文化祭編 トラブル(ヒロミ)
「物珍しさから、最初の頃は忙しくなるだろうけど、段々人も減ってくるに違いない」……文化祭が始まる前はその程度の認識だったけど、しかしふたを開けてみれば、全然違った。執事喫茶は忙しくなる一方だった。
多分、玉ちゃんのせいだ。
玉ちゃんは前に僕と行った執事喫茶で、何とアルバイトを始めてしまったのだ。そのおかげで、身のこなしがまるで本物の執事喫茶の執事のようになってしまい、本物の執事喫茶を体験出来るとうちの学校のネット上のコミュニティで話題沸騰。
さらに人づてに話も伝わっていき、念のために手書きで作っていた整理券はそれだけでは足りず、さらに増刷を重ねてフル稼働状態、教室内は常に満席、外でも四、五組の行列が出来ている状態なのだ。
「えっと……いらっしゃい、じゃなかったお帰りなさいませ、お嬢様」
僕はぎこちなく笑いながら、お決まりのセリフで入ってきた女子生徒を出迎えた。
文化祭が始まる前に、玉ちゃんを講師として簡単な執事喫茶の研修会を行った。女性は「お嬢様」、男性は「旦那様」、出迎える時は「お帰りなさいませ」、帰る時は「いってらっしゃいませ」……研修はしたけど、接客なんて初めてだし、まだ全然慣れていない。
「こちらへどうぞ」
教室に入ってきた女子生徒を席まで案内する。
玉ちゃんの方を見ると、女の子とツーショットを撮っているところだった。
なんだかこうしてみると、普段の玉ちゃんと全然違う。普段の玉ちゃんは女子と話しているイメージすらあまりないのに。
よく「車のハンドルを握ると性格が変わる」みたいな話は聞くけど、もしかして玉ちゃんは執事服を着ると性格が変わってしまう人なのかもしれない。スイッチが入る、的な感じで。
「……なあ、ヒロミ……」
「なに?」
ハセと入れ替わりで戻ってきた男子が、ヒソヒソ声で僕に話しかけてきた。
「……なんか無茶苦茶人気じゃないか、うちのクラス……」
「うん、すごい人気だよ、玉ちゃんのおかげで」
玉ちゃんの方を見る。
先ほどとは違う席で、別の女の子と談笑していた。あれは多分、『特別サービス』の一つである「人生相談」だろう。まあ、人生相談、とはいっているけど、実際はただおしゃべりするだけなんだけども。
「……玉城ってあんなキャラだったか?」
「僕もちょっと驚いてる」
「まあいいや、なんか特別サービス? とかいうのを頼まれたら、あいつに振ればいいんだよな?」
「えーと……」
多分、僕たちもやるべきなんだろうけど、ちょっと玉ちゃんのようにはできそうにない。
「……うん、そうだね」
申し訳ないけど、素直に玉ちゃんにお願いしよう。
……ただ、玉ちゃんの休憩時間になったらどうしようかな、とは思う。玉ちゃんがいなくなったら客の入りも沈静化しそうだけど。
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
玉ちゃんがお客さんの女子生徒を見送る。さっきの人生相談をしていた女の子だ。
そして入れ替わりで入ってくる女子。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
その女子にも『執事として』丁寧に対応する玉ちゃん。
本当にひっきりなしだ。
しかも、いま入ってきた女子たちは制服ではなく私服を着ている。おそらくは他校の生徒だろう。
時刻は十時過ぎ。すでに一般開放しているので、うちの学校以外の女子やこの学校の生徒の家族なども着々と来ているようだ。
……あれ? というか、あの女子……
「へえ、執事喫茶って「お嬢様」ってマジで言うんだ~」
入ってきた女子は今までの女子のタイプと少し違う。肌も焼いてメイクもばっちり、声も底抜けに明るい。つまりは……
「これは……お久しぶりです」
「おっつー、玉ちゃん、その格好超似合ってるよ~」
「美姫お嬢様のお召し物も素敵ですよ」
間違いない。ハセの恋人のミキティーだ。夏休みの宿題合宿以来である。
「え~、ありがと~」
玉ちゃんの「執事風褒め言葉」にもミキティーは鼻にかかる声で返事をしながら軽く流した。
玉ちゃんのガチ執事接客をされても物怖じしない、さすがミキティーと言わざるを得ない。
「ねえねえ、晴君いないの?」
「長谷川はたった今さっき休憩に入りました」
「マジで? 入れ違い?」
「そうですね、ここに戻ってくるのは二時間後です」
「うわー、内緒で来て驚かせようとしたのに~」
「それは残念でしたね」
「いいも~ん、玉ちゃんで遊ぶから~」
ミキティーがイヤらしく笑いながら上目使いで玉ちゃんを見ている。
ミキティーは宿題合宿の時ような、からう時の目をしているけど……
「お手柔らかにお願いします、美姫お嬢様」
……玉ちゃんはそれに対して特に感情を乱された様子もなく、スルーした。
本当に執事モードの玉ちゃんはいつもと一味違う。なんか「女の扱いに慣れている」感じになってる。
「……うーん、なんか夏休みの時の玉ちゃんと違ってやりにくいな~」
「このような私は嫌いですか?」
うわ、すごいセリフをぶっこんだ。
……ちょっと言われてみたい。
「う~ん…………嫌いじゃない、かも」
ミキティーが身もだえしながら答えた。
完全にやり返されている。こんなしおらしくなるミキティー初めて見た。
「お嬢様、席にご案内してもよろしいですか?」
「あ、うん、お願いしま~す」
玉ちゃんが案内しようとすると、他のテーブルから、「すみません、『特別サービス』お願いします」という声が上がった。
「……ヒロミ、美姫お嬢様を頼む」
「あ、わかった」
『特別サービス』は基本的に玉ちゃんがこなす、というわけで、ここでバトンタッチだ。
「あ、ヒロミちゃんもマジで執事になったんだ、晴君から聞いてたけど」
「うん、そうだよ」
「こう見るとガチで男の子みたいじゃん、もしかしてチンチンついてる?」
「ついてないよ!」
「本当に~?」
ミキティーが僕の股間をペタペタと触る。
相変わらず下ネタが好きなようだ。玉ちゃんにやられてしおらしくなったと思ったらこれだもの。
「止めてよ、セクハラですよ、お嬢様」
「女の子同士なんだからいいじゃん~」
ダメだ、玉ちゃんと違って、僕が執事服を着ても執事モードになれるわけないし、ミキティーとまともにやりあえるわけがない。
「もういいからこっち来て」
「はいはーい」
ミキティー達を席に案内する。
「飲み物は何にしますか?」
「うーん……普通に紅茶かな」
「かしこまりました、紅茶をお一つ」
「……あとさ、あれ何やってんの?」
ミキティーが指を差す先には、玉ちゃんが女の子と腕相撲をしていた。
あれは『特別サービス』のうちの一つの『腕相撲』だ。特別サービスの中でも玉ちゃんの大きな手と触れ合えるサービスで、地味に人気がある。あと、腕相撲で勝つと勝った執事と30分デートできる権利を貰える。
まあ、玉ちゃんに勝てる女の子なんていないだろうし、あくまで見せかけの権利だ。
「メニューの裏面を見て」
「え? ……へー、本当の執事喫茶っぽいことやってるじゃん」
「執事喫茶に行ったことあるの?」
「ないけど、なんかそれっぽいじゃん?」
この『特別サービス』は玉ちゃんがアルバイトをしている執事喫茶の『お嬢様サービス』を元にして玉ちゃんが考案したものだ。それっぽくなっているのは当たり前だったりする。
「私も頼んでみようかな~、これさ、全部頼めるの?」
「お一人につき一つまでだよ」
「マジ~? え~、この人生相談ってのも気になる~」
「それただおしゃべりするだけだよ、何か悩みがあるのならそれを相談してもいいけど」
「うーん、そっかー……まあそれなら写真撮影でいっか」
「写真撮影ね」
「うん、玉ちゃんのツーショットの写真撮って、晴君に送ってあげるの」
またそういうことするんだから。
ハセはミキティーが玉ちゃんにちょっかいを出すことを露骨に警戒している。ミキティーは玉ちゃんに対して気安く接しているから、ハセとしては気が気ではないのだろう。
「じゃあ、飲み物持ってくるから、その後に特別サービスね」
「オッケー」
教室は三分の二がホールスペースで、三分の一が控室兼調理室(紙コップにジュースを注ぐだけ)となっており、一応、天井から緞帳を垂らしてその二つを区切っている。
僕は緞帳を開けて中に入った。
「紅茶一つ、お願い」
「はい了解」
中にいるキッチンスタッフのクラス委員長がいじっていたスマホを置き、クーラーボックスから紅茶を取り出して紙コップに注いだ。それをお盆に乗せて僕に渡す。
「ヒロミ」
腕相撲の特別サービスを終えたのだろう、玉ちゃんが控室に入ってきた。
「あ、玉ちゃん、ミキティーが特別サービスの写真撮影をしてほしいんだって」
「わかった……ただ、ちょっとトイレに行かせてくれないか」
「うんわかった、ミキティーに言っとくね」
「ああ、頼むぞ」
玉ちゃんはそのまま控室から出て行った。
「……なんかお客さんたくさん来てるよね、あれマジで玉ちゃん君の効果なの?」
玉ちゃんが出て行ったのを確認して、クラス委員長が呟くように言った。
「うん、冗談抜きでそうだよ、みんな玉ちゃん目当てだから」
「そっか……これ売上金は打ち上げに使っちゃおうって話しだったけど、いくらか玉ちゃん君に渡した方が良いかな?」
「……そうした方が良い気がする」
正直、この執事喫茶、『玉ちゃん』と『それ以外のクラスメイト』の労働量が全く違う。文化祭は始まったばかりだが、うちのクラスの出し物がここまで盛況なのは、ほぼ百パーセント執事として大活躍している玉ちゃんのおかげだといっても過言ではない。
「まあいいや、そのことはあとでみんなにメールで伝えておくから」
「うん、そうして」
さすがにここまで玉ちゃんを働かせておいて、特別な報酬が何もなしっていうのは可哀想だ。何かしてあげないといけないと思う。
僕は紅茶を持って控室を出た。
「はい、紅茶です」
「え、紙コップ?」
「なに?」
「執事喫茶っていうんだからティーカップで出せばいいじゃん」
「そんなお金ないよ」
学生だけ作った出し物なんだから、お金なんてかけられない。
執事服はハセのアルバイト先の店長さんが厚意で無料で貸してくれたものだし、紙コップとかテーブルクロスとか装飾品とかは100均だ。ちなみに提供している飲み物は全て近所のスーパーの特売品。その飲み物を入れているクーラーボックスは家庭で持っている人達で持ち寄ったものである。
「ていうか、特別サービスお願いしたいんだけど、玉ちゃんどこ?」
「トイレに行っているよ」
「マジ? おしっこ?」
「……そうなんじゃない?」
「そうか、玉ちゃんおしっこか~」
今さらだけど、ミキティーはもうちょっと品良くした方が良いと思う。時々女子の僕でも引くレベルの下ネタとか言うし。ここの教室にはほとんど女子しかいないからまだいいけども。
僕とミキティー達が話しをしていると、勢いよく教室のドアが開く音がした。
「お、ガチで執事いるじゃん、待ったかいあったわ」
「はは、マジだ」
「あれ? あれは? お帰りなさいませってやつとかねえの?」
この空間では聞き慣れない男性の声。
そちらを振り返ると、私服の男子が四人入ってきた。
「リョウちん、あれやってもらえよ、何だっけ、ほら執事にやってもらうヤツ」
「なんだよ、わかんねえよ」
「メニュー表これか?」
こちらが案内する間もなく、四人組は空いている席にドカリとすわり、大きな声で話は始めた。
男子といえど、その態度と見た目からして、普段ならあまり絡みたくない雰囲気の四人組だ。この執事喫茶という場には明らかに馴染まない。他のお客さんも、空気が変わったことを感じで顔を曇らせている。
「お、見ろよ、リョウちん、なんか『特別サービス』とかいうのがあるぜ、これ頼めばいいんじゃね?」
「なんだこれ、腕相撲で勝ったらデート出来るってよ」
「じゃあやってもらうしかなくね?」
「やるかあ?」
「いや、やんねえだろ、こんなの」
大きな声で笑う男子たち。
なんだか執事喫茶をバカにしている感じがする。
本人達は冷やかし半分で、大して悪気もなく言っているのかもしれないが、その『特別サービス』を目当てにここにきている女子たちもいるのだ。ちょっと発言を考えてほしいと思う
ミキティーの方を見ると、少し眉をひそめて、つまんなそうな顔をしながら男子の方を見ていた。
周りを見る。他のお客さんは引いているし、うちのクラスメイトも遠巻きに見ているだけだった。
どうしよう、ああいうのって注意した方が良いのだろうか?
「おい、そこの執事さーん」
「……」
四人のうちの一人が僕の方を見ながら、声をかけてきた。
……呼ばれてるんだよね、僕。
「なんでしょうか……旦那様」
嫌な絡みかたをされるのは容易に想像できたけど、行かなければいけない。
「旦那様? お嬢様じゃねえんだ?」
「……男の場合は旦那様です」
「旦那様だってよ」「旦那様とか初めて呼ばれたわ」って男子たちが笑いながら言う。なんだか「面白いから笑う」とかじゃなくて「馬鹿にしているから笑っている」ように感じだ。
冷やかし「半分」かと思ったけど……これは「十割」冷やかしかもしれない。
「あれ? お前、女か?」
「え? あ、マジだ、女じゃん、こいつ」
「なんで女がズボン履いてんだよ、キモくね?」
「それ言い過ぎだろ、キモいけど」
「結局キモいんじゃねえか」
男の格好をからかわれるのは慣れているし、別にいつもならスルー出来る事なんだけど、今回はちょっと心にきた。
「なんかこの特別サービスってやつやってもらおうぜ」
「なんかやりたいやつあんの?」
「写真撮影とかあるじゃん、リョウちん、やってみれば?」
「罰ゲームかよ」
男子たちがドッと笑う。
他のお客の女子たちは、この男子たちが騒ぐせいで、すっかり萎縮してしまっている。もう早く帰ってくれないかな、と思いながら男子たちの方を見る。
そこで、四人の中で一際爆笑していた一人の男子と目が合った。
……あれ? この男子、どこかで見たことあるような……
爆笑していた男子も、僕と目が合った瞬間に笑いが一瞬止まった。
そして、マジマジと僕を見つめる。
「……? どうした、リョウちん?」
『リョウちん』と呼ばれる男子が急に笑うの止めたので、隣にいた男子が何気なく聞く。
『リョウちん』……『リョウ』?
「……あ、ゲームセンターの時の……」
「……お前、あの時のゲームセンターの……」
僕と『リョウちん』は同時に相手を認識した。
間違いない。以前、ゲームセンターでカツアゲしてきた五分刈り茶髪の男子。あの彼だ。
「え、このナベ女と知り合いの、リョウちん?」
隣にいる友達の問いにもリョウちんは答えず、立ち上がった。
「おい……お前がいるって、まさか、このクラス、アイツのクラスじゃねえだろうな……?」
先ほどまでバカ騒ぎしていたのが嘘のようにリョウちんはうろたえている。
どうやらリョウちんは恐れているらしい。
『アイツ』という存在を。
多分、この『アイツ』って……
そこでドアが開いた。
「……ヒロミ、少し騒がしかったようだけど、何かあったか? ……うん?」
教室に入ってきたのは、トイレ休憩から戻ってきた『アイツ』。
「……て、てめえ……」
「ああ……久しぶりだな、リョウ君」
つまりは、玉ちゃんだ。
「なるほど、リョウ君たちがちょっとはしゃいでいたわけか……」
僕が先ほどまであったことをかいつまんで説明すると、玉ちゃんは薄く笑う。
でも、目が笑っていない。
騒いでいた男子たちは一転して静かになった。いきなり現れた大柄で強面の執事が明らかに剣呑とした雰囲気を漂わせ始めたことに、軽く困惑……というかビビっている。
その中でも特にリョウ君はビビっていた。一人だけ席から立ち、逃げる姿勢をとっているし。
「旦那様、盛り上がりたい気持ちはよくわかります……ですが、ここには他にもお嬢様がくつろいでおいでです、どうかご自重ください」
玉ちゃんの口調は丁寧だ。だけど、有無を言わせない迫力がある。
「……よろしいですね?」
玉ちゃんが一人一人を睨みつけながら念を押した。
これで首を横に振れる人はいないだろう。今の玉ちゃんは見た目が完全にマフィアだし。しかも明らかに半ギレ状態だし。
男子たちもそれぞれ顔を見合わせながら、小刻みに頷いている。
「お、おい、もう帰ろうぜ……」
リョウ君が仲間に呼びかけるが、しかし、そのリョウ君の首根っこを玉ちゃんがつかんだ。
「な、何するんだよ……」
「もう行ってしまうのですか? せっかくですし、執事喫茶を体験していくのはいかがでしょう?」
「い、いいよ、別に……」
「遠慮なさらずに」
玉ちゃんはグイッとリョウ君を引っぱった。
リョウ君は抵抗むなしく玉ちゃんに引き寄せられる。
「え、遠慮なんかしてねえって……」
「せっかくここまで来たのですから、いかかですか……だ、ん、な、さ、ま?」
玉ちゃんがリョウ君の耳元で言う。言い方こそ丁寧だが、その口調には怒気が含まれていた。
玉ちゃんの右腕がリョウ君の首にガッチリと入った。こういう首に腕を回す体勢は、仲の良い友達同士……に見えなくもないけど、ただ、玉ちゃんの表情とリョウ君の表情を見るに、「肉食動物とそれに食われそうで怯えている草食動物」が正しい例えのように思える。
「わ、わかった、やる、やるから……」
「ありがとうございます、旦那様……それでは一番人気の写真撮影を一緒にやりましょう」
「しゃ、写真撮影……だと?」
「私とツーショットです」
「……別にそれくらいなら、とっとと……」
「二人でハートマークを作りましょう、手で」
「え……?」
玉ちゃんの提案にリョウ君の顔が引きつる。
「当喫茶での人気ポーズですので、是非旦那様もやりましょう」
「ハ、ハートマーク? ま、待ってくれ……それは……」
「つべこべ言うな、やるぞ」
「……は、はい」
底冷えするような低い声。ドラマの殺し屋役のセリフだと言われても納得するレベルだ。
リョウ君も元々冷やかしに来た執事喫茶で、まさかその喫茶のサービスを強制的に受けさせられるとは思わなかっただろう。
まあ、「バカにしていたものをやらなければいけない屈辱」と、「超至近距離にいる殺気立った玉ちゃんへの恐怖」の二つを天秤にかければ、どちらを選ぶか、選択の余地はない。
「それでは旦那様、右手を出してください」
「……」
リョウ君は嫌々右手を出した。
玉ちゃんが左手を出す。
二人の手でハートマークが作られ……なかった。
リョウ君のわずかな抵抗か、リョウ君の手で作ったハートは潰れた形になっている。
「……」
「……ウグッ」
リョウ君がうめいた。
玉ちゃんが無言でリョウ君の首にまわしている右腕に力を込めたようだ。
リョウ君の指がきちんとしたハートマークを作った。
「はい結構ですよ、旦那様……ヒロミ、写真を撮ってくれ」
「あ、うん……えっと、スマホは……」
特別サービスの写真はお嬢様のスマホを使う。この場合、リョウ君のスマホを使わないといけない……のかな?
「お前ので撮ってくれ」
「わかった」
まあ、この状態のリョウ君からスマホを借りるのは無理だろう。
僕は自分のスマホをポケットから取り出すと、カメラをリョウ君と玉ちゃんに向けた。
「旦那様、笑顔を作って下さい、私のように」
「……」
こんな満面の笑みを浮かべている玉ちゃんを初めて見た気がする。こういう時にしか自然な作り笑顔を作れないってなんだか皮肉っぽい。
一方で、リョウ君はひきつった笑顔を浮かべていた。
僕はスマホのシャッターを押す。
スマホのシャッター音が鳴ると同時に、玉ちゃんがリョウ君の首にまわしていた右腕を解く。リョウ君は逃げるようにその場から転がって、玉ちゃんから4、5mくらい距離をとった。
「旦那様、この撮った写真ですが……」
「べ、別にいらねえよ!」
「いえ、良く撮れているのでSNSにアップしようかと思いまして」
「ふ、ふざけんな! 絶対すんなよ!」
リョウ君は怒鳴るが、いまいち迫力がない。
玉ちゃんはというと、肩をすくめて答えた。
「も、もう俺は帰るからな!」
「おい、待てよリョウちん……」
リョウ君は逃げるように教室から出て行く。一緒にきていた三人の男子も、呆気にとられながら教室を出て行った。
「行ってらっしゃいませ、旦那様……て、もう聞こえてないか」
玉ちゃんは教室を見渡すように振り返る。
「お嬢様、大変お騒がせいたしました、どうぞごゆっくりおくつろぎください」
一連の騒ぎを見ていた女子たちにそう呼びかけると、頭を下げた。僕もつられて頭を下げる。
僕らが頭を上げるころには、静寂だった教室に、お客さんである女子たちの話し声が少しづつ戻ってきていた。
「玉ちゃーん」
ミキティーが手を振る。
「いかがいたしました、美姫お嬢様」
「すごいとこ見ちゃったぁ、今のムービーで撮ってたんだけどさ、ネットに上げていい?」
「それはご遠慮ください」
玉ちゃんはきっぱりと断った。
「ヒロミもさっきの写真は消しとけよ、ちょっとリョウ君に対してやり過ぎたからな」
「あ、う、うん……」
僕は自分のスマホに写った先ほどの写真を見る。
「まあいいや、ねえ『執事の特別サービス』ってやつ、私もやりたいんだけどぉ!」
「かしこまりました、ご希望は?」
「写真撮影! 私もさっきのハートマーク作るやつやりたーい」
「かしこまりました」
「へへーん、晴君に送ってあげよう」
「長谷川の機嫌が悪くなるかもしれませんよ?」
「ヤキモキさせるのが目的だもーん」
「……ヒロミ、写真を頼む」
「……」
「ヒロミ?」
「え? うん……」
僕は写真の編集ボタンを押して、トリミングモードを起動すると、写真の半分を切り取って、半分を削除した。
自分のスマホをポケットにしまい、ミキティーのスマホを受け取る。
「何かやってたのか? メールか?」
「ううん、何でもないよ」
リョウ君の写真を削除しろって言われたけど、リョウ君の部分を消せば実質削除したようなものだよね。
だって、あんな笑顔の玉ちゃん、すごい貴重だもの。個人的にとってきおきたいし。リョウ君の写真を削除しろって話で、玉ちゃんの写真は削除しろって言われてないし。
……玉ちゃんにはこのことは伝えないけどね。
「それじゃあ撮るね」
「玉ちゃん、もっと顔寄せて」
「……ご自重ください、美姫お嬢様」
グイグイと顔を寄せてくるミキティーを躱す玉ちゃん。
その顔は穏やかであるけど、やっぱり笑顔じゃない。
僕はふふっと笑いながら、二人の写真を撮った。