奉職
御靴磨き奉公―朝の部―が終わった後も、彼の仕事は山積していた。
社員様方が昼食に出かけられる昼休みまでに、社屋にあるすべての社員用トイレを清掃しなければならなかった。
あの日―ユリの紹介でジェガンに初めて『お目見え』した日―彼はユリに命じられたのだった。
『ウチの会社で働けば? ボランティアで朝だけちょこっとゴミ拾いするだけより、夜までみっちり働くほうが実になるんじゃない? どうせあの汚いアパートで日がな一日マス掻いて、ハァハァ言ってるだけでしょ(笑) トイレ掃除くらいならやらせてあげていいわよ』
それは羽柴にとって提案というより命令だった。
庇護者・上位者からの厳命だった。
ユリとジェガンは即座に会社の庶務部門に連絡して、羽柴の働き口を確保してやった。ごく簡単な手続きだった。
それで彼は翌日から晴れてこのビルの清掃員になったのだった。
彼は朝の労働が終わると、ようやく遅めの朝食にありつくことができる。
手を洗う暇もなく、誰もいない簡素な休憩室の片隅でコンビニのオニギリを食べる。
朝食に、彼はコンビニのオニギリ以上の金額を掛けることはできなかった。
清掃や靴磨きに使う道具・消耗品を、自腹で購入せねばならなかったからだ。
特にお金がかかったのは、靴磨きに使う消耗品だった。
ツヤ出しクリーム・靴墨・油性ワックス・パレードグロス・アルコール水や布など、靴磨きに使用する消耗品は数多かったが、中でも彼が特にこだわったのは―そして彼に最も高額な出費を強いたのは―靴磨きの最後、仕上げに使用するツヤ出しクリームだった。
彼は最高級のツヤ出しクリームを毎回都内の専門店で購入していた。
毎日毎日のお靴磨きで、(主に)OLたちが纏ったパンプスやブーツに吸い込まれてその表皮の滋養となり、ご主人様方の御召し物にさらなる気品と高貴さとを付与していくツヤ出しクリームの選定に、彼がお金と労力を惜しむ訳がなかった。
彼は朝食代など日ごろの生活費を極力切り詰めて、この最高級のツヤ出しクリームの購入費用を捻出した。
彼はツヤ出しクリームなどの靴磨き用の消耗品に、一日あたりに換算して、800円の出費をした。
それは彼の所得に比して、非常に貴重な、まさに膏血をしぼるような出費だった。
対して彼の食費は、一日平均350円を超えなかった。
◆◆◆
ささやかな朝食の後の、彼のトイレ清掃―午前の部―は、彼の一日のご奉公の中では、どちらかと言うと気楽な部類に入る労務だった。
彼がうけ持つ、カバーしなければならないトイレの数は膨大で、単純な手数の量―カロリー消費の量―だけで言えばもちろんかなりの重労働であったが、彼に言わせれば、『韓国人社員様の御気配―神威―に常時さらされるお靴磨き奉公と違って、トイレ掃除は精神的消耗がぜんぜん少ない』ということだった。『自分のトイレ掃除テクニックを十全に発揮できる素晴らしい機会だ』とも。
彼は社屋内にある33の女性トイレと、27ある男性トイレをすべてうけ持った。
それらひとつひとつのトイレの掃除―洗面台・便器・床・扉・壁の磨きと石鹸水やペーパーの取り換え・汚物入れの中の除去―が終わったら、一か所終わるたびに、彼はもともとの清掃スタッフで彼の先輩である45歳のオバサン―もちろん日本人―に、「終わりました」の報告をする。清掃具合のチェックをお願いし、OKなら業務表にサインしてもらう。
羽柴のトイレ掃除は、ユリやジェガンは言うに及ばず、庶務部門の担当者に対して、報告するのではなかった。
前歯が数本抜けた、器量の悪そうな、パートタイムで働いている日本人のオバサンスタッフに、報告し、チェックしてもらうのであった。
つまり彼―羽柴―は、神々である韓国人基幹社員の直参ではなく、陪臣なのだ。
マタ家来なのだった。
韓国人基幹社員様から直接ご命令を賜るのは―原則的に―恐れ多くてあり得ない、地の底の存在なのだった。
羽柴の代わりに、パートのオバサンスタッフは、空いた時間で今まで以上に綿密に丁寧に、オフィスフロア―日常的に韓国人基幹社員様がおわす場所―の清掃に精を出すのであった。
◆◆◆
昼の部は、再びお靴磨きである。
ただしこれは給料が発生しない、業務時間外の労役だった。
体裁としては、彼(羽柴)が、『御靴磨きの練習のため、韓国人基幹社員様の寛大なご厚意に甘えて、お目汚しのうえ御靴を少しの間お借りする』のである。
その体裁上、昼の休憩時間に行われるのだった。
通常、基幹社員が昼食から戻った後―彼女ら/彼らにはたっぷり1時間15分のランチ休憩タイムが認められていた―自席で午後の業務が始まるまでの間、スマホをいじったり雑誌を読んだり仲間内で談笑していたりするところに、平身低頭で近付いていき、
「お休みのところ失礼致します。お靴を磨かせて頂けませんでしょうか?」
と、申し上げるのだった。
「よろしければお靴を磨きましょうか?」ではなく、「お靴を磨かせて頂けませんでしょうか」あるいは「お靴を磨かせて下さい」という、お願いの体裁なのである。
いや、体裁だけでなく、羽柴は本気で、『お靴磨きの技術向上と鍛錬のためにお願いしてお靴を磨かせて頂く』と、真摯に、真剣に思っていた。
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