受付2
今まで口を開かないでいたジェガンが腕時計に目をやる仕草を見て、ユリがちょっとだけ慌てた様子で言った。
『いやだ私ったら、、ご紹介がまだでしたね。この方が私の上司、ハン・ジェガン営業企画部長』と、もったい付けたように羽柴に言った。
そう言われても羽柴は眩しそうな顔つきをするだけで、ジェガンの方を正視することができなかった。
それからユリは羽柴を指差し、ジェガンに可愛く向き直って『噂のボランティアくんです(笑)。。名前は、えぇーと、、なんだっけ』と、ジェガンの前でわざと見え透いたドジっ娘を演じるかのように少し舌を出した。
羽柴は小声で『羽柴です』と答えたが、その声はジェガンと受付嬢の真美の笑い声にかき消されて、三人には届かなかった。
ジェガンが笑いながら、羽柴に『お名刺はお持ちでしょうか』と言った。
すぐ後にユリが笑って『部長ウケるー。この子がそんなもの持ってるわけないじゃないですか』と言った。
ひととおり女たちの笑い声が収まってから、ジェガンが『お噂はかねがね伺ってますよ。お金も定職も無いのに我が社のK-POPアイドル恋しさのあまり、会社の周りをボランティアで清掃しているなんて…日頃のご愛顧に感謝です(笑)』
真美はジェガンが言った羽柴のその来歴を知らなかったので、『うわキモ』と露骨に驚いてみせた。
一方、ユリは得意げに、ジェガンの言葉に頷いた。ジェガンに対して、「ね、彼って面白いでしょ。私が見つけたんですよ」と言わんばかりだった。
そして得意げのついでに、羽柴に対してこう言ってやった。
『名刺代わりに、何かボランティアらしいことしてみなよ』
羽柴がまごついていると、今度は真美も乗っかって、
『床磨きなんてどう? ホラ、部長の足もと、ちょっと汚れてる』
◆◆◆
羽柴は訳の分からないまま、小刻みに震えながらジェガンの足許に膝を付き、ポケットから安物のハンカチを取り出して目の前の床の大理石の表面を擦り始めた。
ジェガンはわざと足をどかさず、むしろちょっと覆いかぶさるように羽柴の頭上からその作業を見下ろした。
ぎこちない羽柴の手元もさることながら、彼の後頭部に群生する無残な白髪がみすぼらしくて印象的だった。
『ついでに部長のお靴もお磨き申し上げたら?』ユリが面白がって過剰な丁寧語をデコレーションして言った。
羽柴は言われたとおりに目の前にある部長の靴も磨いた。
彼は言われるがままだった。
その様子を、3人が正三角形に取り囲みながら見下ろしていた。
ロビーの端だったし、そもそもロビーに人影がまばらだったので、この3人(+足許の1人)の様子は誰も気に留めない。
『クスッ。こいつ床を磨いたハンカチをちゃんと折りたたんで、床と違う面で部長の靴を磨きましたね』とユリがジェガンに耳打ちした。
ユリは羽柴の「床を磨いた面と同じ面で部長様のお靴を磨いては失礼だ」という配慮を認めたのだった。
『・・・こいつ、よく分かってるじゃん』とその様子にジェガンも満足げだった。
それから『ついでにこっちもお願い』と、ユリも半歩足を突き出して、彼に靴を磨かせた。
『私のもお願いね』と、もちろん真美も続けた。
◆◆◆
羽柴は三人の靴を、それぞれほんの少し磨いただけで、いつものボランティア清掃の何倍も疲れてしまった―それは時間にして10分前後の、ほんの形だけの労役だったのだが。
『そろそろ本題にいこうか』ジェガンが、もう一度腕時計を見ながら言った。
黙々と真美のパンプスを磨いていた羽柴が、ジェガンの声に気付かずにいると、
『ホラ、部長の仰ったこと、聞こえないの?』イライラした様子でユリが言い下した。
『いつまでやってるつもり?』
それに呼応して、真美がジェガンの足許に蹲る彼の背中を、脛で「グイッ」と押すと、彼の体は頼りなげにぐらぐらと揺れた。
羽柴は茫然とした、焦点の定まらない視線を泳がせながらなんとか立ち上がって、ロビーの出入口へ向かって重い足取りで歩き出した。
日頃の「ボランティア」を披露することで、この『神々』にささやかな笑いを提供するためだった。
◆◆◆
それから1年半経った。
羽柴は今ではKSM東京本社勤務の韓国人正社員で知らぬものはいないくらいの有名人になっていた。
彼はまだ夜も明けきらぬ午前4時に『出社』し、当初から続けているビル周辺のゴミ拾いと清掃を行う。
一年半前はそれで終わりであったが、今ではむしろここからがスタートで、その後、彼はまだ暗く、だれもいないロビーに入り、その大理石の床全体―受付嬢の視線が届く隅から隅まで―を、雑巾がけする。
雑巾以外の道具を使うことは許されていない。
モップや箒のような、立ったまま掃除ができる道具を使うことは、彼には不遜で出過ぎたことである。
彼には四つん這いの姿勢で『心を込めて』作業できる雑巾こそが、相応しい相棒であった。彼の滅私奉公の精神を具現化する触媒だった。
彼の出社から実に四時間近く遅れてロビーの床を踏む『受付嬢様』が、彼のこのロビー清掃という修業的苦役の監督者であった。
羽柴は出社してきた受付嬢様に走り寄ってその足許に土下座し、
『お早う御座います、○○様! 本日は4時**分に出社して、外とロビーのお掃除を致しました。チェックをお願い致します!』と、受付嬢が立っている地面に向かって絶叫する。
この羽柴の『土下座朝礼』を受ける受付嬢は、日によって―受付嬢の間の業務シフトによって―異なる。真美の時もあれば、彼女の後輩のもっと若い受付嬢の時もある。
『土下座朝礼』を受けた受付嬢は、だいたい面倒臭そうに、足許の羽柴の頭頂部をパンプスの爪先で小突いてやる。これが朝礼に対する返答である。『よし』・『OK』のスタンプのようなものだった。
いちいちチェックするまでもなく彼の床磨きは完璧なので、習慣的にそうする受付嬢が多い。
受付嬢によっては、あるいは彼女のその日の気分によっては、『ご苦労さま』とか『お疲れさま』とか、生声を掛けて下さることもある。
それは羽柴にとって望外のヨロコビとなる。
ごくごくまれに、受付嬢様が、ハンドバックの中から、個装のチョコレートやキャンデーを一つ、床に落として頂ける場合もある。
ご褒美だ。
このご褒美を賜った時の羽柴は、それこそ感涙にむせんで、身もだえするくらいの喜悦を感じた。
◆◆◆
受付嬢の爪先によるキックは、『よし』『OK』の合図であることは前述したが、それは『帰ってよし』の意味ではなかった。
むしろ『今日の奉仕を初めてよし』の意味だった。
彼の(主)奉仕は、KSM社基幹社員様の御靴磨きだった。
彼は、受付嬢から後頭部を爪先で小突かれると、『ありがとうございます!』ともう一度絶叫し、かといって感慨に浸る暇もなく、腰のポシェットから道具を取り出して、本日一人目の奉仕相手である受付嬢様のパンプスを磨き上げる。
左右の靴を、丁寧に、かつ迅速に、磨き上げる。
全身全霊を掛けて磨き上げる。
羽柴は、靴裏まで、ほとんど舐められるくらいに―否、舐めたくなるくらいに―磨き上げた。
それから三々五々と出社―羽柴は『ご来光』と心の中で言っていたが―してくるKSM社基幹社員の方々で、希望される方の御靴磨きをさせて頂くために、ロビーの端の一角をお借りして、小さな『ブース』を設営する。
まず清潔に保たれた簡易な椅子を鎮座し、その前に足置き台を置く。
その横で三つ指をつく。
そして、優雅にご来光あそばす韓国人の基幹社員様方―神々―に対して、『おはようございます!』『御靴を磨かせてください!』を、交互に連呼する。
過去一度、入社志望のリクルートスーツ姿の女子学生のパンプスを磨かせて頂いたこともあったが、普段、朝は面前を通り過ぎる『神々』も余裕がないので、10柱、御靴磨きできれば良いほうであった。




