できたら、ソフト部のマネージャーになるってのはどうだ?」
ノーノー……無安打無得点試合のことだ。達成できればエースピッチャーの証明でもある。ただ、その難易度はとても高い。あたしも公式非公式問わず何十試合も投げているが、一度として達成できたことはない。
「ノーノー……」
「難しそうか?」
「……わかった、やる」
あたしに選択肢などない。元々断られかけたところに生まれたワンチャンス。何としても掴まなければならないものだ。
「見てて、必ずノーノーを達成して見せるから!」
あたしは玉城の腕を強く握った。
あたしは部活に来ると、ユニフォームに着替え、ウォーミングアップをしっかりこなす。
それから、キャッチボール、グラブトス、全体守備練習を順当に終え、野手は打撃練習、投手……つまりあたしは投球練習をすることになった。
「栞、ピッチングやるよ」
「了解だ」
あたしは正捕手の栞に声をかけた。
一年生の頃からバッテリーを組み、今ではお互いにレギュラーだ。気心も知れており、親友といっても差し支えない間柄である。
まずは肩を作る。いきなり全力投球なんてやると肩が壊れてしまう。
軽く2、3球投げると、栞がキャッチャーマスクをとった。
「奈江、どうした?」
「どうしたって?」
「今日はいつになく気合が入っているな、慣らしでここまで球が走るなんて珍しいぞ」
「そんなに気合入ってた?」
「ああ、何万回と君の球を受けてきたが、この球威は、君が男子に振られた憂さ晴らしにキャッチボールをした時以来だ」
あたしは全力でボールを投げた。
栞は難なくそれをキャッチする。
「しかし、あの時と違って君の顔は明るいな、とすると……前回とは逆の事でも起きたか」
冷静に分析を続ける栞にもう一度球を投げたが、これまた造作もなくキャッチされた。
さすがあたしの女房役。あたしのボールの軌道など手に取るようにわかるのだろう。
「で、実際どうなんだ? まさか本当に彼氏が出来たのか?」
「……あたしにできるわけないでしょ」
「やはりな」
栞の分析はよく当たるがゆえに腹立たしい。本人はいたって冷静な顔をしているのだから余計に。
「そろそろネタばらしをしてくれ、なんでそんなご機嫌なんだ?」
「……絶対に言わない」
言えばいじり倒されることは間違いない。栞はそういう女だ。
だが、これだけは言わなければならないだろう。
「栞」
「うん?」
「あたし、次の試合でノーノーするから」
「……ほう」
「リードよろしくね」
「……任せろ」
栞はにやりと笑う。さすがあたしのパートナー、このあたりは阿吽の呼吸だ。
「それで、なんでそんなにご機嫌なんだ?」
あたしは栞の質問に剛速球で返答した。
70球の投げ込みを終えた頃、あたりはすっかり暗くなっていた。
「奈江先輩! 栞先輩! 監督がミーティングをするそうっすよ!」
あたし達のもとに伝令が来た。
一年で準レギュラーの美波である。小柄で顔も可愛い。あたしや栞と違って男にモテそうなタイプなのだが、ソフト一筋らしく、浮いた噂は聞かない。
「わかった、すぐ行くから」
「うっす! タオルどうぞ!」
あたしは美波から受け取ったタオルで汗を拭った。ミーティングは基本的に練習の終わりに行われる。さっき部活に来たと思ったらもう終わりのようだ。集中していると時間はすぐに経ってしまう。
「先輩、今日気合入ってたっすね!」
「彼女は今度の練習試合でノーノーをするらしいぞ」
「マジすか!? 先輩なら出来ちゃうんじゃないっすかね!」
美波はこの口調で本当に損していると思う。本人は、体育会系というものに昔から憧れていたらしく、あえてこんな口調にしているらしいが、もっと大人しく、ぶりっ子っぽく振る舞えばとても似合うと思うのだが。
「でも急にどうしたんすか? 先輩にしては珍しく強気っていうか」
「そんなの男が絡んでいるに決まっているだろう」
「マジすか!? 彼氏っすか?」
栞が勝手な事を言って、美波がそれを膨らませる。こいつらが調子に乗ると手におえない。
あたしはそんな二人を無視して、ミーティングの集合場所である朝礼台の前に向かう。
「彼氏ではないだろうが……私の見立てだと、惚れた男が見に来るからいいところを見せたい、とかそんなのだろう」
「おお……ということは、次の試合は奈江先輩の恋愛がかかってる試合なんすね!」
「そういうことだ、君もいつでも出れるようにしっかり準備しておけ」
「了解っす!」
あたしの後ろを歩く二人は、あたしが何も言わないのをいい事に、好き勝手言っている。
まあ、栞の意見はおおむね間違っていない。あたしが玉城の事をどう思っているかというと、嫌いではないと思っているし、向こうが良ければ付き合ったっていいと思っている。
いや、偉そうな事を言った。付き合えるのなら付き合いたい。
以前、偶然にも玉城の裸を見てしまってからというもの、あたしが玉城を意識しなかった日はない。検索するエロ動画の趣向も変わった。以前は盗撮系だったが、最近ではもっぱらエロビッチ系になった。
玉城はあたしの新しい性癖を目覚めさせた張本人なのだ。
付き合いたいし、やりたい。
好きな人は性欲の対象とならない、と栞は言っていたが、あたしはガンガン性欲の対象にしている。
まあ、向こうはあたしの事をクラスメイト以上に思っていないだろうから、付き合うなんて夢のまた夢だろう。
だが、いいのだ。付き合えなくてもいい。その代り、マネージャーにさえなってくれれば。
朝礼台の前に集合し、監督から今日の練習の総括と土曜日の試合に向けての叱咤があった。大体予想していた内容なので、あたしはほぼ聞き流している。無論、顔は神妙にしたままだが。
ミーティングが終わり、解散となった。
「奈江先輩の好きな人ってどんなタイプなんすかね」
「恐らく、ガタイの良い抱き心地の良いタイプだろう、奈江は性欲と愛欲が直結しているからな」
部室に帰る途中、栞と美波はいまだにあたしの話をしている。というか栞、こういうところであたしの性癖を後輩にばらすな。
「……先輩、先輩、ラッキースポット空いてるっす」
美波が急に声を潜ませて神妙な表情になった。
あたしと栞が足を止める。
グランドから部室に帰る道すがら、校舎の端にある家庭科室の前は必ず通りかかる。その家庭科室の一番端の窓を、女子ソフト部員たちはラッキースポットと呼んでいる。
「しかも電気ついてますよ、これワンチャンないっすか?」
「まったく、君の性欲も大概だな、もう男子マネの着替えは終わってるさ」
「いや、あくまでワンチャンっすよ!」
美波は家庭科室の端の窓……ラッキースポットに顔を近づけた。この端の窓はカーテンがきちんと閉まりきらないのだ。
家庭科室は部活中、おにぎりを振る舞うために開放され、部活の始めと終わりには男子マネの更衣室として利用される。
つまり、この「ラッキースポット」を覗きこめば男子の着替えが見える可能性がある。
まあ、男子もそのことは承知らしく、覗きこむことで男子の着替えが見られる可能性は0に近いが、それでも今のように部活の帰りで家庭科室の電気がついていれば、一縷の望みをかけてラッキースポットを覗きこむ女子部員は後を絶たない。
「見えたかい?」
「うぁー……見えないっす……」
「ふっ」
美波が落胆した声を上げ、栞は当然だろうとばかりに肩をすくめた。
「そこまで隙だらけな男子がいるわけないだろう、常識で考えろ」
「……うーす」
いるんだな、これが。
栞の達観した意見に、あたしは心の中でドヤ顔を作っていた。
そう、これこそがあたしが玉城をマネージャーに誘った最大の理由。普通の男子ならこのカーテンがきちんと閉まりきらないことに気付いて警戒するが、天然童貞ビッチの玉城ならおそらく無警戒に着替えるはずだ。
玉城さえいれば、厳しいばかりのソフト部に、少しでもやりがいを見出すことが出来る可能性がある。
まあ、他の女子部員に玉城の裸が見られてしまう可能性もあるが、それはそれで仕方ない。むしろ自分の好きな男の裸体を他の女子に見られる、というシチュエーションに軽く興奮を覚えている。
また、自分の新しい性癖を自覚してしまった。
「先輩、帰りに『ぽんた』寄りません?」
「いいな、奈江は?」
「いいよ」
土曜日のためにもキチンと体力をつけなくては。ニンニク野菜たっぷり大盛り豚骨ラーメンでしっかり精をつけよう。
土曜日になった。
朝9時、相手の高校を出迎え、そのまま軽く全体守備練習を行う。
守備練習を終えてグランドを見渡すが、まだ玉城はいない。もしかしたら途中でくるのかも……いや、それだとあたしがノーノー達成したかどうかわからないじゃないか。
……待て、もしかしてすっぽかされた可能性はないか?
もしそうだとしたら最悪だ。玉城にからかわれ、あたしは一人で無駄に気合を入れて空回りしていたことになる。
いや、玉城はそんなことするような男子じゃない。それはよく知ってる。
でも玉城はまだいないし、そろそろ試合も始まってしまう。
もしかして、来る途中で事故ってしまったとか?
いやいや考え過ぎだ、そんなことあるわけ……
「奈江、何してるんだ? 早くベンチに行くぞ」
「あ、うん……」
いつまでもマウンドに立っているわけにもいかず、私はベンチに戻った。
一回表、うちらの高校の攻撃だ。
まあ、攻撃といっても、あたしが打席に立つことはないのだけれど。
今日のうちの高校は打撃の調子が良い。得点にはつながらなかったが、初回二安打で攻撃を終えた。
「あれが君のお目当ての男子か?」
「え?」
表が終わり、守備につくために、栞のプロテクターをつけるのを手伝っていると、栞が顎でグランドを指す。
そちらを見ると、いつの間にか制服姿の玉城が座って試合を観戦していた。
「……」
「ふふ、いいところを見せられるといいな」
「何言ってんの?」
プロテクターをつけ終えると、あたしは栞の背中を叩いた。
「今日はノーノーするって言ったじゃん」
「ふっ、そうだったな」
あたしは大股で歩きながら、マウンドに向かった。
三回を終え、ベンチに戻る。
その途端、すぐに美波が話しかけてきた。
「先輩、ヤバいッす」
「何が?」
「三振で打者一巡したっす! マジでノーノーっすよ!」
美波は興奮気味にまくしたてた。
ベンチの他のメンバーも期待のこもった目でこちらを見ている。
正直、あたし自身もこの出来の良さに驚いている。試合前から気合をいれていたが、まさかここまで調子よくイケるとは。
「これが恋する乙女の力なんすね!」
「いや、むしろ処女パワーというやつかもしれないな」
「おお……恐るべし、処女パワーっす!」
くそ、栞め、あたしが処女ということをばらすな。あんたも処女でしょうが……!
まあとにかく、この調子でいけばノーノー達成も決して夢ではない。あたしはタオルで汗をぬぐい、ゆうゆうとベンチに座った。
六回が終わる。今回も三者凡退で終わらせた。
「先輩、お疲れ様っす!」
ベンチに戻ると、美波がタオルを持って待ち構えていた。
「……ん、ありがとう」
タオルを受け取って汗を拭く。正直、体力的にはそこまで疲れていない。
だが、精神的には疲弊している。
あたしはスコアボードを見た。お互いの高校に0が並んでいる。
「すまないな」
栞があたしの肩に手を置いて謝った。どうやら不安が顔に出ていたらしい。
あたしは今のところ、走者を一人も出していない。ノーノーどころか完全試合の可能性すらある。しかし、打撃の方が振るわない。実際ヒットは出いているし、出塁はしているのだが、上手くかみ合わずにいつもギリギリでしのがれてしまう。
もしこのまま延長戦に入ってタイブレークが発生すれば、完全試合という記録は無くなってしまうはずだ。
そのことで、野手陣はあたし以上にプレッシャーを感じているらしい。みんな一様に焦った顔をしている。
正直、私自身完全試合に興味はない。ノーノーさえ達成すればいいのだ。なので、延長に入ってもそれ自体は問題ない。
しかし、そもそもノーノーもこちらが勝たないと達成できないのだ。今でこそ元気に投げれているが、延長に入ってもこの調子で連投を続けられるかはわからない。
早く援護点が欲しい。出来れば延長に入る前に終わらせたい。
「ストラーイク! バッターアウト!」
そう思っている矢先、7回の先頭打者が三振した。
これは覚悟を決めなければいけないかもしれない。
結局、七回の表にうちの高校は得点できなかった。
これで延長戦決定だ。
七回の裏、あたしはマウンドに立つと、ちらりと玉城の方を見た。
彼は食い入るようにこちらを見つめている。声援こそしていないが、あたしのことを応援してくれていると直感できた。
なんとか踏ん張らなければ。玉城の期待に応えるために、そして何よりもあたしの今後の部活動生活の為に。
しかし、野球というのは9人で行うもの。
あたしが頑張ってもそれ以外のメンバーがしくじればどうしようもない。
一番バッターを三振で打ち取り、迎えた2番バッターもショートゴロで終わらせた……はずだった。
ショートの送球をファーストが捕り損ねたのだ。
結果として、ランナーを一塁に置くことになった。
相手高校の初のランナーだ。だが、大丈夫、これはエラーによる走者だ。あたしのノーノーの記録はまだ続いている。
そう、まだ大丈夫、あたしのボールが打たれたわけじゃない。
続く三番バッターも同じように投球する。
三番バッターは初球打ちをしたが、明らかにミート音が軽い。
外野フライだ。何の問題もなく二個目のアウトが手に入……らなかった。
フライの行く末を見守った矢先、センターとライトが『お見合い』をやらかした。
しかもボールがミットに触れていないからエラーという扱いにはならない。ヒットになってしまった。
こんなことはありえない。
ここまで頑張ったのに、七回が始まってわずか数分でノーノーが消えた。
なんだこれは? なぜあたしは必死になっていたんだ?
自分のやっていたことの無意味さを実感した途端、精神的な疲労に加え、肉体的な疲労がズシンと両肩にかかったように感じた。これがあたし自身の犯したミスならまだ受け止められる。いや、打たれたのはあたしの責任であることには間違いない。しかし、あのフライくらいは捕れるはずだ……
不思議とあまり怒りは湧いてこない。しかし、怒りの代わりに凄まじい脱力感があたしを襲った。
見れば、バッターボックスにはすでに次の四番打者が立っている。
あたしは振りかぶると、ただ作業のようにボールを投げた。
試合が終わり、あたし達は今、青筋を立てた監督の前に立っている。
「花沢」
「はい」
「お前、最後のあの投球はなんだ?」
「……すみません」
「すみません、じゃないだろう……なんだって聞いてるんだ」
「……」
「完全試合もノーノーも出来なくなって気を抜いたか?」
「……」
「ふざけんなよ、この試合はお前の自己満足の為のものか?」
「……」
「そんなのでやる気なくなるんなら、始めからマウンドに立つな! 辞めちまえ!」
正直、今のあたしは辞めてもいいと思っている。
ノーノー失敗どころか、情けないところを玉城に見せた。そして真っ先にあたしが怒られる理不尽なこの状況。本当に月曜日から辞めてやろうか。
監督のあたしへのお説教は五分ほど続いたが、当然のようにあたしはほとんどを聞き流した。だって辞めてもいいと思ってるし。
「……まあ最後のあれ以外、お前はよく頑張った、今日と明日はゆっくり休め」
「はい」
監督は説教の最後に必ず優しい言葉を投げる。逆にいえば、これが出れば説教の終わりの合図だ。
さてどうしよう、今日はとりあえず、『ぽんた』でやけ食いかな……あたしがそう思った矢先、
「……で、今回、試合に負けた責任は全部花沢のせいか?」
野手陣に対しての説教が始まった。
野手陣への説教は、あたしの時よりも三倍は長く、五倍は厳しいものだった。
説教も終わり、片づけも終え、部室で着替えてから帰路につく。
部員の間には重苦しい空気が流れており、いつもは大人気のラッキースポットも、今日ばかりは誰も覗こうとしていない。
「……今日は悪かったな」
「うん? ああ、いいよ別に」
校門までの帰り道、栞があたしの右隣の歩きながら謝ってきた。
「お見合いをやらかしてから、すぐにタイムを取るべきだった、今回の事は私の判断ミスでもある」
「だからもう別にいいって」
反省会やら謝罪やらはもう十分やった。あの後、野手の部員たちが先輩も含めて謝ってきたが、正直鬱陶しいだけだった。
だって、もう辞めてもいいと思っているもの。
「先輩、今日の先輩は凄かったっす! 自分、感動したっす!」
「そう」
左隣にいる美波があたしをヨイショするが、今はそんなのでも気分が乗らない。
「……そうだ、今日はこれからお昼を食べに行こう、私が奢るよ」
「いいっすね! 自分もおともいいっすか?」
「君の分は自分で払えよ?」
「わかってるっす、花沢先輩、自分、実は美味しそうなハンバーガー屋見つけちゃったんすよ! 行きませんか?」
「え? うん……」
「……」
「……」
あたしの反応が暖簾に腕押しなので、とうとう栞も美波も黙ってしまった。
まあ、今はあまり周りにとやかく言われたくない。ゆっくり考え事をしたいのだ。
これからどうしようか。
とても上を向いて歩く気分ではないあたしは、コンクリートを見つめながら考える。あたしは今まで一度も部活をサボったことがない。試しに月曜日にサボってみようか……多分そのまま部活に行かなくなるパターンな気がするけど。
「花沢!」
「……え?」
そこまで考えて、声が聞こえた。
聞き覚えのある男子の声。急いであたりを見渡す。
声の人物はすぐに見つかった。というか目の前にいた。下ばかり見ていたから気付かなかったのだ。
「た、玉城君、なんで……?」
「……今日は残念だったな」
「う、うん……ごめん、不甲斐ない試合見せて……」
ノーノー宣言をしてしまった手前、玉城とは顔が合わせづらかった。試合が終わってからも、あたしは玉城の方を見ずにさっさとベンチに戻ったのだ。
「俺は全然不甲斐ないとは思わなかった、むしろ見ごたえがあった」
「あ、ありがとう……ていうか、帰んなかったの?」
「ああ、花沢を待ってた」
「ええ……!?」
試合が終わってから2時間くらいは経っている。まさかずっと校門であたしの事を待っていたのか。
なんで? あたしはノーノーできなかったのに……
「それで花沢、もうご飯とか食べたか?」
「え、あ、まだだけど……」
「そうか、それならもしよかったら……」
これはまさかお昼のお誘い?
玉城があたしを?
自分の顔にかっと血が昇って行くのがわかった。
「……もしかして、ソフト部で飯を食う予定とかあったか?」
「あ、えっと……」
そういえばこの後ハンバーガー屋に行くとかいう話になっていた気がする。
どうする? 断るか? どっちを? いやだってこれは……
「いえ、ないっす」
「どこへなりとも連れていってやってくれ」
あたしが答える前に、あたしの脇にいた二人があたしを差し出すように押し出した。
「ちょ、ちょっとあんたら……」
「それじゃあ先輩、また月曜日に」
「詳しい話は部活の時に聞くよ」
栞と美波は訳知り顔でニンマリと笑いながら、先に行ってしまう。
「それで花沢、もしよかったら飯でも食いに行かないか?」
「え、あ……ていうか、い、いいの?」
「いいのって何がだ?」
「だ、だってあたしと一緒にご飯って……その、いいの?」
こんな汗臭いゴリラと一緒にご飯を食べたがる男子高校生が実在するとはとても思えない。
「花沢が嫌じゃなかったら、俺は花沢と一緒にご飯に行きたいが」
「い、嫌じゃない! 全然嫌じゃないから」
嫌なわけがない。
玉城はすごくいい人なのだ。女子を見た目で差別しない。
「あ、そうだ、もちろん俺のおごりだから花沢の好きなものを食べに行こう」
「お、おごり? 悪いってそんな……」
「今日の試合で頑張った花沢に、俺からの賞賛の気持ちだ、受け取ってくれ」
「あ、ありがとう……」
ヤバい、今泣きそうだ。
なぜだか玉城のねぎらいの言葉の方が、うちの部員の謝罪や励ましよりもはるかにあたしの心に効いた。
先ほどまでの陰鬱とした気持ちが吹き飛び、心に余裕が出てきたのを自覚できる。
「……でもなんか変な感じ、男子が女子におごるって」
「……男子が女子におごるって変なことなのか?」
「うん、あたしはやったことないけど、例えば合コンとかって普通女子が男子におごるものなんでしょ?」
玉城は合コンくらいしているかもしれない。遊び人の長谷川の友達みたいだし。
「まあ、それはそれだ、とにかく今日は俺におごらせてくれ、実は俺バイトしててな、花沢を部活忙しそうだし、自由にできる金はあんまり持ってないだろう?」
「うん、おこづかいぐらいしかないけど……」
玉城がバイトしているなんて知らなかった。もしかして、マネージャーになるのに難色を示していたのはバイトとの兼ね合いがあったのかな?
もしそうなら悪い事をしてしまった。
まあ、あたしがノーノーできなかったせいで、結局マネージャーの件はお流れになったわけだけども。
「じゃあ決まりだ、何が食べたい?」
「ちょ、ちょっと待って、この辺にレストランないか探すから……」
さすがにいつも食べに行くようなお店に玉城を連れていくわけにはいかない。チェーン店とかでもいいからちゃんとしたレストランに行った方がいいだろう。
「花沢は普段部活終わってからどこかに食べに行ったりとかしないのか?」
「駅前のラーメン屋に行くけど……『ぽんた』ってとこ」
学生にも優しい値段でたくさん食べられるからコスパ最強と呼ばれるラーメン屋だ。濃い味付けと背脂たっぷりのラーメンは飽きる味だが、部活が終わって腹が減っていればそれでもぺろりと食べてしまう。
「そこでいいんじゃないか?」
「でもあそこすごい脂っぽいし、ニンニク臭いよ? 量も多いし……玉城君大丈夫?」
あそこは体臭とか一切気にする必要がない女子……すなわち、男子と無縁の女子が良く行く場所だ。
店の中に入るだけで臭いが移る、とさえ言われており、男子は結構敬遠していると聞く。
「『ぽんた』だったら大盛りくらいなら完食したことあるぞ」
「マジ? すご……」
玉城の衝撃の告白に思わず玉城の身体を注視してしまった。
確かに玉城の身体は大きい。色々な部分が太い。でもボンレスハムのように全身がまるまる太っているわけじゃない。引き締まるところは引き締まっている。
このナイスボディを作り上げるのには『ぽんた』のラーメンのエネルギーくらいが必要なのかもしれない。
「それじゃあ行くか」
「う、うん」
あたしは玉城と一緒に『ぽんた』に向かった。
この時にはもう、部活を辞めるとか、そんな下らない事は思考の片隅にも残っていなかった。