自由1
初夏の東京はよく晴れていて、時折吹く柔らかい風が二人の髪の毛や衣服の端を静かに揺らせていた。
この日のランチは、ジェガンにとって、いわば小さな『冒険』だった。
よく知らない会社の女性部下と二人きりで食事して、その後には、さらにもっとずっと『よく知らない』日本人のファンと会い、話をすることになっていた。
確かな冒険的高揚の予感が、彼の心をわくわくさせていた。
ジェガンにとってユリは会社の部下だったが、彼は彼女のことをあまりよく知らなかった。
―すごくもったいない。
と彼は思っていた。ユリのことをあまり知らないこと、依然社で親しい人間関係を構築できていないことを、もったいないと思っていた。
『日本軍将校の彼氏がいる』という噂は、聞いたことがあった。
しかしそんなことはジェガンにとってさほど重要ではなかった。
より重要なことは―彼が会社の上司として重視すべきことは―ユリは在日韓国人で、国籍は韓国でありながら、生まれも育ちもこの日本だ、ということだった。
そのことをジェガンは知っていたし、そして純粋な韓国人が在日韓国人を『パンチョッパリ』(=半分日本人)と蔑視する風潮が、一部であることも当然知っていた。裏返せば、在日韓国人も純粋な韓国人に対して、無意識的な反感があるのかも知れない(あくまで一般論ではあったが)。
ともかく、彼女が、自分のルーツとアイデンティティについてどう考えているか、それをジェガンが知る機会は、今まで無いままだった。
この日、特に深い考えもなく、『羽柴』と会うことになったことを、彼は奇貨と考えた。昼食を食べた後、会社で、三人で話をすることになっていた。
羽柴に対して、ユリがどんな態度で臨むのか。。。ジェガンは、羽柴をいわばリトマス試験紙として、ユリの国家観のほんの一端でも垣間見ることができたら・・・そこまで行かずとも、ユリの会社に対する忠誠心の向上に資する有用なポイントを、何か探ることができたら・・・。そう考えていた。
◆◆◆
昼食はユリが何度か行ったことがあるという、会社からゆっくり歩いて15分ほどの距離の『多国籍料理』店に行くことになった。
ジェガンは『多国籍料理』という語を見聞きすると、いつも「世界中のあらゆる料理はそもそもすべて多国籍ではないか」というトートロジーに感じられるものだったが、今日は何かその不思議で、幾分インチキ臭い語感が、この日の冒険的な気分に合っている気がして、悪くない、と思った。
「こんなに晴れた日は、外で野球でもしたいですね」とユリが独り言のように言った。
会社を出て五分ほど経った頃で、二人は、人通りの少ない小さな公園脇の歩道を並んで歩いていた。
「私、二塁打が打ちたいです。左中間を綺麗に裂いて、スライディングしなくても、立ったまま二塁まで行けるくらい大きな当たりのやつ。。そんな二塁打が打てたら、すっごい気持ち良いだろうな、って思いませんか?」
それから唐突に、凄く大事なことを言うみたいに「部長も、難しいことは考えないで下さい」と、変にはっきりした口調で言った。
確かにこの日は、ほとんどパーフェクトなほどに気持ちの良い快晴の初夏だった。
雲一つない一面の青空である。―こんな日に、仕事の一環とは言え、どこの馬の骨とも知れない不潔な倭奴と会社で会わないといけない、ということが「なんだか汚されるようで不似合いだ」とジェガンが感じるくらいの天気だった。
ユリの言った戯言に応えて、ジェガンも、
「二塁打を打って、次打者のヒットでホームに帰ってこれたら、もう言うこと無しだな」と言うと、ユリは、「まちがいないですね」と言って、またしても唐突に、さっと腕を伸ばしてジェガンの手を握った。
ジェガンはそのまま受け入れて、ユリと手を繋いだ。
そうして手を繋いだまましばらく歩いた。
ユリはときどき空を見上げて、そこにある抜けるような晴天に眩しそうに目をやった。
それから、「私に短詩の才能があったら、この空のかんじを素敵な詩にできるのに」と、またしても独り言のように言った。
この娘のしゃべり方の癖なのかもしれない、とジェガンは思った。
ユリの左手はジェガンの右手に繋がれたままだった。
ジェガンはしばらく考えた。
時間にして五秒くらいだろうか。
そして、
『「野球がしたいね」と君が言った7月8日の空は青い画用紙』
と、敢えて日本語で言ってみた。
言ってから、―なんだかすごく子供っぽいな・・・と、恥ずかしさで顔が赤くなった。
ジェガンは日本語で何かを言うと、それがなぜかいつも子供っぽい日本語になった。
気付いたら、ユリはジェガン以上に顔を赤くしていた。
「ちょっと部長・・・何ですかそれ。。私のこと好きなんですか? しかも急になぜか日本語・・・」と、大人びた韓国語で言ったが、そのクールで大人びた口調とは対照的に、ジェガンの感じる彼女の手の力はまるでしなびた風船のようになっていて、そのくせ掌からまでも、ユリの体温の熱さが感じられるほどだった。
―ジェガンは、かつて日本近代文学の始祖と言ってもいい歴史的巨人が、「I love youは日本語では『月が綺麗ですね』とでも訳しなさい」と言った(らしい)、ということをもちろん知らなかったが、ユリは知っていた。知っていたというより、その日本人的奥ゆかしさが、良い意味でも悪い意味でも、血と肉の一部になっていた。『毒されていた』と言うと非常に語弊があるかもしれないが、とにかく、彼女がこの『国』で生まれてから四半世紀以上の歳月は、確実に彼女の一部になっていた。
一瞬、ジェガンの詩の『奥ゆかしさ』を変に拡大解釈して、過剰反応して顔を赤らめたのはそのためだった。
と、同時に、彼女は、それを―無意識下にある日本人風の感性的なカタヨリを―冷静に客観的に制御する強さも持っていた。
「いやいやなかなか、、、広い左中間の芝生の上を飛んでいく白球と、青空のグラデーションが思わず目に浮かぶ秀歌ですね。私も負けてられないですね」と言った時には、彼女は持ち前のクールさを取り戻していたようだった。
彼女は二秒間だけ考えて、たっぷりと茶目っ気を込め、
『「二塁打が打ちたいね」と君が言った7月8日のナゴヤは青いカズヨシ』と日本語で言った。
むろんジェガンの詩の「本歌取り」になっていて、『画用紙』と『カズヨシ』は韻になっていた。
そのあと、いちおう韓国語で「すごくたくさん二塁打を打った日本人野球選手がいたんです。青は彼のチームカラーなんです」と説明すると、ジェガンは大いに笑った。
「・・・君はナゴヤの出身だったね」
「はい、アイチ県のカリヤ市です」
それからユリは声を出さずににっこり笑って、先ほどとは違った意味での『照れ』を隠すように、ジェガンと握った手を前後に大きくブンブンと振った。




