後
「なんて言ったかな。……そうそう、《幻夢の世》だったか。パセリ、あんたはまだそんな夢物語にふけっているの?」
煌めく夏は既に過去、暑さは収まり寂しげな風が吹くようになったある日、ドリガルは私に言った。教室には放課後の喧騒が日常の象徴として賑やかに木霊する。
「もういい加減大学決めないとまずいですよ。先生にも怒られたんでしょう?」
エスタシアは心配そうに私を見上げる。
私は曖昧に返事を返すことで、さっさとこの話題を切りあげる。これで何度目だろうか。振ってほしくない話だとわかっているはずなのに懲りずに持ちかけるこの友人たちには呆れを通り越して感心すら覚える。その反応から私に話をする気がないと汲んだ彼女らは憤慨、または憂慮の相を浮かべるが、私は相手にせず教室を出た。追ってくるかと思ったが、彼女たちはそんな愚は犯さなかった。
変化、流動、風の如し。人生とは風のように変わっていくものだ。一つどころに留まらず、常に流れて行く。十年百年を通して同じ生活を続けることは不可能である。それはまるでイタクァの御業、ハスターの悪戯のように私の過去を吹き流して行った。私にはディルムッドとのひと時が人生の全てだった。他の何を飛ばされても構わないが、それだけは取り上げられるわけにはいかない。だから家から近くエスカレータ式で高等学校まで行ける金畑学園を選んだ。しかしこの町の周囲には私の学力で入れるような大学はなく、もし進学するというなら遠く離れた地で独り暮らしをしなくてはならない。それは結果的に私とディルムッドを引き離す行為でしかない。そんな未来を選ぶことなどできない。だから私は将来という不確定で無慈悲なものに興味はなく、《幻夢の世》とディルムッドに寄りそっているのだ。願わくは、《幻夢の世》へと行くことができればこんなに嬉しいことはない。
学校を出た私はその足でディルムッドに会いに行った。初めての出会いから数年たった今でも、週に二、三度は会合の時を得ている。灼眼の騎士は相も変わらず扉の前にいて、私を迎えてくれる。私は彼に今日の出来事を話した。友人によるものいいは少なからず私の心にダメージを与え、誰かに聞いてもらいたかったのだ。彼はやはりいつも通り静かに耳を傾け、話が終わってもしばし動くことはなかった。燃える双眸は閉じられ、ヘルムのスリットは光を吸い込むブラックホールのように冷たく空虚で、私自身も飲み込まれてしまうのではないかと言う妄想を抱かせた。彼から目を背け、まぶたを閉じる。金属が擦れる音がなくなったこの場所は風に揺られる草木のざわめきしか耳に入らない。まるでここには私以外何もいないのではないか、という恐怖にかられるが、眼を開けるとやはりいつものようにディルムッドはそこに佇んでいた。今までもこのように、時折彼はあらゆる活動を放棄したように動かなくなることがあったが、今回は半刻も続く長い活動停止だった。彼に触れても冷たい金属の感触が手のひらに伝わるだけで彼に反応はない。ヘルムを取って素顔を拝見してやろうかと悪魔的な誘惑が頭を掠めるが、それは彼に対する冒涜で背徳的な行為だ。今まで築き上げてきた信頼関係を一瞬のうちに崩し去る愚かな行動だ。それは私の望むところではない。仕方がないから、私は独り草の上で仰向けに寝転ぶ。そろそろ風の冷たさが暴力じみてくる季節なので、せめて暖かい西日の差す場所を選んだ。あらゆるものが私の頭を駆け巡る。友人。家族。学校。進路。将来。未来。現実。理想。夢。《幻夢の世》。ディルムッド。私の将来には希望という希望はなく、絶望する絶望はない。未来は現在の延長でしかなく、私の現在はディルムッドに縛られていた。私にとってこの異世界の騎士は、友であり兄であり、父であり先生であり。恋人であった。そんな彼と離れることは我が身を引き裂くに等しい暴挙である。
いつの間にか眠っていたのだろう。秋虫の奏でる耳障りな合唱に目を覚ました。陽は既に地平の彼方、夜の帳が下りている。そろそろ家に帰らなくてはならない、とディルムッドに挨拶をしようと思ったが、彼の姿が見当たらない。暗い中でも巨大な門の存在感は圧倒的で知覚するのに難くないが、やはり彼はどこにも感じられなかった。異世界へと通じる門だけが残された丘は画竜点睛を欠く風景で、大切のものが足りない気持ち悪さしかなかった。途端に私は世界から見捨てられたかのような錯覚に陥った。お前はこの場に必要ない人間だ。お前はこの場に相応しい人間ではない。お前は彼に相応しい人間ではない。お前は夢に至る資格はない。
何者かにそう言われているような気がして。どれだけ彼を求めても彼は居なくて。彼にも見放されたのだと気付いてしまって。涙も流れぬ嗚咽ばかりが溢れて来て。
気持ちが落ち着いてきた頃、顔を上げるとそこに暗闇に浮かぶ灼眼があった。常と変わらないその姿。求めていた彼の姿に私は心の底から安堵した。また戻ってきてくれたのかと、彼に抱きついたら堰を切ったように涙が流れだした。泣きわめく私に、彼は何も言わずに寄りそっていてくれた。
どれほどそうしていたのだろうか。月の光が私たちのことを照らしていた。ディルムッドは私に向き直り、一本の鍵を手渡す。何の飾り気のない、無骨なデザインだったが、月明かりの下にかざすと銀色に輝いた。これぞまさに《彼我の門》を開くための銀の鍵だと彼は言う。時が来れば私の前に門が現れ、《幻夢の世》へと連れて行ってくれるのだ。
その時は、近い。
ディルムッドに託された銀の鍵を制服のポケットに入れ、気の進まないまま学校へと向かう。今日は担任との面談があった。放課後になると進路指導室に呼ばれ、高尚なお話を拝聴する。自分自身を見捨てるな、自分の将来なんだぞ、君は馬鹿をやっている連中に比べるととても優秀だ、そんな奴らにできたんだから君にもできる、もう一度よく考えるんだ。
我慢の限界だった。何故そこまでして私とディルムッドを引き離そうとするのか? 私は彼と一緒にいたい。それだけだ。それ以外は何も望まない! 立ちあがって椅子を蹴飛ばし、歩き出す。担任が何かを言っているが私には何も聞こえない。別の先生が私を停めようとするが、それも無視する。追ってくる先生を撒くために校舎内を迂回してから教室へと戻ると、話を聞いたらしいドリガルとエスタシアが私の行く手を阻んだ。やはり何かを言っていたが彼女たちを突き飛ばすことで道を開いた。昇降口に向かおうとしたが、そこには先程の先生が待ち伏せしていた。ここで出て行ったら有無を言わさずに捕えられてしまう。私は校舎内で時間を潰すことにした。
人気のなくなった校舎。潜んでいたトイレから抜け出すと、いつもの学校とは違った感覚が襲った。ぬるぬるとした温かさ。ふと思い至って銀の鍵を取り出す。鍵は仄かに輝いていた。近くに《彼我の門》がある。何故かそう感じた私は、あの時と同じ、そう、何かに導かれるように、あるいは何かを求めるように階段を駆け上がって行く。屋上への扉は簡単に開き、すんなりと外に出られた。そこはまさに、異世界と表現するに値する風景だった。数十ものこの世ならざる鎧を纏った騎士が二列に並び、手に持った槍を掲げてアーチを作りだす。アーチの先、屋上の先端のフェンスの向こうには、あの丘にあるはずの《彼我の門》が浮かんでいる。突然のことに絶句していると、隣に剣を携えた騎士がやってきた。ディルムッドだ。彼は私の手を取ると、アーチの中を先導する。私は彼に何が起きているのか問うた。彼は答えた。私は選ばれたのだ、と。
周囲の騎士は祝いの言葉を投げかける。私が一歩進むごとに門は少しずつ開いていく。私のために、開いていく。
ああ、ついに、ついに想いが実った。これほど幸福なことはない。
屋上の端、フェンスの前に立つ。ディルムッドは腰に帯びた剣を抜き放ち、一刀の下私の旅立ちを阻害する障害を断ち切った。
私は歩く。完全に開かれた門は、私のことを受け入れてくれた。向こうの世界の光が私を包み込み、浮遊感にも似た感覚が私の身体をすみずみまで支配してゆく。
これが、幸福。
これが、夢の世界。
行こう、私の愛しきディルムッド。
私はそちらの世界と縁を切り、こちらの世界へと至った。
「今日午前七時頃、私立金畑学園高等部の校舎傍で女子生徒が頭から血を流し倒れているのを教師が発見しました。教師はすぐに救急と警察に通報しましたが、救急隊が駆け付けた時には既に息はなく、死亡が確認されました。屋上のフェンスが破られており、そこから転落したものと見られています。警察は、クラスでいじめ等がないかを校長や担任に話を聞くと共に、事件と事故両方から捜査を進める方針です。………続いてのニュースは――――」
了




