貴方に向けた、最後の願い
ーーああ、やはり。
その光景を目にした瞬間、胸をよぎったのは慣れ親しんだ諦念と心の奥底まで凍りつくような深い哀しみ。
誰よりも愛したその方は、わたくしではない別の女性に、愛を囁きくちづけていました。
両親にとって、わたくしは不出来な娘でした。
年の離れた兄たちほどの優秀さも、花や宝石に例えられる姉たちのような美貌も、身に備えぬ出来損ない。強い権力欲を持つふたりから見て、大した価値のない弱い手駒。
幼い頃から向けられた冷ややかな視線は、何よりも雄弁に彼らの内心を語っていました。
寂しくて、愛されたくて、どうしようもなかった幼い日。
人目につかない裏庭の木陰で、隠れるように泣いていたわたくしに手を差し伸べてくれたのは、従兄である彼だけでした。
彼は優しかった。
彼は温かかった。
彼はわたくしを守ってくれた。
孤独だったわたくしが彼に恋をするのは当然の流れで、幸運にも彼もわたくしを選んでくれて。このままふたり手を繋いだままで、一生を過ごせるのだと思っていました。
それなのに。
ひとりの少女に出会ったことで、彼は変わってしまいました。
最初は些細なすれ違い。約束を忘れてしまったり、一緒にいるのにぼうっとしていたり。そのうちあからさまに彼女を優先し始め、わたくしをその目に映すことも、その声で呼んでくださることもなくなり。
そして、今。わたくしの目の前で、ふたりは恋心同士のように抱きあい、熱いくちづけを交わしています。
…………彼の隣に立つのに相応しい人間になりたくて狂いで努力した結果がこれだと言うのなら、わたくしはどうすれば良かったのでしょう。
ただ無力であり続ければ、側に居てくれたのですか?
初めて出会った頃のように、何も出来ないわたくしであれば、隣に居てくれたのですか?
わたくしは彼が好きでした。
だからこそ、彼に守られるだけの人間にはなりたくなかった。共に歩んで行ける人間になりたかった。
けれども彼は違ったのでしょうか?対等な存在が欲しかったのではなく、ただ庇護するだけのわたくしを、望んでいたのでしょうか?それは同情とは違う感情だったのでしょうか……?
…………わたくしの目の前で彼が笑います。
わたくしに向けていた慈愛に満ちた笑顔ではなく、隠しきれない喜びの滲んだ幸福そうな笑顔で、笑います。
上気した頬。緩んだ眦。きらきらと輝く少年のような瞳。
いままでに一度も見たことのない、表情。
気がついたら、わたくしは泣いていました。
視界が滲んでふたりの姿が上手く捕らえられないくてーーようやく自分が泣いていることを自覚しました。
ーーああ、やはり。
……わたくしでは、駄目だったのですね。
わたくしでは、彼を幸せにはしてあげられないのですね。
どれだけ彼を想っていても、心を満たしてはあげられないのですね。
それでは出来ることはたったひとつしかありません。あのとき彼が繋いでくれた手を、離してあげられるのはわたくしだけです。
嗚咽をこらえ、息を吐きます。
ぐるぐると胸中で渦を巻く醜い激情を、自らの内で少しでも消化出来るように。
説明もなく裏切られた怒り。
愛されている少女に対する嫉妬。
彼の心が離れて行くことへの哀しみ。
さまざまな感情が胸をよぎりーーそれでも、最後に残るのは祈りも似た願いでした。
ーー幸せになってください。
貴方が与えてくださった愛情の分も。わたくしを守ってくださった時間の分も。
誰よりも誰よりも、幸福になって欲しい。
それがわたくしの、貴方に向ける最後の望みなのです。