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文化祭準備 研修編(玉城)

「今日から執事として働いてもらう、玉城彰君です……アキラ君、自己紹介を」

「玉城彰です、よろしくお願いします」


俺は執事喫茶のスタッフ一同の前で頭を下げた。




俺が秋葉原の行きつけの執事喫茶で働くことになったのは、文化祭で『執事喫茶』をやることを、顔見知りの執事さんに相談したことが発端だった。


「執事喫茶ですか」

「ええ」

「それで彰君が執事に?」

「はい」


最初にこの店に来てから一か月余り。その後も隔週くらいのペースで通い、なおかつ毎回『お嬢様サービス』を頼む男の客というのは珍しいのか、今では執事さんにすっかり顔と名前を憶えられた。


「なので、シュウさんのお仕事をよく観察しようと思います」

「それは照れてしまいますね」


オールバックのワイルドな執事さんは白い歯を見せながら爽やかに笑う。

初めてこの店に来た時に俺(その時はヒロミもいた)の対応をしてくれたのがこの執事さんだ。名前は『シュウ』さん。おそらくこの店の一番人気の執事さんである。


「しかし……観察しているだけ、というのもなんですね……どうせなら、実際に体験してみるというのはいかがです?」

「え? 体験?」

「ええ、執事の勉強をするのならば、見るよりも実体験した方が覚えられると思いますよ」

「それはそうかもですけど……」

「実は弊店では執事のアルバイトを募集しております」

「執事の……アルバイト?」

「はい」

「もしかしてシュウさんもアルバイトですか?」

「私はこの店の店長です」

「……ええ!?」


知らなかった。この人、店長だったのか。確かに何度か他の執事さん達に指示を出しているところは見たことがあったが……


「いかがでしょう?」

「……」


執事のアルバイト、確かに執事を学ぶためにはこれ以上にない体験だろう。

そもそも俺は執事というものに興味があって、執事喫茶に賛成したのだ。その興味というのは、客側としてだけでなく、執事側としての気持ちもある。

だとすればシュウさんからのこの提案、渡りに船だ。


しかし、ノリでこのアルバイトをやっていいものか、という思いもある。

別にふざけてやるつもりは全くないが、執事喫茶というのはそこまで軽いノリのアルバイトではない。特にこの執事喫茶の雰囲気はなかなか格調高いのだ。中途半端に足をつっこむのもはばかられる。


「そんな深く考えないでください、弊店で働くにしても、ひとまずは試用期間という形ですから、文化祭が終わったらそのまま辞めてもらっても構いませんよ」


俺が迷っていると、シュウさんがつけたした。


「言うなればお互いにとっての『お試し』ですね、もちろん、今すぐに決めなくてもいいですよ、どうぞよく考えてから返事をしてください」

「……」


朗らかに言うシュウさん。

今すぐに決める必要はない……そう言われて、逆に決心がついた。

これは俺にとっては良い機会だと思う。お試し期間で執事が体験出来るのであれば、それに越したことはないじゃないか。


「シュウさん」

「はい」

「アルバイト……よろしくお願いします」


シュウさんはニッコリ笑った。




それから、近くのコンビニに履歴書を買ってきて執事喫茶に戻ってくると、それを提出する雇い主の目の前で履歴書を書く。履歴書というのは初めて書くが、分からないところは、やはりそばで見ている雇い主のシュウさんにアドバイスをもらって書いた。


「……書けました、こんなのでどうでしょう?」

「はい、ありがとうございます、それではこのまま面接をしますね」

「は、はい」


あれよあれよという間に話が進む。アルバイトってこんなものなのだろうか。

シュウさんが俺の目の前の席に座った。


「まず、自己紹介をお願いします」

「えっと、玉城彰です、高校二年生です……趣味は執事喫茶に来ること、かな?」

「ふふ、ありがとうございます」


シュウさんは少し吹き出しながら頭を下げた。

アルバイトの面接は初体験だし、いきなりで全く何も準備できていないのだ。変な事を言っても許してほしい。


「では次の質問ですが……何かアルバイトの経験はありますか?」

「あります、喫茶店でホールの仕事を」

「それはいつごろからいつごろまで?」

「今年の夏休みの間やっていました」


まあ、実質やっていたのは二週間くらいだけども。

ただ、そんな『ド素人』ってわけでもない、とは自負している。


「なるほど……ホール経験があるのなら、接客に対しての抵抗感はないですかね?」

「……そうですね、大丈夫です」


一瞬答えに迷ったのは、加咲家の喫茶店で一度クレーマーに捕まったことがあるからだ。

あんな変な奴がこんな喫茶店に来るとは思えないし、多分大丈夫だと思うけど。


「分かりました……それではいつから出れますか?」

「えっと……」


文化祭まではもうあまり日がない。とすると一日でも早くこのアルバイトは開始した方がいいだろう。せっかくトントン拍子で話が進んでいるのだし、この勢いのままいってしまうか。


「……今日からで」


シュウさんがニッコリと笑った。


「さすがに今日からはこちらも準備ができませんので、明日からで大丈夫ですか?」


今日は土曜日。もちろん明日は日曜日で暇である。


「それじゃあ明日からで」

「はい、明日の午前九時にここに来てください」


俺は頷いた。




「今日から執事として働いてもらう、玉城彰君です……アキラ君、自己紹介を」

「玉城彰です、よろしくお願いします」


というわけで次の日、開店一時間前に、俺は執事喫茶の全スタッフの前であいさつをしたわけだ。


「アキラ君にはホールを担当してもらいます、指導は私がやりましょう」


シュウさんが自ら教えてくれるとは心強い。俺が執事に憧れに似た興味を持ったのは、シュウさんに接客されたのがきっかけだからな。


「はい、質問良いですか?」


眼鏡をかけたスタッフが挙手をした。

この人は知っている。この喫茶店の執事で、名前は『タイチ』さんだ。コミュ力があって顔も良い、この執事喫茶では2番目くらいの人気がある。


「どうぞ、タイチ君」

「アキラ君っていくつですか?」

「17歳です」

「リアル高校生? マジか~、ピチピチじゃん」

「タイチ君は変な事を教えないように」

「なんも教えないっすよ」


シュウさんとタイチさんのやりとりに、周りのスタッフが湧いた。


「では、朝礼は以上です、みなさん、今日も一日頑張りましょう」




朝礼を終え、俺は用意された執事服に袖を通す。

姿見で確認した。

こんな俺でも、この服を着ればちゃんと執事に見える。

ただ、ちょっと気になるのは、俺の顔が怖いせいで、こういうピッシリした服を着てしまうとそっち系の人に見えなくもない、という点だ。去年くらいに冗談で親父のスーツを着て見た時、家族から「マフィア」という感想をもらったのは記憶に新しい。


更衣室から出て、この姿をシュウさんに見せると、シュウさんは満足げに頷きながら言った。


「いい感じですね、似合っていますよ、アキラ君」

「ありがとうございます」

「彰君はスタイルが良いですから、フォーマルな格好は似合うと思っていました」

「そうですかね?」


シュウさんから太鼓判を押されれば俺も自信がつくというものだ。


「俺、ピッシリした格好すると、マフィアみたく見られるんですけど、その辺大丈夫ですよね?」

「え? ……あー……」

「あーってなんですか?」

「いや、何でもないですよ、言われてみればって思っただけです、ちょっとだけ」

「や、やっぱり見えるんですか?」

「ははは……さあ、早速研修を開始しましょうか、覚えることはたくさんありますよ、今は時間が惜しいです」


シュウさんが俺の後ろに立って、背中を押す。

俺がいくら聞いても、シュウさんは笑って誤魔化すだけだった。




ホールまで連れてこられ、早速研修が始まった。


「まず、執事喫茶の執事と他の喫茶店のホールスタッフで、明確に違う点があります、わかりますか?」

「えっと……接客の仕方ですか?」

「そうです、執事喫茶は他の喫茶店と比べて礼儀作法に厳しいですよ」

「はい」


その辺りはよくわかっている。伊達に執事喫茶に通い詰めていない。シュウさんの所作はよく観察しているつもりだ。


「ではまずは姿勢からです、常に姿勢は真っ直ぐに」


シュウさんに背中を擦られ、俺は背筋を伸ばした。


「そして表情もにこやかに」

「にこやか……」


俺は笑顔を作った……自分自身でも、ぎこちないとわかる笑顔を。


「……まあ、いきなりやれと言われても無理ですし、なるべく柔らかい表情を心がけてください」


シュウさんは苦笑いを浮かべた。

物凄いオブラートに包んだダメ出しである。

加咲のところの喫茶店でアルバイトをしていた時も、笑顔についてダメだしされたことを思い出した。

どうやら俺は笑顔が向かない男のようだ。


「姿勢を伸ばして柔らかい表情、これが執事の基本姿勢です、常にその姿勢でいることを心がけてください」

「……わかりました」


やること自体は簡単だが、維持し続けるのはなかなか大変だ。全身の筋肉を使っている気がする。


「さあ、次は所作についてです、丁寧なだけではいけません、執事喫茶の執事としての正しい作法を教えましょう」

「は、はい……」


それから、シュウさんとの執事特訓が始まった。シュウさんは物腰こそ柔らかだが、決して妥協を許さない人で、俺は徹底的に執事喫茶の作法を叩きこまれた。




「……こんな感じですか?」

「はい、いいですね……いやあ、アキラ君は呑み込みが早くていいですね、教え甲斐がありますよ」

「あ、ありがとうございます……」

「おや、疲れましたか?」

「……だいぶ」


時計を見ると、研修を始めてから三時間が経っていた。休みなしのぶっ通しで、疲れないわけがない。


「ではお昼休憩をしましょう、キッチンスタッフにまかないを頼んでください、事務所の方で一時間ほど休んだら、またここに来てください、最後までやってしまいましょう」

「わ、わかりました……」

「この調子でいけば、午後からでもホールで働けますね、私の予想をはるかに上回るペースです、アキラ君をスカウトしたのは正解でした」


シュウさんはとてもいい笑顔だ。こんなに疲れている俺に対して、手を緩める気はさらさらないらしい。


「……シュウさんって、ちょっとSっ気ありますね」

「よく言われます」


シュウさんはどこまでも朗らかな笑顔を浮かべていた。




まかないのサンドイッチをもらって事務所で食べていると、眼鏡の執事であるタイチさんが入ってきた。


「お、休憩?」

「あ、はい、お疲れ様です」

「どう? 執事としてやってけそう?」

「……シュウさんは、このペースなら午後からホールに入れるって言ってました」

「マジで? ヤバいね~」


タイチさんは軽薄に笑いながら俺の隣に座る。


「ヤバいですよ、ペースが早すぎます、ついていくのがやっとですよ」

「うん、アキラ君、才能あるんじゃない? 執事の才能」

「……執事の才能?」

「だって、普通入ってきたその日に客前には出さないって、ここ他の喫茶店と違って礼儀作法とか覚える事とか結構あるからさ」


確かに加咲の喫茶店に比べて覚えることがいっぱいある。それこそお辞儀の仕方、席までの案内の仕方、注文の取り方、注文された品の出し方、とにかくすべての事に細かくルールがあるのだ。


「だからね、少なくとも僕ん時は一日か二日くらい研修やったんだよね」

「そうなんですか?」

「そうそう、しかも店長そこら辺厳しいからね~、そんな店長が半日の研修でホールに出ていいって言ってんだから、才能あるんだよ、きっと」


タイチさんの口調は軽いが、その言葉にウソや誇張があるとも思えない。

執事の才能か……果たして、それはあると嬉しいものなのだろうか。

そういえば思い出してみると、加咲の喫茶店でバイトをしていた時、加咲一家が口をそろえて俺には接客の才能がある、と言ってた。執事の才能があるかどうかはわからないが、もしかしたら俺は接客の才能はあるのかもしれない。


時計を見ると、休憩を始めて50分が過ぎようとしていた頃だった。


「あ、そろそろ時間なので、戻ります」

「うん、オッケ~」


俺は皿を持って事務所を出た。





午後からの研修もハイペースで進められた。

シュウさん曰く、「急いでるわけじゃなくて、アキラ君の覚えが良いからドンドン教えているだけですよ」だそうだ。確かに教えられたことは特に差し障りなく覚えている自覚があるが、それでもペース配分というものがあると思う。俺が苦しんでいるのにニコニコしているところを見ると、やはりこの人、サディストだ。


「……それではそろそろお嬢様の前で実際に学んだことを披露してみましょうか」

「え? ということは?」

「研修は終了です、後は実際にやってみましょう」

「そ、そうですか……」


事前に午後からホールに入るとは言われていたが、それでも初めての職場の初めての実戦というのは緊張する。


「大丈夫です、私も後ろからついていますから、何かあればフォローしますよ、アキラ君は私が教えた通りにやれば大丈夫です」


シュウさんはニコニコと笑いながら俺の肩をポンポンと叩いた。本当にフォローしてくれるだろうか、サディストのこの人だから、俺がテンパってもニコニコ笑っているだけな気もする。


俺は一抹の不安を憶えながらも、シュウさんに促され、執事喫茶のドアの前に立った。




ドアが開く。その瞬間、俺は反射的に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


ゆっくりと頭を上げる。

この一連のモーションもシュウさんに叩きこまれたものだ。反射的に出せるようになるとは、我ながら良く仕込まれたと思う。


改めて相手の顔を確認すると、来客してきたのはこの店の常連客だ。俺も常連だから顔は知っている。話したこととかはないけど。


「お嬢様はお一人ですか?」

「……ええ」


常連客がこちらをじろじろ見ている。多分、向こうもこっちに見覚えがあるのだろう。「なんで執事やってるの?」とかそんな事を思っているに違いない。


「でしたら、こちらにどうぞ」

「はい」


席に案内しようとするが、ふと、常連客の手に小さなカバンがあることに気が付いた。


「お嬢様、よろしければカバンをお預かりいたします」

「ありがとう……」


カバンを預かると、改めて席まで案内した。

椅子を引いて、席に座らせ、カバンを空いている席において布を被せる。


シュウさんの方をチラリと見た。ニコニコ笑っている。ここまでの対応は正解らしい。


さて、ここでメニューやこの店のシステムを軽く説明するように言われているが……常連客であるこの人に向かってやるのは逆によくないのではないだろうか。

このお店のコンセプトはあくまで「お嬢様が自分の屋敷に帰ってきた」なのだから、常連ならばむしろ逆にそれらしく扱ってやらねばコンセプトに合わないと思う。


「……お嬢様、今日は何をご注文されますか?」

「えーと……いつものダージリンかしらね」

「かしこまりました」

「あと、ちょっとお腹もすいちゃってるしね……」


常連客がこちらを見る。


「何か、ちょうどいいサイドとかある?」

「……サンドイッチなどいかがでしょう? 今日のはレタスがシャキシャキしていて美味しいですよ」


これは自信を持って言える。なにせ、さっき食べたばっかりだからな。


「じゃあそれで」

「かしこまりました、ごゆるりとおくつろぎください」


俺は一礼して、厨房に戻りお客さんの注文を伝え、伝票を作る。


「アキラ君」

「はい?」


後ろにいたシュウさんが話しかけてきた。


「素晴らしい対応でした、とても初めてとは思えません」

「あ、ありがとうございます」

「しいて問題点を上げるとすれば、顔がこわばっていたところですかね……笑顔とまでは言わないまでも、もっと柔らかい顔を心がけてください」

「は、はい、わかりました」


顔に関しては生まれつきハンディを背負っているのだ。それを差し引きしても、なるべく柔らかい顔を心掛けなければならないだろう。


「まあでも、本当に対応自体は良かったです、これからもその調子でお願いします」

「はい、わかりました……」

「あとは一人でも大丈夫そうですね」

「え?」


シュウさんがホールに向かって歩き出す。


「あ、あの、シュウさん」

「はい?」


慌ててシュウさんを呼び止めた。


「お、俺はもう一人ですか……?」

「ええ、臨機応変な対応もできてますし、私が見ていなくても大丈夫そうですので」


おいおい、まだ一人しかやっていないぞ。せめて今日一日くらいは後ろでフォローする体制があってもいいのではなかろうか。


「大丈夫です、いざとなったらすぐに駆けつけますから」

「は、はあ……」


シュウさんはウィンクすると、歩き出してしまった。

……仕方ない、あのシュウさんが大丈夫だと言うのならば大丈夫なのだろう。俺も男だ。一人で接客くらいしてやるさ。



「お嬢様、お待たせしました、ダージリンとサンドイッチです」


常連客のテーブルに紅茶とサンドイッチを置く。


「またご注文ございましたらお声かけください」

「……あ、待って」


俺が一礼して立ち去ろうとした時、常連客が呼びとめた。


「はい、いかがなさいました?」

「あなた、名前は……」

「アキラです」


俺は胸のネームプレートを見せる。


「そう、じゃあアキラ君にサービスを頼みたいのよね」

「……かしこまりました」


きたか、『お嬢様サービス』。

執事喫茶の特徴ともいえるサービスだ。俺も興味本位で一通りやってもらったことがある。


「どのようなサービスをご希望でしょうか?」

「そうね……壁ドンのフルコースで」

「かしこまりました」


壁ドンのフルコース……まさか、ここで『壁ドンフルコース』がくるとはな。

これは今週からの始めた新サービスらしい。俺も受けたことはなく、シュウさんから先ほどの研修で一度実演してもらった。


ハッキリいって、やる方もやられる方もかなりこっぱずかしいのだが、希望があるのならばやるしかない。


「それではお嬢様、こちらにどうぞ」


俺は常連客の手を取り、壁ドン用の壁に連れてきた。

壁ドン用の壁というのも変な言葉だが、この喫茶店で壁ドンするのに、もっとも写真映えがする場所なのだ。


手が空いていそうなスタッフを探すと、ちょうどタイチさんと目が合った。


「タイチさん、いいですか?」

「うん? おう、オッケ~」


タイチさんもすぐに察してくれて、カメラを持って俺たちの前まで来た。


さて、ここで壁ドンフルコースのサービス内容を説明しよう。

そもそも壁ドンフルコースとは、さまざまな『お嬢様サービス』を壁ドンに集約させた複合サービスの事で、『壁ドン』はもちろんのこと、『甘い言葉』をささやき、『あごくい』をしながら、その様子を『写真撮影』する、というものだ。


本当によくこんなサービスを思いつくものだと感心する。店長であるシュウさんが考えているのだろうか? だとすればあの人は本当に底が知れない。


「何かご希望のセリフはありますか?」

「お任せするわ」


お任せされては困る。非常にハードルが上がってしまうじゃないか。壁ドン自体、以前にも秋名にしてやったことがあるが、あの時も秋名は喜んでいたが、やっているこっちは手ごたえはなかった。


しかし、悩んでいる暇はない。

要望には全力で答えるのが『執事』だとシュウさんは言っていた。しかも『壁ドンフルコース』は1000円もするのだ。たかだか3分もかからないサービスに1000円である。気合を入れてやらなければ失礼だろう。


「それでは失礼します……」

「はい、どうぞ」


常連客が壁に寄り掛かる。俺は常連客に迫るように壁に右手を置いた。


こういうのは恥ずかしさを持つと目も当てられなくなる、全力、全力で壁ドン……よし!


左手で常連客の顎をクイッとあげ、目線を合わせる。


「……俺だけを見てろよ」


パシャッ


セリフを言い切ったタイミングでタイチさんが写真を撮った。


ちなみにこのセリフはシュウさんから伝授された必殺のセリフだ。

『やる時は精一杯の決め顔でやって下さい』と、いつもの白い歯を見せながら言われた。

一応、決め顔でやっているつもりだが……どうなんだろう? ていうか、常連客が半笑いなんだけど、もっとちゃんとした反応が欲しい。こっちは恥ずかしさを我慢してやっているのだ。


「……」

「……」

「……ぐふっ」

「……ぷはっ」


沈黙に耐えきれず息を漏らすと、常連客も吹き出した。

我慢の壁が決壊し、羞恥心が濁流となって込み上げてくる。


「す、すみません……」


真っ赤な顔を見られるのは恥ずかしすぎるので思わず顔を伏せた。


「いやいや、すごい良かったわ、本当に」

「……そ、そうですか」


それなら相応の反応をしてくれ。もう俺は色々と限界だったんだからな。


「今度またお願いするわ」

「は、はあ……」


出来れば頼まないでほしい。今日の事はもう俺の中で思い出したくない暗黒の記憶となったのだから。


精神的に多大なダメージを負った俺は、フラフラになりながら、厨房に引っ込んだ。


「アキラく~ん、お疲れ様~」


壁に寄り掛かってグロッキー状態の俺に、タイチさんがニヤニヤ笑いながら話しかけてきた。


「……マジで疲れました」

「いや、すごいよ、初めての接客であそこまで出来る人なんていないって、マジでアキラ君初めての執事喫茶?」

「……初めてです」

「じゃあ、やっぱり才能あるんだね~、すぐにシュウさんを抜いてナンバーワンになれるかもよ」


それはないだろう。一人の客を接客するのにここまで気力を消費しているのだ。ナンバーワンになれるとは到底思えない。


「ちょっと、休憩して良いですか?」

「うん、いいんじゃない? タバコ吸うんなら、2階に喫煙スペースあるからそこでね」

「いえ自分、高校生なので……」

「僕、高校の頃も吸ってたよ」


眼鏡をかけて一見真面目キャラのタイチさんだが、その見た目に反して不真面目な人のようだ。


「とりあえず、これからも頑張って、アキラ君が頑張ってくれれば僕の仕事も減るし」

「……」


入って初日の新人に何を言っているんだ。やっぱりこの人かなりの不真面目なキャラだぞ。

タイチさんの評価を改めながら、俺は一旦事務所で休むことにした。


そこで5分ほど休憩し、またホールに戻る。


さて、執事として、接客再開だ。


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