壁ドン(秋名)
『目を背けるなよ』
『で、でも……』
『お前が好きな男が目の前にいるんだぜ?』
『うん……』
「はあ、萌えるわ~」
私はスマホを胸に置く。
自分の部屋で、ベッドに寝っころがりながらスマホでウェブ漫画を見るのが最近の私の趣味だ。よく読んでいるウェブ漫画の中でも、特にお気に入りのやつが更新されていたので早速読んでみたが、やはり私好みの展開になっていた。
内容自体は「強気な男に強引に迫られる」というやりつくされたシチュエーションだけど、絵の上手さと登場人物のキャラが私のツボを突いてくる。
特に今回の話の『壁ドン』は実に良い。それがあったか、という感じだ。
私はこの漫画のヒロインの立場に立って妄想する。
迫ってくる男の子役は……ここは玉城先輩でいっておこうか。
放課後の教室、夕焼けに照らされ、壁に追い詰められる私。
『おい、秋名、もう逃げられないぞ』
『た、玉城先輩、で、でも……』
『何で逃げるんだ? お前が好きな男が目の前にいるんだぜ?』
玉城先輩はそういうとおもむろに制服のズボンを下した。
玉城先輩のボクサーパンツは股間を強調するもので、とてもセクシーなものだった。
『ダ、ダメです、先輩……こんなところで……』
『どこだって一緒だろ、秋名、脱がしてやる』
『そんな……先輩……』
……なんつってね。
私は妄想から現実に戻ってきた。
なぜか私が妄想すると、オチが大抵エロくなる。やっぱり欲求不満なのかもしれない。毎日オナニーはしてるんだけど足りないか。
まあこんな妄想をしても、結局現実にはならないんだけどね。先輩がせめて肉食系とかだったらよかったんだけど……まあ、肉食系男子なんてそれこそ漫画の中とかにしかいないんだけどさ。
女子ならば、やっぱり男から迫られる、みたいなシチュエーションは一度は妄想するだろう。ラノベとか漫画とかでは『押しかけ旦那』から話が始まるなんてよくあるパターンである。
先輩がもし押しかけ旦那だったら……先輩は見た目の割に甲斐性があるから、押しかけ旦那になってくれたらマジで最高なんだけど。
まあ、それはさすがに高望みしすぎかな。今でも充分女子にとっては都合のいい先輩だし。
でも押しかけ旦那は無しにしても、壁ドンくらいなら実際にやってみてほしいところだ。
先ほどの妄想でもやったが、先輩が壁ドンで迫ってくれたら……ちょっと興奮しちゃうかも。あの低音ボイスと高身長だ。壁ドンするために生まれてきた、と言っても過言ではない。
私はガバリと起き上がる。思い立ったが吉日だ。私は早速先輩に『壁ドン』をさせるための計画を練り始めた。
次の日の昼休み。昨日の夜、練りに練った計画を実行する時が来たのだ。
「壁ドンって良いですよね~」
玉城先輩がお昼ご飯を食べ終えた頃合いを見計らい、私はそれとなく呟いた。
玉城先輩がチラリとこちらを向く。
目が合った。
玉城先輩が首を傾げて、目を背ける。
いい具合に私の事を注目してくれたようだ。このまま一気にたたみかける。
「壁ドンってね~」
「……」
「壁ドン……て、良いものなんですね~」
「……」
玉城先輩がまたこちらを見た。今度は明らかに眉をひそめている。
いいぞ、計画通りだ。
これが私の計画、『さりげなく壁ドンアピール作戦』だ。
体育祭の時でもそうだったが、最近の玉城先輩はちょっと女子に対して耐性を身に着けてしまったようで、以前のように「やって」とお願いしても、なかなかやってくれないようになった。
なので、今回はからめ手で行く。向こうの方から話題を振ってくれるよう、わざとらしく壁ドンをアピールするのだ。最初こそ先輩は気のせいだと思うだろうが、段々と先輩の深層心理に『壁ドン』が刷り込まれていき、最終的には壁ドンの事しか考えられなくなる……いわゆるサブリミナルというやつである。
「壁ドン、壁がドン……ふむ、良い……」
「……」
「壁♪ 壁♪ 壁♪ ドン♪」
「……」
私がリズミカルに言ってみると、先輩が横目でこちらを見ていた。
刷り込みが出来ていると考えているといいだろう。
後はたたみかけるだけだ。
「あ、一句出来ました、壁ドンは、とてもいいもの、やってほしい」
私は先輩の目を見ながらトドメの一言を言った。
玉城先輩は「仕方ねえなあ……」みたいな顔している。
「おい、秋名、その壁ドンってのはなんだ?」
「あ、先輩、聞こえてました?」
計画通り。私はとぼけた顔をしながら、心の中でほくそ笑んだ。
「聞こえていたけど、どうしたって?」
「壁ドンですよ、壁ドン、今のトレンドなんですから」
ちょっと大げさな言い方だが、確実に流行の兆しは来ている。『壁ドン』と言えば、一昔前は「アパートとかで隣の住人の生活音がうるさい時に大きな音を出すこと」だったけど、今では完全に意味が変わってきている。
「意味が分からん、お前一人暮らしでもするのか?」
「え?」
先輩の言葉の意味が一瞬わからなかったが、すぐに合点がいった。
先輩は昔の言葉の意味で『壁ドン』を使っているようだ。
「あー、もしかして先輩、壁ドン知らないんですか?」
「壁ドンくらい知ってるぞ、壁を蹴って隣の住人を威嚇するアレだろ」
「違いますよ~、先輩古いですね~」
私が軽口を叩くと、先輩が私の頭をチョップした。
「痛いです……」
「自業自得だ、で、その新しい壁ドンってのはなんだ?」
「新しい壁ドンはですね、女の子を壁に追い詰めるんですよ」
「誰が?」
「男の子がです」
先輩は頭にハテナマークを浮かべた顔をしている。
「……それで追い詰めて、何をするんだ?」
「男の子が壁をドンと叩きます」
「……それで?」
「それだけですよ」
先輩の頭の上にあるハテナマークが増えた。そんな顔をしている。
そういえば聞いたことがある「壁ドンの素晴らしさは男の人にはわからない」って。
やっぱり『男の子から迫る』っていう発想が、そもそも男にないからだろうか。
「どうせまたお前、適当なこと言ってるだろ」
「いや、言ってませんよ! 本当に壁ドンってしらないんですか?」
どうやら先輩は、「私が嘘をついて先輩の事をはめようとしている」と考えているらしい。
失敬な。先輩が流行に疎いだけで私は嘘などついていない。そもそも私がなぜ敬愛する先輩に対して嘘をつかなくてはいけないのか。私は先輩に対して嘘をついたことなんて……まあ、何回かはあるかもしれないけど、でも今回の壁ドンは嘘じゃないし!
「加咲も知らないだろう?」
先輩が半笑いで咲ちゃんに話を振った。完全に私を疑ってかかっている。
「ごめんなさい、知ってます」
「え?」
しかし、現実を突き付けられ、先輩はすぐに驚愕の表情になった。
「……さっきの秋名の説明は?」
「合ってます」
「……トレンドっていうのは?」
「トレンドかどうかわかりませんけど、でもアニメとか漫画とかではよくあるシチュエーションだと思います」
愕然とする先輩を見て、私は勝ち誇る。
「先輩、すぐ私を疑うのは良くないですよ、悪い癖です」
先輩が悔しそうな顔をこちらに向けた。そんな屈辱にまみれた顔も可愛いですよ、先輩……なんて、ちょっと女王様っぽい事を思ってしまった。
「で、その壁ドンとかいのうがどうしたのか? まさか俺にやってほしいとか言うんじゃないだろうな?」
「そのまさかです!」
計画は無事に完遂した。さあ先輩、いつでも壁ドンをどうぞ!
「……」
しかし、先輩は壁ドンをしようとしない。ここまで完璧に壁ドンを刷り込ませたのになぜだ。
「先輩……もしかしてやってくれないんですか?」
「……」
先輩は踏ん切りつかない様子だ。
仕方ない。ここはプランBに移行しよう。第一矢の『刷り込み作戦』が上手くいかないことも考慮し、二つ目の作戦も考えていたのだ。
「いいじゃないですか、減るものじゃないんですから、ちょっとだけやって下さい、ちょっとだけ」
プランBの作戦名は『拝み倒し作戦』。とにかく拝んで拝んで先輩をその気にさせちゃおう、という作戦だ。
今までの経験上、玉城先輩はこの方法で私のお願いを断ったことがないので、最終兵器かつ、必殺の作戦である。
「……いや、やる分には別にいいんだがな」
よし! やっぱりこの方法は百発百中だ。
「じゃあ、やっちゃいましょうよ~、大丈夫ですって、本当に壁ドンしてくれればいいだけですから」
「……わかった、そこまで言われたらやるけど、本当にそれ以外のことはやらないからな?」
「はい、大丈夫です、やっちゃってください!」
なぜかまだ先輩が警戒しているようだけど、壁ドンをしてくれるのなら何の問題もない。
私は立ち上がって部屋の壁まで来ると、カモン、と玉城先輩を招く。
玉城先輩は面倒くさそうに立ちあがって、私のもとまで来ると、壁をグーで、ドン!と叩いた。
「……」
「……」
見下ろす先輩と見上げる私。
無言のこの状況。
ドキドキしているか、と問われれば「している」と答える。だけど、このドキドキは私の想定していたものじゃないと思う。これは、なんか壁を叩く音が単純に大きくてビックリしたのと、先輩が私を見下ろす時の顔が結構えぐかったせいだ。
「……なにか違いますね」
私は首をかしげた。今の私は興奮ではなく、恐怖によって心臓がバクバクいっている。
おかしい、こんなはずじゃなかった。
「俺は言われ通りやったぞ」
「そうなんですけど……なんだか想定していたのと違うんですよね」
「そもそもどういうのを想定したんだ?」
「うーんと……」
何がいけなかったか……あのマンガの状況を思い出してみるに、男の方は、女子に対して言葉で迫っていた気がする。
「あ、そうだ、先輩、もっとオラついてくれませんか」
「オラつく……?」
漫画の男子の、あの言葉責めを表現するワードが上手く思い浮かばなかった。でも「オラつく」でわかってくれる……と思う。
「はい、この状態でオラついてみてください」
「……オラつく、か……」
先輩は少し考えた後、私を睨みつけながら言った。
「……おい、秋名」
「は、はい……」
「金を出せ」
先輩にカツアゲされた。
……何を言っているんだ、先輩は。
どうやら先輩は私の意図を上手く汲んでくれなかったようだ。セリフも相まって、今の先輩は完全に『やから』である。漫画とかに出てくる序盤のやられ役みたいな感じだ。
「……先輩、違います」
「え? 何が違うんだ?」
「オラつくってそういうことじゃないです……いや、これは私が間違えましたね、オラつくって表現を間違えました」
「お、おう……」
そもそも『先輩が壁ドン』を知らなかったという事実を忘れていた。そんな先輩にオラついて下さい……なんてお願いしたら、カツアゲしてくる不良になってしまうのは仕方ないだろう。
なんと言えばよかったのか……「オラつく」をもっとソフトな言い方にすると……高飛車? 違う、なんか見下されるだけってのも嫌だ。ただ、強気な感じは残してほしい。
「もっとこう……強気になってほしいんですよね」
「オラついたぞ」
「そういうんじゃないんですよね……もっと私に愛を持った状態でお願いします」
「愛……?」
ただオラつくだけなら普通の脅しになってしまう。そこに愛のエッセンスが加われば、私の望むものに近づく気がする。言って欲しい言葉を私が口答で伝えるっていう方法もあるけど……ただ、それは私に言わされているだけで、多分興奮しないし……
「……Sな感じにやってくれればいいんじゃない?」
「そう! それ! 咲ちゃんナイス!」
私が考えあぐねていると、咲ちゃんが絶妙な助け舟を出してくれた。
そう、『S』な感じだ。
『サディスト』とは、『ヤンキー』、『わんこ系』、『無愛想』などと並ぶ女の子の人気の男子属性の一つである。ちなみにここら辺は乙女ゲーオタクの咲ちゃんに語らせると止まらなくなるが……。
「先輩、Sな感じでお願いします!」
「Sって……ようはいじめる感じでいいのか?」
「そうです! ちゃんと愛を持ったSでお願いしますよ!」
玉城先輩はヤレヤレと肩をすくめ、改めて壁を叩いた。
「秋名……」
「は、はい……」
玉城先輩が見下すように私を見る。でも、その口元は微笑を浮かべていた。
今、いい感じの雰囲気が出始めている。
「お前の事を……いじめてやろうか?」
「……」
先輩の良く通る低音ボイスが、私の耳を通って、直接脳内に届いたようだった。
「……先輩」
「うん?」
「それですよ!」
「お? おう……」
私が求めていたものに限りなく近い。高身長男子にいじめられるなんてむしろご褒美じゃないか。表情も何かSっぽかったし。先輩の顔の怖さもここではむしろプラス要素だ。それに低音ボイスもかなり良かった。
「さあ、先輩、もっとお願いします!」
「……もっと?」
「はい、ドSな言葉をお願いします」
「……気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ」
「あー、いいですねえ、いいですよ!」
先輩も調子でてきたようだ。ちょっと突き放す感じになるのもツボを心得ていてグッドだと思う。
「……この変態が」
「はあ~、それもいいですね」
直接的な罵倒。罵倒なんだけど……でも、その言葉にも『愛』がある。私にはわかるのだ。
「……お前は本当に仕方のない奴だよ」
「はい……」
「……セクハラ女め」
「……」
先輩に呆れられてる。先輩の冷たい目に睨まれ、背筋が冷えてきた。先輩に見捨てられてしまうのでは……一瞬そんな錯覚に見舞われて、先輩を見つめ返してしまった。
「……でもまあ、そんなところも嫌いじゃないぞ」
先輩がボソリと呟いた。その優しい声は小声だったけど、しっかりと私の耳に届いている。
ビリビリと股間から背筋に向かって電流が走ったようだ。この絶妙な緩急、一体先輩はどこでこんなドSの所作を身に着けてしまったのか。
私は先輩の胸を無遠慮にバシバシ叩く。この感覚は言葉にならない。
「……秋名、この辺でいいか」
「……先輩」
「うん?」
「これはお金がとれますね……」
その名も壁ドン屋さん。いじめてほしいMっ気女子たちには大人気だろう。もしかしたらもうすでにあるかもしれないけど、玉城先輩ならば、そんな他の壁ドン屋さんたちを周回遅れにして、ぶっちぎりで売れると思う。
先輩が呆れ顔のまま、壁から離れた。
「えー、先輩、もう終わりですか?」
「終わりだ」
先輩は白けている。先ほどの壁ドン、別に先輩は興が乗っていたわけではないらしい。その気じゃなかったのにあそこまでSの演技ができるなんて、逆にすごいと思う。やはり、先輩には壁ドンの才能がある。
「もう一回、もう一回だけお願いしますよ、先輩……」
「うーん? それなら……千円」
「え」
「金がとれるんだろ? 千円だ」
「……」
先輩ってこういうことを言わないタイプだと思っていた。
千円……結構デカい金額だ。支払うのを躊躇してしまう。いや、しかし、先ほどの壁ドンのビリビリする感覚はもう一度味わいたい。
そのためなら千円も……仕方ないか。
「じゃあ、千円で……」
私は財布を取り出して、中からお札を出した。
そんな私を見て、先輩が慌てたように言う。
「バカ! 本当に払おうとするやつがいるか」
「……だって、先輩が言ったんじゃないですか」
先輩にバカ呼ばわりされる筋合いはない。先輩が先に言い出したことだし。
先輩は私の財布を取り上げると、強引にお札をむしり取り、財布に戻した。
「……こんなもんタダでやってやるから」
「本当ですか?」
「本当だ」
どうやら先輩的には冗談のつもりで、「千円」を要求してきたらしい。もう、分かりにくいんですよ、先輩。
「それじゃあ、お願いします!」
「……」
先輩は面倒くささとあきらめが混ざったような顔をすると、もう一度の壁ドンの姿勢になって、私を見下ろした。
「……このバカ」
「はい……」
「……お前は本当にバカだ」
「はい……」
「……でもそんなところが可愛いな」
「……!」
呆れられつつもそれを肯定して褒められる……『落としてから上げる』
よくあるやつだけど、でもそれは私にクリティカルヒットした。
最高じゃないか。これからも先輩はこのスタンスで私と接してほしい。
「玉城先輩……」
咲ちゃんが先輩に話しかけた。その手には千円札が握られている。
どうやら咲ちゃんも壁ドンが『欲しい』らしい。咲ちゃんは私よりもマゾッ気あるし、私と違って身もだえするだけじゃ済まないだろう。
私達は、昼休みが終わるまで、この新しい遊びを大いに楽しんだ。