雨宿り(玉城)
台風の季節は秋である。
「参ったな……」
放課後、帰ろうとしたその時に大雨に見舞われ、俺は昇降口で立ち往生した。
朝の天気予報を見る限り、俺が下校する頃にはまだ曇りマークだった。その天気予報を信じて傘を持ってこなかったのがいけなかったみたいだ。
置き傘も折り畳み傘もない。まさか俺は、この大粒の雨の中を駅まで行かなければならないのか?
……ならないだろうな、このままだったら。
友達に傘を借りようにも、俺の友達であるはずの長谷川は「傘一本しか持ってねえや、じゃあな」と薄情にもとっとと帰りやがった。相合傘でもいいから入れろと言ったが、「玉ちゃんは面積デカいから一緒に入ったら俺が濡れるかもしれねえじゃん、パス!」と失礼な言い分で論破された。アイツとの今後の付き合いを考え直さなければならないだろう。
ちなみにそれを隣で見ていたヒロミは、俺を哀れんで「僕の傘使う?」と聞いてくれたが、それは丁重に断った。ヒロミも傘を一本しか持っていなかったのだ。女子から傘を奪うなんてそんな格好悪い事なんかできない。相合傘? もってのほかである。
さてそんなわけで、俺は一人、雨の前で絶望しているわけだ。
雨の勢いは落ちる気配がない。これで数十分の間だけでも上がってくれればいいのだが、生憎と台風は近づいているのだ。勢いが増すことこそあれ、落ちることはないだろう。
「……濡れていくか」
それしかあるまい。ここでいつまで待っても事態は好転しないだろうし。
俺が覚悟を決め、せめてもの抵抗とばかりにカバンを頭の上に掲げ、傘代わりにしてそのまま走りだそうとした……
「……玉城先輩?」
「うん?」
が、声をかけられて止まった。声の方を振り向くと、一年の下駄箱から見知った顔が歩いてくる。
「加咲」
「今、帰りですか?」
「おう」
加咲たわわだ。
これはいいところに出会った。もし加咲が二本の傘を持っていれば、一本貸してもらおう。
「加咲、ちょっとお願いがあるんだが」
「はい?」
「傘を二本持っていれば、一本ちょっと貸してほしいんだが」
「……すみません、持ってないんです」
加咲が申し訳なさそうに謝った。
「いや、加咲が謝ることじゃないぞ」
都合よくお願いしているのはこちらの方だ。加咲が申し訳なく思う必要は全くない。
なに、さっきまで雨に濡れることを覚悟していたのだ。その覚悟に従って濡れて帰ればいいのである。
「傘……ないんですか?」
「ああ、忘れてきちまった」
加咲が俺の横に立つ。
一瞬、加咲と相合傘の光景が脳裏をよぎった。
しかし、すぐに頭を振る。そんなことを提案する勇気はない。そもそも長谷川が言っていた通り俺は身体の面積がデカいのだ。隣り合って傘をさしても加咲を濡らしてしまうだろう。
「そうなんですか……」
加咲はなぜか暗い面持ちである。きっと俺が傘を忘れたことに同情しているのだろう。加咲は俺のことを慕ってくれる心優しい後輩なのだ。
「なに、俺の事は気にせずに加咲は帰ってくれよ」
「……はい」
俺が声をかけても、加咲の顔は暗いままだ。俺の横に並んだまま、昇降口から出ようとしない。
「……加咲? どうした?」
「……」
加咲はなぜか帰ろうとしなかった。
というか、その手に傘を持っていない。
「……あれ、まさかお前も……」
「……傘、持ってくるの忘れました」
なんてこった。
雨とお見合いする人数が一人増えた。人数が増えて心強く……なるわけないだろう。
「どうするか……」
「どうしましょうか……」
まあ、「どうするか」なんて呟いているが、ここでいくら悩んでも解決しないのは先ほどと変わらない。
「……ここは走って帰るしかないな」
「……そうですね」
加咲も濡れて帰るはめになるだろうが、こいつの家は駅前の喫茶店だ。駅まで着いた後も濡れ鼠の状態で電車に乗らなければならない俺よりは幾分かマシだろう。
「……あの」
「うん?」
「私の家に寄っていきますか?」
「え?」
「あ、あの、私の家、駅前にありますし!」
それは知っている。夏休み中に俺はそこでアルバイトをしていたんだ。
「だから……そこで、タオルとか、あと傘も貸せると思うんですよ!」
なるほど、その発想はなかった。
正直、ずぶ濡れの状態で電車に乗るのは避けたかったし、ありがたい提案である。この善意の提案を受け入れないわけがない。
「すまないな、加咲、世話になっていいか?」
「はい!」
「よし、それじゃあ行こう」
「はい」
俺と加咲は鞄を傘代わりにして、雨の中へと走り出した。
加咲の喫茶店までの道中、ちょうど信号機が赤くなった。青点滅くらいなら走り抜けてしまえるのだが、タイミング的に完全に赤になってしまったので、止まらざるを得ない。
この雨の中、数秒だってたたずむのはごめんだ。
俺と加咲は近くにあるお店の軒下に避難した。
「雨ヤバいな」
「そうですね……」
俺は学んだ。カバンは傘の代わりにはならない、ということを。頭はまだあまり濡れていなかったが、横雨で顔面や服は大いに濡れている。これは早めに暖まらないと風邪をひくかもしれない。
本当に、なぜ傘を持ってこなかったのか……悔やまれる。
俺はチラリと加咲を見た。
雨によって髪が濡れ、まるでウエーブがかかったようだ。体温が上がっているのだろう赤みがかった頬はなんだか色っぽい。水も滴る良い女、とはよく言ったものだと思う。
更に視線を下に向けると、加咲の豊満な胸が目に飛び込んできた。
雨に濡れ、ブラウスが肌に張り付いている。ただでさえ強調されている胸部がさらに強調され、何だったら雨に濡れて透けていた。
俺の目は、その青色の透けブラに釘付けになった。
スマホを置けるくらいの巨乳である加咲の透けブラは、童貞の俺にとっては刺激がかなり強いものである。視覚の暴力と言っても差し支えない。
「先輩?」
「な、な、なんだ?」
「いえ、どうしたのかなって……」
「な、なんでもないぞ」
加咲に不思議そうな顔をされ、俺はドモリながらも取り繕った。
なに後輩に欲情しかけているんだ、俺は。
気を取り直すために、俺は雨に濡れておでこに張り付いた髪をかきあげた。オールバックのように前髪を全て後ろに持っていく。
加咲は自分自身が透けブラしていることに気が付いているだろうか。
いや、仮に気がついていたとしても、何も思わないだろうな。この貞操観念が逆転した世界なら、透けブラがどうしたって話だ。前の世界で例えるのならば「男の透けシャツ」みたいなものだろう。誰も気に留めないだろうし、逆に気に留めると、変な目で見られるやつだ。以前、長谷川のスカートめくりの時と同じパターンである。
「……」
「……」
何となく気まずくなり、俺は遠くを見た。
雨は段々と強くなっている気がする。本格的に台風が接近しているのだろう。明日までには通り過ぎると思うが、個人的には明日の朝まで留まってもらって、電車を止めてくれたりすると助かる。学校を休めるし。
そんな風に考えていると、自動車の方の信号機が黄色になった。そろそろ出発できそうだ。
「加咲……」
「……」
「加咲?」
加咲が返事をしない。
彼女の方を見ると、なぜかボーっとしてこちらを見ていた。
「おい、加咲、そろそろ行くぞ」
「あ、は、はい……」
俺に強く話しかけられ、加咲は覚醒したようだ。
加咲とともに、また雨の中を走り出す。目的の喫茶店はもうすぐだ。
「喫茶店じゃなくて、直接うちに行きますね」
「そうだな」
喫茶店まで着いたが、確かにこんなずぶ濡れのまま喫茶店の中に入ったら、満さんにも迷惑だろう。
俺と加咲は、外付けの階段を昇り、母屋に入った。
そのまま加咲に案内され、お風呂の脱衣所まで来た。
喫茶店でなく、家の方に入ったことは過去に二回ある。両方とも加咲の部屋にお邪魔したので、加咲の部屋以外に入ったのは初めてだ。
脱衣所の壁に取り付けられた棚からタオルを出して渡された。それを頭から被り、ゴシゴシと頭を拭く。頭もそうだが、身体全体も濡れている。このタオル一枚で拭ききれるだろうか。
「……あの」
「うん?」
「シャ、シャ、シャ……シャワーとか、あ、あ、あ、浴びますか……?」
まるで緊張しているかのようなドモリようで、加咲が提案をしてくれた。
「いいのか?」
秋ごろとはいえ、大雨にうたれれば、体温もだいぶ下がる。実はちょっとシャワーで暖まりたいところだった。
「は、はい! どんどん使ってください!」
「それなら、加咲が先に入ってくれ、俺は後で大丈夫だ」
シャワーを浴びるにしても、まずは女子で家主である加咲から入るのが筋だろう。
「いえ! 先輩がまず入って下さい!」
「いや、加咲が……」
「いえ、先輩が……」
そういえば稔が「お姉ちゃんはジャイアンみたいな気質がある」と言っていた。この様子では、おそらく加咲は引かないだろう。
このまま無駄な問答をしているとお互いに風邪を引いてしまうかもしれない。
「……わかった、先にシャワーをいただく」
「はい!」
なので、この遠慮合戦は俺が折れることで決着をつけた。
「着替えも用意しておきますね!」
「着替え? 俺の着替えがあるのか?」
「お父さんのやつがあります!」
正さんのやつか。体育祭の時に会ったが、小柄ではなかったし、身体のデカい俺でもスウェットタイプの物ならば着れるかもしれない。
「だけど、悪いな、そんなにしてもらって」
「いいんです、風邪引くよりもマシだと思いますし、制服を乾かすまでだけ着てもらえば……」
正さんは単身赴任中で今はいないわけだし、ここはお言葉に甘えるか。
「ありがとう、それじゃあ、シャワーを浴びるな」
「はい!」
「……」
「……」
ワイシャツのボタンに手をかけたが、外す前にその手を止める。
「加咲……」
「はい?」
「そこにいられると、脱げない」
「あ、すみません」
加咲はすぐに脱衣所を出て行く。
俺もようやくこの世界に慣れてきたな。少し前の俺なら女子がいても堂々とワイシャツを脱いでいただろう。
脱衣所で制服を全て脱ぎ終わると、俺は風呂場に入った。
シャワーを頭から浴びて、身体を暖める。
他人の家の風呂場というのはどうにも落ち着かない。湯船にお湯が張られているわけでもないし、簡単に浴びるだけでいいだろう。この後加咲も入るし、さっさと出た方がいい。
風呂場から出ようとドアを開けると、目の前にスウェットを持った加咲がいた。
「え?」
「おお!?」
すぐにドアを閉める。
バッチリ加咲と目が合ってしまった。そして状況的に向こうに俺の裸も見られた。
「ご、ごめんなさい、先輩! 入って来ちゃって」
「い、いや、こっちも悪かった、よく確認せずに開けてしまった」
ドアは曇りガラスで分かりにくかったが、確かに加咲のシルエットが見えた。そもそも加咲は俺のために着替えを取りにいっていたのだし、また脱衣所に戻ってくるのは分かっていたじゃないか。風呂場から出る前にきちんと確認するべきだった。
しかし、やっちまった。もしかしたら俺の股間を見られてしまったかもしれない。上半身の裸くらいなら別に問題なのだが、さすがに下半身は恥ずかしい。
「あ、あの、着替えをおいて出て行きますから……」
「お、おう、ありがとうな……」
加咲のシルエットが無くなった。
俺は心持ちを整えるのに、少し時間を要した。
リビングに入ると、加咲は落ち着かなそうにうろうろしていた。
「加咲、出たぞ……」
「あ、は、はい」
加咲は俺と目を合わさずにうつむきながら風呂場に向かう。
あの反応だと、やっぱり俺の股間は見られていたかもしれない。シャワーから出た後は、とっとと退散……したいところだが、制服が乾かないことにはそういうわけにもいかないしな。
ハンガーラックにかけられた俺の制服を触ってみる。まだ湿っているようだ。もうちょっとここにいなくてはいけないだろう。
俺はリビングのソファに座る。他人の家だしお行儀よくしていなければならない。心情的にはかなり落ち着かないけど。
それから五分ほど経ち、リビングに加咲が戻ってきた。
加咲は部屋着と思われるTシャツを着ており、ラフな格好だ。ただ、あまり頭を拭いていないらしく、髪には水気があり、まだ少し「水も滴る」色っぽい雰囲気が漂っている。
「あ、あの、戻りました」
「ああ……」
「……」
「……」
加咲は部屋に入ってきてから立ったままだ。黙った状態でそうされると、余計に気まずい。
「と、とりあえず座れよ」
「は、はい」
加咲が俺の隣に座る。
座れとは言ったが、このソファで俺の隣に座れ、と言ったわけではなかった。普通にテーブルの前にあるダイニングチェアに座るかと思っていたのに。
「……」
「……」
加咲を横目で見る。
加咲は伏し目がちだ。こいつは前髪を目元まで伸ばしているので、その姿勢を取られると表情とかがよくわからない。
ただ、発せられる雰囲気から俺と同じく気まずい思いをしているのはわかった。
「雨……止まないな」
雨粒が打たれる窓を見ながら、とりあえず、当たり障りのない会話を始めた。
「そうですね……」
「……ありがとうな、この服」
「……ちょっと小っちゃかったですね」
それは仕方ない。むしろ俺に合うサイズの服が、一般家庭においてあるとは思えん。
「俺がデカすぎるだけだ」
「はい」
しかし、会話の糸口を見つけて、ようやく、話らしい話ができる雰囲気になってきた……
「とりあえず貸してくれてありがとうな、これがなかったら、裸で……」
「……」
「あー……とにかく、ありがとう……」
「は、はい……」
……せっかくいい感じになったと思ったのに、口が滑って墓穴を掘った。なぜ調子に乗ってしまったのか。
「……制服、乾いたら俺は行くから」
俺は立ちあがって、ハンガーにかけられている制服を触る。
まだ乾いていない。でも、湿っているレベルだし、着ていれば俺の体温で乾くと思う。
これなら着ていけるだろう。
この気まずい空気に居続けるくらいならば、これくらいの湿り気は我慢できる。
「……せ、先輩!」
「な、なんだ?」
「……ほ、本当に覗くつもりはありませんでした!」
「いや、気にするな! あれは事故だ!」
加咲はテンパりすぎて興奮しているようだ。フーフーと荒い息遣いをしている。
「あ、あの、とりあえず、ど、土下座を……」
「しなくていい、しなくていいぞ! 加咲、本当に気にするな!」
加咲がフローリングの床にぺたりと座ると、そのまま床に手を付けた。
「で、でも、先輩のその……見てしまったから……」
くそ、何をやっているんだ俺は。先輩の癖に後輩にここまで気を使わせるなんて。加咲は勢い余って土下座までしようとしているんだぞ。
それこれも俺がいかにも「気にしてます」って態度をとっているからこうなるんだ。素っ裸を見られることがどうした、減るもんじゃないんだし。
「気にするな加咲、俺は全く気にしていないからな!」
「ほ、本当……ですか?」
「本当だとも!」
俺はスウェットの上を脱いだ。
上半身裸を晒す。
俺もだいぶテンパっているのかもしれない。いや、もはや冷静になどなっていられるか。加咲のために文字通り一肌脱ぐのだ。
「せ、先輩、何を……」
「俺は全然気にしていないということだ! 分かってくれたか!?」
「わ、わ、わかりましたぁ……」
俺の勢いに押され、加咲は呆けるように頷いた。
「わかってくれてうれしいぞ!」
「は、はい……あの……」
「うん?」
唐突に加咲がTシャツをめくり上げる。
ブラジャーに包まれているとはいえ、生の豊満な胸が俺の目の前にあらわれた。
「わ、私も脱いだ方が良いでしょうか!?」
「な、なんでそうなる!?」
「だ、だって、先輩が脱いでるし私も……」
なんだその理論は!?
ただでさえいっぱいいっぱいの俺は、さらに混乱した。なぜ俺が脱いだら加咲も脱ぐことになるんだ。
ガチャ
リビングの扉の方から音がする。そちらの方を見ると、サッと影が移動したように見えた。
俺は立ちあがって、ゆっくりと扉の方に近づくと、そっと扉を開ける。
「……何やってるんですか? 満さん」
下の喫茶店のマスターであり、加咲たわわの母親、満さんがまるでスパイのようにリビングの外の廊下の壁に張り付いていた。
「……えっと、二階で物音が聞こえたからちょっと見に来たんだけど……」
確かに俺たちは大声で会話をしていた。結構うるさかっただろう。
「それなら何で隠れるんですか……?」
「二人の邪魔をしないようにと思って……」
何だ邪魔って、騒いでいたけど別に何もしてないぞ。
「……わ、私の事は気にしないで、どうぞうちの娘のことは好きにしてください」
「……別に何もしてないですからね?」
加咲……たわわのことは好きにもしません。いや、あの巨乳を好きにしたい気持ちはあるのは事実だけども。
「と、とにかく俺は、服を乾かさせてもらっているだけですから、服が乾いたら帰りますから」
満さんが残念そうな顔をする。何でそんな顔をするんだ。
「あの、何かありました、先輩……え? お母さん?」
何事かと思ったらしく、たわわも扉の所に来た。
満さんは気まずそうにハハハと笑った。
それから、俺は制服が乾き次第、加咲家を出た。厚意で傘も借りた。
もちろん、加咲とは何もしてない。するわけがないのだ。