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厨二

こんなふうに出会いたくはなかった・・・

何かが間違っている・・・・


衆人の面前での『うれション』という前人未到の失態の渦中にあって、羽柴の胸に去来するのは海のように深い悔恨だった。


後年、『忠犬シロ』と呼ばれ、その献身的な主人への―ハン・ジョンファと大韓女権帝国陸軍への―永きにわたる盲従と滅私奉公ぶりが、戦後、美談として小学校『道徳』の国定教科書に記載されるまでになる羽柴秀志朗も、この初めての邂逅の時と、その直後の数ヶ月間は、深い悔恨でこの瞬間を思い返すこととなる。


◆◆◆

このとき24歳の羽柴は、ジョンファのことを手の届かない、住む世界の違う異次元の存在だと自らに言い聞かせながらも、心のどこかで、『ジョンファに会いたい』・『しかもできれば相手に最低限には敬意を持ってもらえるようなシチュエーションで会いたい』という、身の程を超えた夢を抱いていた。


その『夢』は、羽柴が―二浪の末―韓協大学韓国語学科に入学した4年前のころから、まるで残留水銀のように、彼の体内に蓄積されていった。

それは、決して叶わぬ、見果てぬ夢となり、暗い願望となり、妄想となり、羽柴の心根を蝕んでいった。


その『蓄積』が始まったころ、当時の彼【20歳】にとって、その夢は、あくまで、ファンとアイドルという『数万対一』のような構図ではなく、双方向の、そして互いにある程度の敬意を持ちうるようなシチュエーションでの出会いであった。

日本のアイドルがよくやる『握手会』などは、むしろ虚しくなるだけだと、問題外だと彼は思っていた。

(どちらにせよジョンファの所属するアイドルグループ『WHIPs』は、日本においては、握手会のようなファンとの物理的距離が近くなりすぎるイベントを―非日常的な隔絶感・『高嶺の花』感の維持という―戦略的意図から絶対にやらなかったが。)


彼は入学直後の当時、その『ありうべき』架空のシチュエーションを、文字でノートに書き記す、ということまでしていた。

たとえば、自分は大学卒業後に大手出版社の編集者になり、一流の韓流アイドルであるジョンファにインタビューする機会にめぐり合う。日本の大手雑誌を背負ったプロのインタビュアーとして。

あるいは、大企業の宣伝部門で働くスーパーサラリーマンになって、ジョンファを会社のCMに起用することになり、その打ち合わせで彼女に出会う。


もちろん、いずれの場合も彼は韓国語を完璧にマスターしている。加えて、それなりに大きなバックボーンを持っていて、年齢も7歳と適度に年上な彼は、ジョンファから一応の敬意を持って接される。

そして『実は昔からの大ファンなんです』と彼女にそっと打ち明けるのだ。


そんな妄想を、夜な夜なアパートの一室で、大学ノートに小さな汚い字で書き綴っていた。

いつもため息混じりにジョンファのブロマイドを見つめていた。


しかしいつからか、羽柴はその客観的な惨めさに耐えられなくなった。

「こんなことをやっていては駄目だ」


常人なら、そんな戯言でよごれたノートは―いわゆる『厨二病』の断末魔として―破り捨てて、現実的な、身の丈にあった日常に帰っていけばいい。

アイドルオタクなんてやめて、(あるいは戦線をうんと縮小して、健全な趣味人となって)、大学をちゃんと卒業し、普通の会社に就職して、自分とつり合いの取れた―もちろん日本人の―女の子を探して、恋愛して、結婚すればいい。

それがいわゆる『成熟』である。

ちっぽけに見えても、そういう無数の常人が、日本という国を屋台骨として支えているのである。

そんな常識への回帰は、諦めでも、変節でも、ましてや敗北でも、決してないはずである。


しかし羽柴はそう出来なかった。彼は、さらに前に進むことを選んだ。後ろに向きを変えることは出来なかった。

「こんな中途半端な状態でとどまっていては駄目だ」そう思ってしまった。


それは、天の太陽をフィルターの付いていない望遠鏡で見ようとすることに他ならなかった。

太陽から目を背けることが出来なかったのだ。


◆◆◆

常人のレベルまで撤退するには、彼の『憧れ』は強すぎた。

手が付けられなかった。


彼の『憧れ』―ハン・ジョンファという一人の韓国人少女に対する巨大な『憧れ』―は、彼をそんな常識へ復帰することを許さず、心の内なる炎と化し、さらなる燃料と可燃物を求めて貪るように肥大化していった。

そして彼の心身は無力にもその炎に呑み込まれていく運命だった。


彼は進級に必要な最低限度の勉強も、現世的な人付き合いをも拒否するようになり、ただひたすらに『憧れ』の存在を美化し、神格化し、見境なく、前後不覚なほどにストーカー的妄執に取り付かれていった。

膨大な金と時間をそれに費やし、捧げた。『費や』して、『捧げ』られるものは、何でもそうして犠牲にした。

常識的な羞恥心までもが犠牲にされて、『芸術品』と称してマネキンをこさえたり、変態的なタトゥーを体に入れたりするに至った。


天におわす憧れの存在に、『ジョンファ様ぁっ! 神さまぁっ!』と届かない叫び声を発し続ける、文明の遅れた未開の土人。それが羽柴の内なる姿だった。

そうしないと―そうし続けないと―、彼は心のバランスを取れなくなっていた。


そしてある日、やはりというか案の定にというか、破滅を迎えることになった。


絶対的な『憧れ』の面前、かつ衆人環視の中で、彼は子犬のように『うれション』を漏らしてしまい、それが彼が倭奴として堕ちていくスタートとなった。


◆◆◆

腹を抱えて笑うミリが、ふと、何かに気付いて笑うのをやめた。

『ねぇジョンファ、、、何か変な匂いしない・・・?』

周りのスタッフも、何人かは彼の「異変」に気付いていた。

そして促されてジョンファも、笑うのをやめて鼻を利かせた。そして足許の男を見た。


男の履いたジャージのズボンは、その股間を中心とする広い部分が暗い色に変色し、さらにそこからポタポタと、床にしずくが滴っていた。

ジョンファは一瞬で何が起こったか理解した。そして黄色い悲鳴を上げた。ミリも続けて金切り声を立てた。

その後は、嘲りとそしり笑いが、まるで洪水後の浸水のように続いた。


『きゃぁっ! たいへん!! こいつ漏らしてるぅ!!』

『きゃぁーっ! ウソでしょ?! きゃぁぁーーっ(笑)』

『ちょっと、カメラさん! ここ! ここ! ちゃんと撮ってよ! たいへんよ!』

『警察? 消防? 呼んで(笑)!! きゃぁーーっ。オトナが漏らしたぁー!! 恥ずかしい!!』

『この子に、お・む・つーー! 大・至・急ぅーー!』


とりみだすフリをしてこのシチュエーションを―哀れな日本人ファンの不具を―楽しみ続ける二人に、ようやく女子アナ[キム・サラン]が割って入った。『お見苦しいところをお見せしています。どうやらニッポンの馬鹿なファンが、二人に会えた嬉しさから自分の部屋でおしっこを漏らしてしまった模様です。現場はヤバいくらいの笑い声に包まれています』生配信のカメラに向かって言った。


カメラの向こうには無数の韓国市民がいる。若い女性層を中心とした、善良で健全で―いくらか裕福な―WHIPsのファンたちである。不特定多数の、良き『村人』たちである。


羽柴は、将来彼女/彼らの共有奴隷として、韓国の下層民として使役させられる人生を歩むことになるなどもちろん知らない。予想もしていない。

いまは、とにかく空前絶後の『嬉しさ』に、無力に身を委ねているだけだった。


もはや彼の人生は二人の女が握っていた。彼を生かすも殺すも彼女らの胸先三寸しだいだった。

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