寓話
俺たちの国で 好き勝手 気儘にふるまう 神々の 寓話
『たいていの社員様はムシなさいます』と羽柴は言う。
『あるいは、私めの接近にお気づきになられて、一瞬だけ私めのほうへチラリと視線をお持ち遊ばされますが、すぐに視線を戻され、少し表情を綻ばせて「ニヤリ」となさってから、元のスマホいじりなり、御友達様とのご談笑なりに戻られます。
私めは挫けずに、「お靴を磨かせて下さい」と、先ほどより少しだけ大きな声で繰り返します。
もちろん膝を地面に付けた四つん這いの姿勢です。御足許に縋りつかんばかりです。
社員様のお許しが無いと、お靴様には指一本触れることはできません。当たり前で、改めて言う間でもない事ですが、そんなことをしたら、ドロボウ・空き巣と同じです。社員様方がお履きになられているお靴様は、まぎれもなく社員様方各々様の掛け替えのない御財産で、つまり尊い存在なのです。勝手に触ってはいけません。
お人にもよりますが、だいたい、2~4回「お靴を磨かせて下さい」とお願いしますと、御返事を頂けます。
お返事のなされ方も、またお人によってまちまちです。
「いらない。あっちへ行ってろ」と仰ることは、まれです。日本人奴隷には、そんな長い韓国語は不要なのです。というか、もったいないんです。言うまでもなく、韓国語はこの世でいちばん高貴で美しい言語ですから、社員様方も、私めのような日本人奴隷に、その高貴な言葉を浪費されないのです。もったいないですから』
――言葉を使わなくて、どうやって返事するの?
『不許可の場合は、たいてい「シッ・シッ・」と、ちょうど犬に言うみたいに仰るか、それさえも煩雑ですと、私めの肩を、脚を組まれたまま、靴底でもって『グイッ』と押されます。「下がれ」の意味です。
そうされましたら、私めは、「失礼致しました」と謝罪申し上げて、おずおずと引き下がります。
一方、許可の場合は、無言で、私めの鼻先におみ足を持ってこられます。
その尊いお仕草で、私めは、社員様方の心の声―神意―を聞き取るのです。
「いいわよ。磨かせてあげる」。男性社員様なら「磨いていいぞ」といったふうでしょうか。
そのような『天の声』が、私めの心の耳に届くのです。
ときおり「心を込めて磨きなさい」という励ましの御声さえ、聞こえる気が致します。
そうしたら私めは、もう一度「ありがとうございます」とお礼申し上げて、素早く、極力迅速に、お靴磨きを始めるのです』
――KSM東京支社には、女も男もいろいろな人間が働いている。履いている靴の種類も多岐にわたる。大変じゃないのか?
『大変です。もちろん。女性の社員様が多いですが、社員様方にとって、お靴は極めて重要な『おしゃれアイテム』です。『分身』といったら差し支えあるでしょうが、それくらい大切です。私めの命よりも大切だ、といっても、こちらは差し支え無い筈です』
――?? それは言い過ぎだとしても、少なくとも、高価な物ではある。
『お靴様それ自体の物の価値、金額のようのことは、あまり考えないようにしております。一足20万? 30万? もっとでしょうか? 今の日本人には手の届かない高価な代物を、社員様方は履いていらっしゃいます。私めのような者にさえ、その美術的な高尚さは伝わってきます。婦人様のお靴というのは、特に高価なものは、ほんとうに、何というか、うっとりするような美しさなのです。わたくしは、もぅ、うっとりしてしまって、顔を上げることもできないような、社員様のお膝より上を一生目で見れないような、見たら罰が当たるんじゃないかと思うような、何というか、宗教的な恍惚とさえ言っていいようなうっとり感を、計らずも覚えることがあります』
――そんな「うっとり」していたら怒られないか?
『もちろんです。私めはお靴磨き奴隷ですから、お願いしてお靴を磨かせて頂いているのですから、社員様にとっては、さっさと磨いて消えろ!という感じなのです。
それはじゅうじゅう承知しております。私めは幸福感・宗教的恍惚感をグッと抑えて、せっせとお靴磨きに励みます。没頭するくらい集中します。
けど、昔はよく怒られたのです。
集中が足りず、お靴を磨かせて頂ける嬉しさから、つい表情が綻んでしまったり、逆に緊張し過ぎてガチガチになってしまったり…。
お靴様を前に、私めの弱い性根が、よく情緒不安を引き起こしていたのです。
振り返れば、ユリ様とジェガン様にこの仕事の許可を賜ったのが7月上旬で―その日は信じられないくらい天気の佳い日でしたが―それから秋口くらいまでは、よく社員様に「なんで靴を磨きながらニヤニヤしてるの? 変なヤツね」って怒られたり、からかわれたりしていました。
グループで談笑中の社員様方に、順番にお靴磨きをさせて頂いている時などは、私めの醜い態度―ニヤニヤしていたり逆にオドオドしていたり―を口実に、しばしば足蹴にされて玩弄されました。
ここ、見て下さい。傷があるでしょう』
―※彼はそう言って白髪交じりの前髪を上げて額を曝した。5センチほどの古い打痕があった。
『9月の上旬ですが、女性社員様にお蹴り頂いて、賜った傷です。20代前半の、お若い社員様でいらっしゃいましたが、その日、爪先の尖ったお靴を召されていて、血が出ました。
幸いにして、社員様のお靴に血は付きませんでした。
もし、私めの汚い血で、社員様の神聖なお靴を穢したりしていたら、取り返しのつかないことでした。
おそらく社員様にとっては、ただ戯れに私めをお蹴り遊ばされただけですのに―実際、朗らかに笑い声を上げられながらお蹴り遊ばされました―それで私めの血で、お靴様を汚すようなことになっていたら、それこそ万死に値します。
その時、血のにじむ傷の付いた私めの額と、ご自分のお靴の先を交互に見比べながら、その女性社員様が、そう仰ったのです。「私の靴に血が付かなくて良かったわ(笑)。もし付いてたら、即死刑だったね」って。
ほんとうに、もしそうなっていたら、私めなど、額から流れる血が固まらず流れ続けて血の海の中で溺れて死ねばいい。死ぬべきだ。私めはそう思いました…』
――なんかカワイソウ。ひどい扱いだと思う。
『いや、とんでもないです。申し訳ございません。私めは幸せ者です。本当に幸せ者です。
たとえばこんなこともありました。
11月のある日のことです。
私めは、その時、経理部原価課の課長代理様(※)のお靴を磨かせて頂くため、御前に罷り出て土下座し、例の「お靴を磨かせて下さい。お願いします」という哀願の言葉を申し上げました』
―※インタビュアー注;前述のパク課長代理
『課長代理様は、自席の肘掛けの付いた高級椅子に深く凭れられ、午後の始業までの束の間の休憩時間を、ひとり静かに、何か雑誌をお読みになりながら、過ごされておいででした。私めは、おそらく、女性向けファッション雑誌をお読みになられているのだろう、と推察しました。
課長代理様は、僭越ながら、ほんとうにお美しいお方でした。
秋物の、黒のブーツをお召しでした。
私めの、お靴磨きをさせて下さい、という哀願は、しかし課長代理様には届きませんでした。
私めはもう一度、「お靴を磨かせて頂けませんでしょうか。お願い申し上げます」と、課長代理様の御足許に叩頭しました。
しかし二回目も、御返事はございませんでした。
私めは、断念して、おずおずと退去しようとしました。このような際は、額を床に付けたまま、膝を摺って、エビのように後ろ向きに下がり、充分に後ずさってから、四つん這いで回れ右します。すぐ御足許で回れ右して、社員様にお尻を向けるのは、大変失礼なことだからです。
私めがじりじりと半歩後ずさった時、課長代理様が「磨いていいよ」と、不意に仰いました。私めは後ずさりを止めましたが、一瞬、そら耳かと思い、その場に固まってしまいました。
御足許で愚図つく私めを促すように、課長代理様が、私めの頭をブーツの爪先で小突かれました。
私めは「そら耳じゃなかった!」と内心歓喜し、しかしもちろんそのようなそぶりは見せるわけにいかず、恐縮しながら『ありがとうございます! 直ぐにお磨き致します』と元気に言って、顔を上げ、そのお靴様に対峙致しました。
ため息の出るような、お美しいロングブーツが、目の前に聳え立っていました。
私めは椅子の斜め後方から、ちょうど課長代理様の左臀部に向けて土下座しておりましたが、課長代理様は足を組まれたまま、私めの頭を爪先で小突かれる時に椅子を回転させたため、私めが顔を上げた時、課長代理様のお体が、私めに正対しておりました。
顔を上げた私めの目の前には、軸足である左脚のみが聳え立っていました。右脚は、左膝の上に高々と組まれていたので、私めは右足の靴底しか拝見することができませんでした。
おそらく右足の爪先でもって、私めの頭を小突かれたのでしょう。
私めの頭を小突いた後、ゆっくりとおみ足を組みなおされたと思うのですが、私めには、もう何百年も前からそこに屹立しているかの如く厳しい静寂を、その二柱のブーツは纏っておいででした。
私めはそのブーツに、見惚れてしまいました。心を奪われました。
その右足の靴裏に、接吻したいという気持ちが、ダムの水のように、私めの心をいっぱいに満たしていました。
「ん、止まっちゃって、どうかしたの? 早く磨きなさい」という課長代理様の御声が、聞こえた気がしました。あるいは幻聴だったのかもしれませんが、私めは、どれくらいの時間そのロングブーツ様に息をすることも忘れるくらい見惚れていたか分かりません。ようやく私めは我に返って、『失礼致します』とお靴様に向かって礼をしてから、その「御神体」を磨きにかかりました』
――キミは嬉しかったんだね。課長代理『様』の『御』靴『様』を磨くことができて…。それにしても初めて聞いたよ、『御名刺様』以外で、ただの普通名詞にそんな敬称を付けるのを。ましてや靴を『御神体』だ、なんて。
『はい。私めは、今では御靴様を神だと思うことに何の不自然さも感じません。御靴様は私めにとって、女性のおみ足を守り、おしゃれを提供するだけの単なる道具ではなく、もはやそれ自体が神です。そして、それを御履きになる韓国人女性様は、もはや神をも超える存在なのです。
ところで「チョッパリ」の語源をご存知ですか? この言葉ができた当時、日本人がよく履いていた草履が、足の親指とそれ以外の四指とを分けて、あたかも豚のヒヅメのようだから、名付けられた蔑称なんです。
私めは、ほら、今では家の外でも、絶対に靴を履かないようにしています。このように草履を履きます。そのほうが自らに相応しいし、また、『御靴様』に対する敬意、あるいは崇拝心を、自分の心の中に保管できると考えたからです。
話を戻します。
私めはその時、パク課長代理様のお召しになられた御靴様と対面しながら、それに対して込み上げてくる崇拝心と従属願望を抑えるため、必死にお靴磨き奉仕に没頭しました。
ありったけの集中力を動員して、自らに課せられた聖職である「御靴磨き」に、我を忘れようと努力しました。文字通り没頭です。
「今日ね、会社終わりに合コンがあるの。この靴履いていくんだぁ。だからしっかり磨いてね」というパク課長代理様の御声を、だから私めは殆ど聞いていませんでした。聞いているのですが、音の羅列が呪文のように響くだけで、脳内で意味を結実しないのです。
「高かったんだよ、この靴。お前の給料何年分かしらね」パク様が続けられました。
私めは、一瞬、手を止めました。
許されないことですが、靴磨きの手を止めて、パク様の左膝のあたりを見つめました。ブラウンのかかったストッキングに包まれた、神秘的ですらある左膝です。
その膝頭は、ブーツの上縁からかすかに顔を覗かせている小動物のようでした。つまり一個の生命のように、独立し、完結しているようでした。そして冷厳な黒のロングブーツとの好対照で、無性に可愛く見えました。
「お前がたっぷり磨き上げたこのブーツも、どこかのイケメンの手で、どこかのホテルで一瞬で脱がされちゃうかもね。て言うか、私が自分で脱いじゃうかも」
「あぁっ、、」と、私めは思わず吐息を漏らしてしまいました。
パク課長代理様の御言葉に、前後不覚になるほど混乱しました。パニックを起こしてしまいました。
最初のパク様の御言葉は、何とか、脳外に押し止めることが出来ていたのに…。私めは、このような靴磨き奉仕の最中に、そのお靴様の持ち主であらせられる韓国女性様から長い文章を話し掛けられることが、今までに無かったのです。大概の韓国人女性様は、私めの御靴磨きの最中、私めに向かっては殆ど何も仰いません。私めはそれに慣れてしまっておりました。
しかしここにきて、パク様の私めに仰られた事は、どうでしょう?
私めはその時、両手でパク様のブーツに触れていました。左手を、靴側面を守るように添え置き、右手に持った布で丁寧に、甲の部分を擦っていました。
だからパク様の御言葉に、否応無しに、いま、手で握っている『このブーツ』が、単なる物質として、パク様のおみ足を離れ、『どこかのホテル』のベッドの脇の床面に、しわしわになって転がっている様を、想像してしまったのです。
パク様はズルいのです。『こういう話をしたら、こいつはこういう想像をするに違いない』と、神のような完璧な思考で考え抜いて、私めにその話をなさったのです。
そして私の頭脳は、無力で哀れな小鹿のように、その巧妙なワナに囚われてしまったのです』
◆◆◆
「あぁっ、、」羽柴が変な―あまりにも場違いな―巨大な溜め息を漏らしたとき、パク課長代理は右膝の上に置いたファッション雑誌を読み込んでいて、羽柴の異変に気付かないでいた。
ようやくその溜め息を聞いて、『ん?』と思い、視線をファッション雑誌の紙面から、足許にいる小さな日本人青年に移したとき、彼女は初めて、足許の靴磨き青年が、なぜか呆けたように自分の脛のあたりを凝視しながら固まっていることに気付いた。
彼は、まるでメデゥーサ―海の神ポセイドンの愛人で、その瞳を目にしたものを石に変えるという伝説を持つ古代ギリシャの女神―に見入られたかのように、身動きせずに固まっていた。
『なーに? どうしたの? 早くブーツ磨いてよ』パク課長代理が言っても、羽柴は力なく『は、、はぃ』と返事するだけで、先ほどのような集中力がなく、しかも靴磨きをしながら「あぁっ、あぁっっ」と溜め息を漏らし続けている。靴を磨く指先に力がなく、視線が泳いでいる。
『どうしたの? ひょっとして想像しちゃった? 私の言ったこと』
『、、、ぃ、、ぃえ、、、』
羽柴は必死で否定するが、様子がおかしいのは明らかだった。
パク課長代理は膝の上のファッション誌を閉じてデスクの上に置き、前かがみになって羽柴の顔を正面から覗き込んだ。
『ねぇねぇ、しっかり磨いてよ。あのね、秋から冬にかけての合コンってね、ファッションがすごく大事なの。特にコートと靴ね。バッチリ決めていかないと、イケメンくんに注目されないでしょ。
特に今日の合コンに来る男性陣はすごいらしいの。スポーツ選手。もちろん韓国人。しかも全員イケメン。写真見せてもらったから間違いない。
ね、キミの御靴磨きにかかってるんだよ。私が今夜、誰かとベッド・インできるかどうか』
そして右脚―組んでいた上のほうの脚―をちょっと上げたかと思うと、固まっている羽柴の後頭部を上から踏みつけて顔の位置を下げてやり、それから『ほーら、がんばって』と、彼の耳もとで囁いてやった。それだけ言うと満足したように背もたれに深く凭れかかり、彼の目の前に2本の足を揃えて置いた。
羽柴はもちろん童貞だったし、合コンにも行ったことがなかった。彼女の言ったことのほとんどは、『ベッド・イン』という言葉も含めて、想像の中だけの世界だった。
彼は、もう何故か、『目の前のブーツに接吻したい』という気持ちになれなかった。
彼は未知の恐怖に混乱しながらも、いま一度、目の前のブーツを真剣に『神』だと思いなおそうと必死で努力した。―神が与えた、試練の葛藤だったかもしれない。
『先輩、シロに靴、磨かせているんですか?』
羽柴の背中から明るい声が聞こえた。木下ユリの声だった。外での昼食帰りで、同じフロアーの自分のデスクに戻る途中だった。親友のパク課長代理が足許に羽柴を蹲らせているのを見つけて、面白そうだと思って声を掛けてきたのだった。
パク課長代理はユリに応えてにっこり笑い、『今日の合コンお願いね、幹事さん』と言った。
『任せて下さい先輩。お店もメンツも完璧ですから』ユリが答えた。
羽柴にとってそれはもはや天上界で交えられる神々の会話だった。
現実離れした神話だった。
今は背中で見えないが、きっとユリも、驚くほど華美な服装を身に纏い、息を呑むほど玲瓏な靴を履いているに違いない、―そう羽柴は思った。
不意に、ユリが蹲る羽柴の背中の上に腰を下ろした。『ウグッ』と、羽柴が呻き声を上げて、彼の背骨はユリの体重に圧されて弓のように撓った。
『先輩のお靴磨きが終わったら、私のもお願いね』背中の上の女神が、厳かに言った。
『これからは、合コンとか、会社帰りのディナー・デートとかの日は、いつもお前に靴を磨かせてあげるわ』もう一人の女神が言った。
女神は彼の想像さえも支配していた。人間の姿をした神・・・ピカピカに磨かれた、底光りする高価な靴を履いて、連れ立って合コン会場に入っていく神々・・・現人神・・・・・
『うれしいね、シロ。がんばらなきゃ駄目よ』
『はぃっ、、、がんばりますぅ、、』彼の胸部は女神の尻に圧迫されて、まともに喋ることすらできなくなっていた。




